しっぽにめろつく悪役令嬢 小松田さんのどんぐり眼があたくしを見つけると、パッと光ってほにゃっと緩んだ。
「おかえりなさぁい!」
腕をぶんぶん振って、ぱたぱた走って出迎えてくれる彼を見て、あたくし思わずほろりと涙を溢してしまったの。
「えっ!泣いてる!?どうしたの、どこか痛いの!?」
あたふたと、どこにもない怪我を探してあたくしの周りをぐるぐる回る彼の、栗色の髪がふわふわ揺れてるのが、かわゆいあの子の尻尾みたいで。
嗚呼。
小松田さんて、──実家で飼ってたバカ犬そっくり!
***
あたくし悪役令嬢だったのよ。
きんきらきんの髪の毛をぐりんぐりんに巻いて、カーテンみたいなスカートにはフリルやレースやリボンが散らばって、足には歩くことなんか考えにもない殺人ヒールのガラスの靴を履いて。
派閥、家柄、領地、戦争、政治と経済にぶんぶん振り回されて、必死にしがみつくみたいにステップ踏んで踊ったのよ。仲の良いお友達は利用価値があって、嫌いな子はこっそり足引っ掛けるみたいに陥れて、あたくし可愛く賢く悪辣に生きたのよ。
パパが事業に失敗してお家が斜陽するまでは。
三歳のころからいた婚約者は秒で逃げ使用人も散り散り、蹴落としたライバルたちはお友達と扇の裏でプークスクス。しばらくしてパパとママが夜逃げした。残ったのは鈍臭い乳母と何にもわからないバカ犬一匹。
「まあ貴女。まだいたの」
「お嬢様一人置いていけません」
「ならお願いよ。そこのバカ犬連れてって」
「お嬢様」
「どんなに探したってこの家にはもう金貨一枚足りとも落ちちゃいないのよ。家財もほとんど持ってかれて、価値のあるものなんて一つもないのよ。でも」
「お嬢様」
「でも、そこのバカ犬は、とてもぬくいから…」
「お嬢様」
「この指輪はまだ売れるでしょう。どうかこれに免じて最後のお願い聞いて頂戴。あたくしまだやる事があるの。これ持ってさっさと出て行きなさい。行きなさいったら!」
あたくしは自分の手からバカでかいルビーの指輪を抜き取ると、乳母の手にしっかり握らせてその背をぐいぐい押しやった。鈍臭い乳母はほろほろと泣きながら何度も振り返って、やっとバカ犬を連れて出て行った。犬はぽかんとした顔でいつまでもクンクン鳴いていた。最後までそのかわゆい間抜けヅラ見れてあたくし本当に嬉しかったの。
さて、悪役令嬢が窮地に立たされてやることったら一つしかないのよね。
そうね、復讐ね。
これをやらずにパパとママみたいに夜逃げして、命があれば何でも良い人生なんて到底受け入れられない。やられたらやり返す、倍返しだ!全身に漲る怒りに身を任せたあたくしは、護身用に所持していた細身の短剣を持ち出して夜の街を駆けた。
可愛く賢く悪辣なあたくしは、パパがなんで失敗したのかも知っているのよ。投資詐欺よ。パパの従兄弟の次男の嫁の兄のお友達が持ち掛けた健康食品会社!帳簿上には立派な数字が踊っていても会社の中は空っぽで、人もいなけりゃ物もない、今どき杜撰で大胆な詐欺だった。
パパは本当にバカだった。
だからこれってお門違いなのよね。
けれどもあたくし悪役令嬢なので。
期待に応えて踊って差しあげるわ。
敵のお屋敷の門の隅に身を隠して夜明けを待って、パパの従兄弟の次男の嫁の兄のお友達が馬車に乗り込む瞬間狙って飛び出したわ。結果は見事に返り討ち。背中娑婆切りされて近所の崖から落とされた。
死んだと思ったわ。
ドボンと落ちて、鼻から口から冷たく重たい水が入り込んで意識を失った、瞬間、全身を強く引っ張られてザブンと水揚げされた。
「入門書にサインください!!!」
──キャン!と、かわゆいあの子の吠える声が確かに聞こえたのよ。
朦朧とした視界の中心に、抜けるような青空を背負ったいくつかの顔は、逆光でよく見えない。ふんわりした栗色の尻尾が一つ。ぴょこんと短く跳ねた黒い尻尾が二つ。モジャモジャが爆発してるドデカイ尻尾が一つ。忙しなく揺れてキャンキャン吠えている。
「オイオイオイそれどころじゃねえ!」
「おーい保健委員!来てくれ!」
「かなり水を飲んでしまっているな、吐かせるぞ」
「入門書にサイン!!!」
「おい誰か小松田さん縛って吊るしとけ」
容赦のない腹圧を感じてぴゅーっと噴水みたいに水を吐いたのが本当の最後。
***
全身の猛烈な痛みで目が覚めた。
瞬いているはずなのに視界が霞んで何も見えやしない。うつ伏せに寝ているのに気がついて身体を起こそうとした途端、背中にビシャンと稲妻が走った。「う、ァあ!」激痛に耐え切れずみっともない呻き声が上がる。
「あら、起きました?」
誰かが顔を覗き込んでくる。焦点が合わない。磨りガラス越しの世界の向こうで、栗色の尻尾がふんわり揺れている。
「えーと、今、新野先生が休憩行っちゃって……保健委員の子たちは授業中でぇ……」
自身の脈拍を感じる。何一つわからないけれど、この心臓が、どっくんどっくんと動いている。思考が戻らない。誰かからぽやぽやした口調で何事か喋りかけられているようだが判然としない。
「新野先生はもうすぐ戻られると思いますのでぇ……、えっと。そうだ!入門書にサインください!」
ずでん、とどこかで誰かがズッコケた。
「やっぱり南蛮語じゃないとわからないかなぁ?筆持てます?ここに名前……」
「こらこら待ちなさい小松田くん!」
「あっ新野先生ぇ」
揺れる栗色。ぽかんと半開きの口。乳母に引き摺られながらずっと、豆粒より小さく、遠く、見えなくなるまで、あたくしにクンクン鳴いて話しかけてくれたあの子。あのかわゆい子。あなたこんなところにいたの。すぐ脱走して迷子になるのよ。あたくしいつも探して連れ帰ったわ。パパやママはあなたがいなくなっても気付かないけれど、あたくしは、あたくしは、あなたがいないなんて一瞬でも耐えられないのよ。あたくしは悲鳴を上げる身体を無理やり起こして、手を、伸ばそうとして、指の一本も動いてないことに気が付かなかった。
「ダメですよ、まだ安静にしてないと」
「新野先生ぇ。たぶん言葉通じてないですよぉ」
「小松田くん。もう事務の仕事へ戻って頂いて結構ですよ」
「まだ入門書にサインもらってないんです」
耳鳴りがしている。何もかもが遠い。
迷子のどんぐり二つ。
「サインを…」
「ポチ」
「はぇ」
ねえ、ポチ。もう帰るお家がないのよ。