町で一番小さな産婦人科の前に町で一番大きな高校の学生服を着ている少年が座っている。種を落とそうと俯く一本の向日葵の下で、レンズもフレームも分厚い眼鏡の奥で黒く大きな目を輝かせながら蟻の行列を眺めている、そんな少年だった。蟻は昨日死んだ蝉を一口ずつ咥えて飽きもせずに粛々と巣まで運んでいる。アスファルトで隅々まで埋めたはずのこの道のどこかに蟻の巣の入口が存在し、すぐ足元で今も孵化しているはずの幾多の蟻の幼虫が餌を待っているのかと思うと不気味であるが、体育座りをして観察する少年に持ちかけたところできっと同意は貰えそうもない。蟻の献身的な働きによりいまや殆どの肉も体液も失い、しかし翅と腹以外の外殻はほぼ欠けることもなく寧ろ黒黒とした艶も残ってうつくしいまま、二度目の空蝉となりつつあるこの命にも手を合わせることはないこの少年は、何かを訴えるように至るところでしつこく鳴いている蝉の声にも、すっかり黄色をくすませて老いた目線を向けてくる向日葵にも、世界中の悪を見張らんばかりに厳しく照りつけてくる太陽にも、怪訝そうに少年を一瞥しては去っていく大人たちの足音にも、スポーツドリンクを片手に遠巻きに少年を見つめているわたしにも、やはり関心がなさそうだった。ただ小さな蟻たちが歪な線を長く長く描いているのをにこにこと見ている。伸びた髪と皺の浮いた制服といやに派手な柄のマスクで肌という肌を隠し、しかし汗を掻いている様子すらない。この世のものではないのかもしれない、と思いついてしまった。なにせ産婦人科の前にいる少年だ。産まれることを望まれず口ができる前に殺されたはずの赤子が実は生きていてすくすくと育っている。意外にも恨み辛みをこぼさず、誰にも祝福されていないはずなのに割と楽しく健やかに生きている。馬鹿な妄想だ。大方、母親か姉の付き添いでやってきたのを退屈で外に出てきたのだろう。
少年が立ち上がった。
自動ドアが重たそうに震えながら開き、現れたのは冷えた肌色の女だった。飾りのない青色のワンピースと白いシューズを身につけ、髪や瞳はひと月前に去ったはずの雨を思い出させる憂いの色をしていた。夏の日差しを浴びさせるにはあまりにも心配になる儚さであった。ただ細い手足や華奢な肩を笑うかのように、腹は随分と膨らんでいる。
蟻の行列を慌ただしく避けつつも少年は跳ねるように女のもとに駆け寄った。白い指先が握りしめていた黒い日傘を取り上げ、広げると八角形の影を女に差し出す。女はすっぽりと囚われる。少年はとうに女の背丈を越していた。似ていると言われると首を横に振りたくなり、似ていないと言われたらやはり首を横に振りたくなる。だが年の差があることは明らかなので、この女の腹には少年の弟か妹が丸くなって眠っているのだろう。少年は目を細めて女を見下ろした。じつに嬉しそうだった。
「名前さ、いいの思いついたんだ。きっと気に入るよ。帰ったら教えてあげる」
女は少年を見上げ、微笑んだ。その柔らかさは紫陽花のがくが泥へ落ちるときに似ていた。ふたりとも、お互いの目ばかりを覗き込んで膨れた腹を見はしない。何事かを楽しそうに話し続けるひとかたまりの影は仲睦まじくアスファルトを歩き進め、陽炎に飲まれて大きく揺れたあとに消えた。蟻たちは相変わらず虚ろな目をした蝉を夢中で貪っている。
(20230902)