アウリオンより はじまりのひと言を憶えていることは果たして幸福なのだろうか?
遡る、遡る。息を止めて記憶にひたすら潜る。
『ありがとう、キサラー! 助かったよ』
『いつも思うけどさーどんだけ暇なんだよお前〜』
『無理強いはしないさ、アンタの人生だろ?』
『学校って友だちがたくさんできて楽しいところだよ。興味ない?』
『ここを家だと思ってくれていいからね』
『こんな時間にひとりで……お母さんとお父さんは?』
『ここですこし待っていてくれ』
それは何より見飽きた行き止まり。俺という記憶と人生の始発点。それ以上前のことはなにひとつない。道中ならもう思い出せる。
『ありがとう。でも学校とかはいい。俺はやることがあるから』
それを聞いた大人の悲しそうな顔でさえも、俺の中にあるものは、どれも俺を傷つけなかった。その幸運に報いたいと思ったから、俺は人助けを片手間に始めた。
恨みとか憎しみとか、顔も見えない相手に抱きようもない。時間だけはやたらにあるので、そりゃあたまには考えるさ。何をしてもらいたくて、今も律儀に待ってるのかとか。
待ち合わせのことを知ってるのは、俺を長い間預かってくれた溝口のおばさんと、なんとなくバレちゃったサーヤ。それと……。
『言ったろ? 俺たちはまた会えるってさ』
誰より早く俺を迎えに来てくれた、そのひとだけ。
そういえば、俺は時を駆ける彼との「はじめまして」を実はまだ知らない。俺はあまり彼に問いかけない。ちょっと先の楽しみにと、色々とってあるのだ。
そういう楽しみにとんでもないおまけをつけてくるのが、時任鯨だ。どこまでも飽きさせない男で、本当に困ってしまうよ。
◇◆◇
暑い日だった。立ち寄ったジューススタンドで受け取りを待っていると、ふいに連れの男が姿を消した。右肩に掠めた重みの正体は、ぽんと軽く叩かれたのだ。店員から商品を受け取ったタイミングと運悪く重なったため、両手のジュースをそのへんの知り合いに預けた分、出だしが遅れた。
近くの路地を探すと、俺の目の高さに走り書きの真新しい落書きが刻まれている。実は全く読めない。ということは、ケイが書いたものだ。数字は入ってないから場所や時間の指定ではない。二分前の彼の行動を足すとこの短さなら「あとはよろしく」あたりだろうか。少なくともこちらの方角で合ってるらしい。
今までにもこういうことがなかったわけではない。ただ今日はちょっと変だ。日中で危険も少なく、事情を知る俺が近くにいたのに、いきなり人前から姿を消すなど。
見覚えのない地面のこすれがある。タイヤとか大きなものにしては小さいしアスファルトの傷が浅い。誰かが転んだみたいな感じだ。気配は感じないが、痕跡は確実に近づいてる。
「ケイ?」
入り組んだ路地裏は、行き止まりが多い。ここのあたりの地形は、彼もとうに知ってるはず。袋小路に逃げるなど、とことんらしくない。
ふいに、地面以外が焦げてるような、煙臭さが鼻についた。顔を上げた行き止まりでは、黒いかたまりが小さく震えている。人だし、というかケイだ。顔は見えないけど、一目瞭然だった。
(ただ……なんていうか、小さくない!?)
かける言葉に迷った。聞いてた話ならどんなに前でも十年前程度のはずが、ケイの歳から十引いてもあんなに小さくなるか?
足音を隠さない俺の一歩ごとに、緊張で小さくなっていく。縮こまったまま爆発して消えそうな命は、恐る恐る俺を見た。
「──……っ」
フードの下には見知らぬ少年がいて、俺を恐れている。俺の知らないケイが、全く知らない大人に怯えきっている。
今度こそ、かける言葉を完全に見失った。忘れられていることにショックを受けたのではない。ただ信じられない強さで殴られたみたいに頭の芯がガンガンする。
俺の行動を恐れているのは目の前の少年だけではない、俺自身もだ。
ひと目見た時から、特別だったから。彼が自分をそういう指針として見てくれるから。何よりこの世に同じ人はひとりだっていないんだと、教えてくれたから。俺にとってケイはそれ以上でもそれ以下でもない「本物」として、何があっても見間違えないと決めていた。他の誰とも重ねないという誓いをひそやかに立てていた。
その上で言おう。そこにいるのは紛れもない「自分自身」だった。中央広場で、ずっと膝を抱えていたあの頃の自分が、どうしても重なって見える。腹をくくる前の、惰性に生かされるだけの、運命に退屈する子どもがそこに居る。
はじめから決まっている。何に代えても、救わなければならないと。それは彼に対してなのか、自分に対してなのか、ごちゃごちゃしてきれいになんか言い表せない。昔もらった言葉の糸が繋がっていく感覚とともに、彼の前でしゃがみこんだ。
さすがだな。手の動きを異様に注視してる。触るのは余計に怖がらせてしまって逆効果だな。今日は両手が見えるように行動しないと。
本当は、すごく緊張していたし、実は今にも泣き出したいのは俺の方だった。
特別、望みがあるわけじゃない。
会えた時にしてほしいことも、別にない。
そんなのは──ぜんぶ嘘だった。
「はじめまして」
嘘くさい響きで、思ってもないことを言った。自分のしている表情など普段なら意識もしないけど、今ばかりはわかる。きっとあの日の、会いに来てくれた彼と、全く同じ顔をしている。
「とりあえず、ジュースぬるくなっちゃうから飲みに行かない?」
差し伸べるでもなく、手のひらを見せた。目を見開く彼にはとても言えなかった。信じられないのは、俺の方だよなんて。
大切なことの在り処なんて、どうだっていい。どこにも触れないで。何も聞かないで。こうやって、ただ、ずっと──そばにいて、優しくしてほしかった。
過去の迷路で迷子になったままの俺の前に現れたのは小さな王子様。遠いところからはるばる、俺の嘘を暴きにやって来た。
これから彼にしてあげることは、いつかの俺の望みすべてだ。俺にもできるかな。少しでもきみへの感謝が伝わればいい。たくさんの時間を経て気づいたかもしれないことを、今日俺に気づかせてくれてありがとう。
この行ないは、だれを救うことになるのだろう。きっとこれからの数日が俺たちふたりのなにもかもになる。それなら、いつもどおりにしていようかな。どんな未来でも、ケイとそうなりたいから。
何があったわけでもないけど、彼との数日は飛ぶように過ぎた。別れ際、最後に聞かれたことには「そうだよ」とだけ答えた。そう言い切ってしまうのは俺に都合がよすぎるかもとよぎったのだけど、ずるいくらいで、きっとちょうどいい。俺の好きなひとがそうなんだから、お揃いがいい。
未来の可能性になった俺は、自覚もわかないまま、正しい世界に溶けるのを待つだけとなった。恐怖も後悔もない。むしろ幸せでおなかいっぱいだ。あったかい心のまま、空気に溶けてゆくような心地が本当に幸せだった。
俺の知っている時任鯨にはもう会えない。小さいケイに教えてもらった。
それでも暇になった俺にできることは、ひとつだけ。それしかできないけど、唯一得意だと胸を張れる。
来ないきみのこと、それと世界の終わりを待ちながら、伝えたい気持ちをひとつずつ数えて並べる。俺はきみを待つこの時間すらも、ずっと愛しくてたまらなかったよ。ありがとう。