彼らは一時間に一分間だけの口づけを許されていた。それが終わると何事もなかったように十二時の方向へと淡々と進んでいく長針を、取り残された短針が時々震えながら見つめている。恋人たちを引き裂き、二十二時が今日も無事に生まれたのを確認しておれは席を立った。あらかじめ話してあるので、誰も引き止めはせず、また来週だのお疲れさまですだのごちそうさまですだのを口々という。じゃあ、の一言で一括返信する。現時点の会計を支払い終えて外に出るなり寒さに身震いした。けれども身をすくめるよりも先に恋人を見つけたので嬉しくなる。
おれが駆け足をするよりも恋人がやる大股歩きのほうが早い。飛び立つ前の烏のように腕を広げ、挨拶よりも何よりも先におれを抱きしめた黒いコートの冷たさに驚いた。飲み会を、十時に抜けることは事前に伝えていたし、早まることも遅くなることもないとわかっていたはずだ。なのに恋人の体は天然の冷房によって一時間分は冷えていた。名前を呼ぶ声が呆れと喜びで震えていた。ばかだな、とは続けない。仕事のため、体裁のため、交流のため、どれが理由でも人と飲み食いをし談笑をする機会はおれにとっては貴重で楽しくて嬉しい。それでもお前が嫌と言えばおれは行かない。昔のお前はおれ以外の人間ともセックスしていたが昔のおれは別にいいと許したし今も気にしていないから今更負い目を感じる必要もない。我慢しなくていい。我儘を言っていい。だというのに恋人は、嫌そうな素振りを見せないままいつも通りの笑顔でおれを送り出したあと、リビングの壁と向き合いながら寝転がってしばらく静かにしているほうを選ぶ。兄と、恋人の兄から苦情が来ているが、おれに言われても困る。恋人の決めたことだ。
兄たちの話を元に、思い浮かべてみる。
立っていても邪魔なほどに立派な長身をしおしおと横たわらせ、おれの兄と自分の兄に、みかんだのりんごだのの置台にされている恋人の後ろ姿。くしゃくしゃになったつむじ。大きな足の裏。右の二の腕からころりと落ちるみかん。黄色いセーターの向こうにあるうつくしい背中に昨夜並べた八つの半月。どれもがいとおしくて、もしその場に居合わせられたらおれはきっと、たくさんの口づけをお前に落としただろう。好きだ、と思った。これまでもこれからも、おれは、お前を思って壁に向かって寝転がることはないだろう。そんなおれを、好きでいてくれるたったひとりの男。
「十時ぴったりでいいって言っただろ。ずっと待ってたんだ?鼻も頬も真っ赤だぞ」
「……うん、まあ」
「ふふ、そっか。ふふふ…おれもな、酒は飲んでないよ。まあ、あんな小さな店が出す酒ぐらいじゃあ酔いたくても酔えないけど、」
恋人の、長い髪に指を通す。夜を吸い、より黒くつややかになった髪はおれの指にきつく食い込み、それでもおれが力を抜けば呆気なくほどける。吐き出した真っ白い息もすぐに溶けることはなく、おれたちの周りを名残惜しそうに漂ってから消える。すべてを掻き集めて飲み込みたかった。おれのために冷え切ったこのかわいい男を、あたためたかった。今すぐ手袋を外し、おれの体温を分けてやりたい。でもまだ早い、と思ったし、今も暖房の効いた店内で騒いでいる職場の連中と同じ体温なんてお前はいらないだろうとも思った。だからおれはまだ手袋は脱がず、恋人を見上げて微笑んだ。
「ミックスジュースなんて久しぶりに飲んだ。おいしかったよ」
冬の夜空の下でも恋人の唇は柔らかい。重なったそこから生まれた小さなぬくもりを、差し出しあった舌でゆっくり育てていく。口端から落ちる今のおれたちの吐息は短くちぎれていて食べやすい。吸い込んで溶かしてまた作る。恋人にますます抱きついた。ひとつになりたい。甘く粘つくまでに育った熱をころころと転がし合ったあとにふたつに分けて飲み込んだ。おいしいね、と恋人は掠れた声で笑った。
わざと音を立てて唇を離す。一際かわいい形をした息が消えたあとに目に入った、おれを見下ろす瞳は星すら吸い込まんばかりに黒くて、あ、と思った。下着がぬるりと濡れる。
「ねえ、家まで我慢できない。明日お休みでしょ?ホテル行こ。君と、もっとくっつきたいよ。セックスしたい。いますぐ、したい……だめ?」
すぐに頷くと恋人はおれの頬に口づけを落とした。離れ際に、いい子、と褒められて背筋が震える。しっかりと積み重ねて作ったうつくしい骨の一線が、こんな軽い触れ合いだけで、ほどけてばらばらになってしまいそうだ。ばらばらにして、と思った。今日も一晩かけて、おれを、お前の好きな形にしてしまって。おれも、お前の背骨を真ん中まであたためるから。
スマートフォンを取り出して兄に一言だけ送ってすぐに閉じた。おれの指を取った大きな男の足裏は静かだ。小さな足の踵につけたヒールをこつんと鳴らして、隣に並ぶ。お前の左腕におれの右腕をくっつけて、手をしっかり繋いで、人気のない方へと進んでいく。時計の針がどれだけ進もうともおれたちは離れない。月が落ちて太陽が昇ろうとも、冬が終わり春が来ようともお前に熱を渡せるのはおれだけだ。不意にビルとビルの隙間に顔を出した八年前の光が青白く煌めいて、すぐに見えなくなった。
(20240113)