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    copperzipper

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    ヒョウスパ♀小説
    !女体化  先生とjkの話(とりあえずここまで)

     ひとりひとりに配られたシャーレの中に、先生が今日のために愛情を込めて育てた土壌線虫がいるといわれても俺たちにはぴんとこない。指示されるがまま、ピンセットでシャーレから取り出した茶色の塊をプレパラートの上に寝かせ、殺しませんように、と何度も口の中で呟きながらごく弱い力でカバーガラスを被せる。指を離したと同時にため息が出ていた。慣れない作業は緊張するし、慣れた作業は安心する。手早く顕微鏡にプレパラートを設置し、レンズの位置を調節していく。ピントがぴたりと合う。一度顔を上げ、また覗いてみるが、やはり床にこぼした味の薄い珈琲のように汚く広がったものがあるだけで、黒板に描かれたものとは程遠い。長い腕と長い指を大きく使って先生が描く図はいつも大味で、口頭の説明よりも参考にならないことのほうが多いが、そんな図よりも酷い出来を俺は作ってしまった。殺してしまった、と思った矢先にスリッパの薄っぺらい足音が聞こえた。
    「どう?うまくできた?」
    「……たぶん、失敗しました。ごめんなさい」
     先生が態度を変えることはない。進んで手を挙げる生徒にも、調理実習で作ったマフィンを手渡してきた生徒にも、居眠りをする生徒にも、赤点を取る生徒にも、変わらない笑顔と声色で平等に接する。俺が身を引いた分だけ体を寄せて顕微鏡を覗き込み、そうだねえ潰しちゃったね、と呟いた今ですらにこにことしている。
     袖口にほころびのある白衣を翻して教壇に戻り、すぐに戻ってきた先生は新しいシャーレを持っていた。先生の中指の長さにも満たないピンセットと、先生の爪の厚さにも満たないプレパラートを器用に扱い、先程俺がたどたどしく行ったことを先生がとてもてきぱきとやっていくのを、俺は丸椅子の上で大人しく見学する。普段は俺よりも鈍臭いくせに、そんな八つ当たりは口の中で飲み込む。
     見てごらん、と先生に促され、俺は再び接眼レンズに目を近づける。
     生き物と呼ぼうとしてもつい口籠ってしまうほどに歪なものが星のように点々と並んでいた。糸くずのようなもの、蜘蛛のようなもの、蕾のようなもの、などなど、色々な形が体のどこかをちろちろと忙しなく蠢めかせつつもその場にぴたりと止まっている。間を埋めるように飛び散っている丸いものは、すべて卵だ。プレパラートを動かし、その卵を順番に見比べながら、十分前に受けた先生の説明を反芻する。受精卵、細胞期、多細胞期、受精卵。健気に呼吸を繰り返し次々と子孫を残したところで、結局、硝子に閉じ込められた彼らの役割は、加減を知らない俺たちに圧し殺され、或いは先生の手によって全身を柔らかく押しつぶされることだ。まばたきを一度して目を潤し、観察を再開する。右端にいる一匹がすっかり動かなくなっている。
     先生に見守られながら、スケッチを終わらせる。ノートを一瞥し、上手だね、と笑いながら先生がまた俺に顔を寄せたので、俺はすぐに椅子を引いて顕微鏡を譲った。先生は覗き込まなかった。黒黒とした眉尻を下げ、フレームもレンズも分厚い眼鏡の奥にある目を使って俺を見つめた。目が合う。どくり、と心臓が揺れる。線虫の一生分の鼓動を集めても、きっと、俺の心臓が鳴らすたった一回分の音にも満たない。先生に聞こえていないようにと祈りながら、きゅ、と唇を噛んで視線を下げた。俺の白い上履きと、先生の黒いスリッパのつま先が身動きもせずにそこにある。
    「こういうの、女の子は特に嫌だよね。ごめんね?」
    「……先生が謝ることじゃないです」
    「うはは、ありがと」
     悲鳴にも近い甲高い声が教室の隅から先生を呼んだ。背筋を伸ばし、なあに、とのんびりと向かっていく先生を見送ってから、俺は顕微鏡と向き合ったものの、覗き込む気にはなれなかった。未だに顕微鏡の調整に苦戦している同級生に、軽口を叩きつつも手伝ってやることで気をそらした。






     小学三年生のとき、俺の顔を笑った同級生全員の親の職を奪い遠くの土地へ引っ越しさせた。中学一年生のときは俺の運動音痴を叱った教師に適当な罪を被せて懲戒免職させた。すぐに思い出せるのがそのふたつというだけで、他にも色々とやった。今にして思えば派手が過ぎた、粛清や報復はもっとひっそりと行うべきものなのだ、と反省する程度には大人にはなれたが、俺が進学した高校の教師陣は、俺が大人になったとは認識していない。権力と財力のある過保護な父親を持つ十五歳の少女がいつ癇癪を起こして理不尽に周囲を傷つけてしまうか、まだ俺が入学式も済ませていない時点から警戒し怯えていた。いい心がけだとは思う。だが、一生徒の機嫌取りのために学校一若い教師を生贄にするという結論に、大人一同が至り実行したのは、あまりに滑稽で呆れる話だ。その決定自体が俺の神経を逆撫ですることになると想像はつかなかったのだろうか。しかしいざ蓋を開ければ、俺はよく怪我はするが頭のいい女子生徒のまま十八歳になり、高校生最後の夏を迎えようとしている。俺自身が精神的にもある程度成長したお陰ではあるが、学校の目論見通り、先生の存在が強かった。
     先生は、三年前も今と変わらない笑顔を浮かべて、僕と友達になってくれる、と俺に声をかけてきた。そうしてほしいんだって、と嘘をつくこともなく簡単に大人たちの浅ましさを白状した先生に好感を持てた。子供よりも馬鹿馬鹿しい思いつきができる大人を笑いたくなった。己の保身のために他人を犠牲にできるその薄情さにぞっとした。災厄扱いされている事実を突きつけられて密かに傷つき、大いに腹が立った。きっとこの男も、こんな面倒事を押し付けられた上にいずれは俺の逆鱗に触れて職も人生も理不尽に奪われるのだろうなと同情した。そもそも俺にはずっと友達というものがいなかったし、友達になろうと声をかけられたこともない。真新しいセーラー服に袖を通した俺に父の次に笑顔をくれた、十も歳上の男で友達というものを知ってみるのも悪くないと思った。
     いいですよ、と答えた。
     俺が素直に応じたのは、先生にとってもさすがに意外だったのだろう。先生は、春の花よりもよく笑い、折り紙よりも千差万別の表情を作れる人だが、目を丸くしてきょとんとする、まさに鳩が豆鉄砲を食ったような顔は、今のところそのときの一度しか見たことがない。その一度も一瞬だった。先生はすぐに、よろしくねと破顔した。しおれた桜の花びらを何枚も頭に乗せていることにも気づかない、若い男。これが俺の初めての友達、と口の中で反芻する。白衣が柔らかくはためいた。悪くない、ともう一度思う。
     つま先立ちになって、髪をとかすように花びらを取ってやった。
     人の少ない裏庭で綿毛を吹き飛ばし、自分の弁当箱を真っ白にした先生の情けない顔に笑う。色とりどりの漫画や小説や映画を教えてくれたお返しに感想を伝えると、先生は楽しそうに頷いた。放課後に生物準備室を訪れる俺のために、先生はドリップコーヒーを棚に買い置きするようになった。家族のこと、昔のこと、今のこと、先のこと、好きなこと、嫌いなこと、勉強のこと、面白みもない俺の話を先生はいつも静かに聞いた。同級生たちのように町中を歩くことはしなかったが、かわりに先生の家でゲームをしたり映画を見たので十分だった。ついに俺の担任になることもなかったが、先生は誰よりも俺のことを知ってくれていた。向日葵のように屈託なく笑い、秋桜を揺らす風の声で俺の名前を呼び、氷の張った水たまりに一緒に足元を取られて転けた。他の生徒や教師と話している最中でも、俺に気づくと先生は必ず視線をくれた。高い背丈で夕暮れを遮りながら家まで送ってくれた。
     どんぐりの群れのような同級生、俺の顔色を窺う大人、ケーキのように優しく甘い父、歯向かわない使用人。その誰よりも、先生は俺にしっくりと馴染んだ。糸くずの目立つ白衣から匂う薬品の匂い、ぺたぺたとスリッパを鳴らす歩き方、教科書を読み上げる声の穏やかさ、長い指には不格好な短い爪や、真夜中に柔らかく降る雨のような眼差しも、ぜんぶが好きだった。ただでさえ扱いにくい年頃の子供ばかりで、更に腫れ物でしかないはずの俺にも臆せずに正しく平等に接してくれるところも、友達でいるときはわかりやすく特別扱いしてくれるところも、好きだ。
     先生が好き。
     笑いかけられると肌が赤くなって体温が上昇する。優しくされるたびに息がうまくできない。名前を呼ばれると目が潤んで顔を上げられなることもある。気がつけばそんな有様になっていて、最初は病気にでもなったのかと疑って先生を避けた時期もある。ある日テレビに映った古典映画に答えがあった。テレビの中の女は潤んだ瞳を隠そうともせずに男を見つめていて、そうか、と俺は急に合点した。先生が好きだから、俺の目は潤むのだ。俺は、生徒としても、友達としても、女としても、あのひとを好きになっていたのだ。先生が、好き。時に父が踊るように俺に向けてくれる以外は、紙の上やテレビの中でしか見聞きしてこなかったその言葉を、男が女に囁く言葉を、女が男に欲しがる言葉を、先生の顔や声を思い出しながら口に出してみると、急激に心臓がうるさくなって息がしづらくなるからやめた。そう、自覚は幾らでもしていい。でも意識してはいけない。想像も、期待も、求めるのも、縋るのも、乞うのも、駄目だ。先生と俺は、友達ではあるが、その友達という枠も大人たちが用意した囲いで、先生はクラスメイトのひとりのように俺と仲良くしてくれるが、結局は仕事の一環として仕方なく付き合ってくれているにすぎない。囲いが取り払われたら俺たちはたちまちに教師と生徒に戻るし、俺が高校を卒業しようが本質に変化はない。
     わかっている。
     ある日、開けっ放しになってきた校長室の扉の隙間から先生の顔を見た。君はよく我慢してくれてるあともう少しで卒業だから云々と語る声を、先生は愛嬌に満ちた顔で行儀よく聞いていた。俺はすぐにその場を離れた。
     そもそも初恋は叶わないものだという。そして先生は、昔の話とはいえ、俺が散々他人を傷つけた悪い子供だと知っている。逆立ちしたって好きになってくれるわけがない。結末の尽くがわかりきっていることに泣いたり怒ったりと、労を裂く必要はない。薄い長方形の中で初めての恋を捧げあった男女は最終的に別れた。俺は口を閉ざし、先生を一番の思い出にして、大人になっていく予定にしている。わかっている。今日もきちんとわかっている。大丈夫だ。俺はいい子になれる。
    「こんにちは。受験勉強?期末テスト終わったばっかりなのに、えらいね〜」
    「先生、」
    「今はヒョウ太でいいよ」
     集中しすぎたのか、窓から差し込む光は橙色に変わっている。更に、いつの間にそこにいたのか、先生はいつもの白衣を脱ぎ、襟元の縒れた長袖と色の褪せたジーパンという出で立ちでリュックを背負っていた。髪の毛も相変わらずぼさぼさとしている。とても教師に見えないな、と苦笑する。
     図書室には本棚を物色する何人かと、テーブル席を使う俺のもとにやってきた先生と、うたた寝をしている司書以外に誰もいない。人気がないときに先生がそういうことを言えば、俺たちは途端に友達になる。参考書を捲り、ノートも捲って新しいページを開く。シャープペンシルをノックし、細い芯をさりさりとすり減らしていく。ヒョウ太はリュックを下ろして俺の隣に座り、テーブルに積み上げている参考書の一冊を手に取った。ぱらぱら、と風を作るもののすぐに閉じる。
    「六時まで勉強するつもりだけど」
    「待ってる。ここで見てていい?」
    「寝てろよ。起こすから…疲れてるだろ」
    「ううん、見てるよ。気にしないでいいからね」
     生徒たちが苦労する定期テストが終われば教師たちが苦労するテスト採点が始まる。にこにこ顔が得意のヒョウ太でさえ、この時期になるたびに笑顔でも隠しきれない疲労を滲ませていた。俺からすれば少しでも早く帰って寝るなりしてほしいのだが、ヒョウ太は自分の発言通り、自身の腕を枕代わりにしてテーブルに突っ伏したものの、目はしっかりと開いたままにしている。おっとりと瞼を落とし、俺を見ている。ヒョウ太の視線を感じながら白いページを黒くしていく。
     そう言えば生物の問題で聞きたいことがあった。参考書の山を崩し、いやここにはなかったなと足元に立てかけていた鞄を持ち上げる。不意に大きな手が俺の上を通って参考書の雪崩から一冊を抜き取った。他の本と比べれば明らかに小さく、厚さもない本を、ヒョウ太は不思議そうに眺め回したあと、縁の擦り切れた帯に指先を引っ掛けた。派手な色を使って仰々しく印刷された文字を読んでいることが目の動きでわかる。
    「わは〜、恋愛小説じゃん。前に僕が勧めても読まなかったのに」
    「まあ……食わず嫌いみたいなもんだったし。読んでみたら、面白いなって思えるようになってきたよ」
    「んふふ、そっか」
     小説を読むことに、受験勉強の息抜き以外の意味はない。だがヒョウ太の指摘でやや居心地が悪くなる。本当につい最近まで、恋愛小説を自ら手に取ることはなかった。いやそう言えば、今ならこれを聞いてもちょうどいいかと俺は別の疑問を訊ねることにした。
    「……ヒョウ太。ちょっとさ、変なこと聞くけど、」
    「ん、なーに」
    「処女って、男からするとやっぱり面倒くさいのかな」
    「……は?」
    「その小説読んでたら、そういうやりとりが出てきて、気になったんだ。好きな人に面倒くさがられるって、つらそうだし…早く済ませたほうがいいのかなって、最近思ってて」
    「…」
    「ヒョウ太も、付き合った女が処女じゃないほうが嬉しいんだろ?」
     初恋を自覚した瞬間に諦めたこともあり、また本腰を入れて受験と向き合う時期になった影響で、先を考えることが多くなった。受験は合格できる。その自信は大いにあるが、他の疑問や不安が無限に湧き出てきていた。そのひとつだった。大学に通い、或いは就職した先で二度目の恋をしたとき、果たして俺はうまくやれるのだろうか。特に高校生になるまでは胃に穴を開けてしまうほどに心配をかけ、今も俺を気にかけてくれている父のためにも、恋人を作り、結婚をし、家庭を持つ、そういった一般的なルートもうまく走って安心させてやるべきだと感じていた。だが俺は、ようやく初恋を知ったという幼さだ。子供ではまだ見えない大人の世界が、恋愛や性行為の経験がないという理由で初っ端から躓くようになっているのなら、クラスメイトのとりわけ派手な同性たちがそうしているように、せめて体の経験だけでも今のうちに済ませてしまったほうがいいような気がしてしまって、それ以来落ち着かない。古今東西の恋愛小説を読んでからはなおさらだ。裸になって体と体を重ねて、子供を作る以外にどういった利点があるのか、無知の俺には何もぴんとこない。それでも読み漁ったすべての物語から、女としても、生き物としても、とても大事な行為だということを滔々と俺に語りかけてくる。セックスは大事なことだと刷り込まされる。まだ若く、経験がないことが許されるうちに、早く知っておくべきだと俺の体のどこかが囃し立ててくる。この結論はきっと正しい。だから。
     考えながら何となしにヒョウ太の顔を見て、驚いた。スイッチを押さなくても笑えるのが長所の彼のはずが、今や顔のパーツのどこも綻ばせていない。くったりと伏せていた顔を上げ、俺を凝視する視線は鋭いがどこか不安定で、薄く開いた口元からは声は出ない。眉間の皺も深すぎて、一瞬誰か分からなくなったほどだ。間違えて俺の分のブラック珈琲を飲んだときすらこんな顔はしなかった。
    「ヒョウ太、」
     気軽に口に出したことを後悔した。ヒョウ太とは友達だが、俺が問題を起こさないように監視するための防波堤でもある。そして教師だ。周りに気を許した男が彼以外にいないとはいえ、生徒を守り、健全な生活を推奨する立場にある大人に振る話ではなかった。わかっていたのに、気が緩んでいた。俺は慌てて手を振った。
    「い、や、ごめん、変なこと聞いて。忘れてくれ。別に、その、危ないことはしないから」
    「……付き合ってる人、いたんだっけ?」
    「、そうじゃない、だから忘れろって、」
    「なら、好きな人がいたりして」
    「……」
    「へ〜、そうなんだ」
     嘘は間に合わなかったが、ヒョウ太がようやく笑顔を取り戻したので少しほっとする。彼はテーブルに肘を付き、幼稚園児が描くような笑顔に右手を添えて首を傾ける。
    「どんな人?クラスメイト?年上?もしかして年下?かっこいい?かわいい?優しい?ほら、教えてよ」
    「うるさい。別に、俺が誰を好きでも…ヒョウ太に関係ないだろ」
    「ええ〜、寂しいこと言わないでよ。友達なんだからさ、隠し事はなしだよ。相談にも乗るし」
     小声とはいえ延々と会話を続ける俺たちを、司書が𠮟りに来ないか縋るようにカウンターに目をやったが、老いた男は俯いたままで動きもしない。なら、と俺はシャープペンシルを置いてヒョウ太と向き合う。
    「…俺ばっかり言うなんて不公平じゃないか?……お前も教えろよ。いるんだろ、好きな人とか、付き合ってる人、」
     少し曇った眼鏡のレンズに太陽の眠気が強く駆けていく。そのせいでヒョウ太の目が見えなかった。俺を見ろすときは決まって鯨のように目を細めるあの微睡みが好きなのに、今その目が見えないことに、焦燥を抱くような、逃げ道を得て安堵するような、自分で問いかけたはずなのに俺は汗を掻いていた。誤魔化すためだとしても、どうしてよりにもよって、そんなことを聞いてしまったのだろう。俺はやはりまだ子供だ。焦ると次々と失敗する。せめてばれないようにしないと、と唇を引き締める。ばれたくない。困らせたくない。傷つきたくない。友達を失いたくない。知りたくない。
    「いいよ、内緒にしておいてね。好きな人ならいるよ」
    「……」
    「名前、教えてあげよっか?」
    「…興味ない」
     参考書、ノート、筆記具、小説。鞄の中に次々と押し入れて俺は立ち上がる。歪に膨らんだ鞄は図書室に入ってきたときよりも重く感じた。ヒョウ太ものんびりと腰を上げ、のんびりとリュックを背負った。俺の三歩分の早歩きを一歩分と少しで詰めて、結局はふたり同時に図書室を出た。
     思わず立ち止まって見惚れそうになるほどに澄み切ったガーネットに染まった廊下には誰もいない。打ち砕くように足音を鳴らしてまっすぐに進み、一階へ降りる階段を目指す。
    「まだ六時じゃないよ」
    「帰る。……一人で帰れる。ついてこなくていいから、」
     くん、と体だけが前に傾いてその先に進まない。線虫も潰さないごく優しい力が俺の手首を掴んでいた。ああこれは怖いな、と彼らの気持ちを生々しく体験した。どうせ死から逃れられないのに、花を手向けるような優しさを最期に教えられるよりは、ひと思いに潰されてしまったほうが楽なんだなと知った。
    「……」
     プレパラートとカバーガラスに挟まれて、今の俺を顕微鏡で見てほしい。先生に優しくされるたびに、こんなも息苦しくて、心臓がうるさくて、俺の内臓も骨も血もぴくぴくと震えているのを先生に隅々に見られたあとに容赦なく押しつぶされたい。でも先生は、そんなことはしない。線虫のように、俺を暴くことはしない。目を見開いて足元を必死に見つめた。斜め前へと鋭く伸びる影は細い。
    「…どうかした?」
    「……ヒョウ太は悪くない。でも、俺の好きな人のことは、もう、聞かないでくれ」
    「ええ〜?教えてくれないの?」
    「……」
    「うーん、わかった。でもさ〜、女の子がはじめてだって知って、面倒くさがるような男は、やめておいたほうがいいからね?」
     やんわりと諭されて、羨ましいな、と素直に思った。先生に好きになってもらえている誰かが羨ましい。問題児を文句も言わず引き受けて、処女を面倒とも考えなくて、先生ほど良い大人はきっといない。やはり、俺のような、悪い子供には不似合いだ。さっさと諦めてよかった。
     手を振り払うことはしない。肩の力を抜いて背筋を伸ばし、体をひねった。背中を眩しく焼かれながら見上げた先生の顔も同じ色に照らされている。今日が一等うつくしく燃えていく。夜が来る。空が変わっても、俺たちは変わらないままでいなくてはいけない。ひびが入ることも曇ることも知らない、ガーネットの友情。頭の奥が冷えていく。わかっている。大丈夫だ。
     高いところから俺を見下ろす先生はにこりと笑った。
    「そうだ。明日さ、久しぶりに僕の家に遊びにおいでよ。土曜日だし。受験は大事だけど、せっかく期末テストが終わったんだから、ちょっとは息抜きしないとね」
    「…でも、ヒョウ太だってゆっくり寝たいだろ」
    「気にしないで。スパンダムさんといるの、僕も楽しいから。ゲームしよ?新しいの買ったんだ〜。お菓子もたっくさん用意しておくから、夜更かししようね」
    「……」
    「ね?迎えに行くから駅前で待ってて。三時でいい?」
    「わかった、」
     先生はようやく手を離し、俺を開放する。帰ろうか送っていくよ、と微笑む顔が急に薄暗くなって遠ざかる。日が落ちた。
     







    (20230625)
     
     
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    copperzipper

    DONEヒョウスパ♀小説
    !女体化  先生とJKの話
    (読んでいただけるのなら ひとつ前に上げた話を読んでからのほうがいい…かもしれない)
     この学校ではバレンタインの名目で行うチョコレートの譲渡が禁止されていない。生徒間は勿論、生徒が教師に贈ることも、教師が教師に贈ることも許されていた。その寛容による被害を、男は一等受けていた。あらゆる学年の生徒や教師は勿論、日頃我が子が世話になっているからというもっともらしい理由を携えた保護者までも、男に甘い菓子を渡しにくるのである。しかし男は嫌がらない。いつも通りの笑顔に困惑を一匙加えた顔で頭を掻きながら丁寧に受け取っては即座に愛らしくラッピングされたマシュマロを渡し返した。最早周知のことで、男からの間のない返答を誰も悲嘆しないし怒りもしない。皆、答えがわかりきっていてなお、男に何かしらの好意を贈らずにはいられない。四方へ去った人間の数だけ四方から人間が増えるこの慌ただしくも複雑な環境の影響もあるのだろう。身なりはやや悪いがとかく愛嬌のある若くて穏やかな男は安直に好かれるはずだし、反して男は誰のことも好きにならなかった。生徒の悩みもくだらない世間話も等しく丁寧に耳を傾けたし、教師同士の飲み会にも参加するし、保護者の愚痴にもうんうんと頷いて付き合う。だが、蒲公英を分解してスケッチをし、あらゆる細胞を顕微鏡越しに観察し、猫とじゃれ合っては引っかかれ、拾った蜻蛉の羽を空に透かしている方がよほど好きという男だった。
    1778

    copperzipper

    MEMOヒョウスパ♀小説
    !女体化  双子ダブルカプの話
     彼らは一時間に一分間だけの口づけを許されていた。それが終わると何事もなかったように十二時の方向へと淡々と進んでいく長針を、取り残された短針が時々震えながら見つめている。恋人たちを引き裂き、二十二時が今日も無事に生まれたのを確認しておれは席を立った。あらかじめ話してあるので、誰も引き止めはせず、また来週だのお疲れさまですだのごちそうさまですだのを口々という。じゃあ、の一言で一括返信する。現時点の会計を支払い終えて外に出るなり寒さに身震いした。けれども身をすくめるよりも先に恋人を見つけたので嬉しくなる。
     おれが駆け足をするよりも恋人がやる大股歩きのほうが早い。飛び立つ前の烏のように腕を広げ、挨拶よりも何よりも先におれを抱きしめた黒いコートの冷たさに驚いた。飲み会を、十時に抜けることは事前に伝えていたし、早まることも遅くなることもないとわかっていたはずだ。なのに恋人の体は天然の冷房によって一時間分は冷えていた。名前を呼ぶ声が呆れと喜びで震えていた。ばかだな、とは続けない。仕事のため、体裁のため、交流のため、どれが理由でも人と飲み食いをし談笑をする機会はおれにとっては貴重で楽しくて嬉しい。それでもお前が嫌と言えばおれは行かない。昔のお前はおれ以外の人間ともセックスしていたが昔のおれは別にいいと許したし今も気にしていないから今更負い目を感じる必要もない。我慢しなくていい。我儘を言っていい。だというのに恋人は、嫌そうな素振りを見せないままいつも通りの笑顔でおれを送り出したあと、リビングの壁と向き合いながら寝転がってしばらく静かにしているほうを選ぶ。兄と、恋人の兄から苦情が来ているが、おれに言われても困る。恋人の決めたことだ。
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