アンドロメダの青い瞳 5「アキ君!?」
姫野が叫んだ。縋るようにアキに言い募る。
「駄目!死ぬ可能性が高いんだよ!!助けられる保証もない!!」
「俺が行きます。行かせて、ください。」
「そんな………………」
アキの青い目は、揺らがぬ強い意志を宿していた。その迫力に押され、姫野は黙り込む。
「揉めるようなら、僕が行きますよ?早川さん」
そこへ、吉田が横から乱入してきた。飄々とした、静かな声。アキはすぐさま、それを拒絶した。
「必要ない」
「……僕、デンジ君の一番望むもの、大体わかってるんですよね。彼のことを良く知ってる僕が行く方が、良いと思いませんか?」
「要らない。俺が行く」
アキは吉田を一瞥もせずに言い捨てて、その長いコンパスであっという間にラインの前に辿り着いた。
「アキ君……!!」
「行ってきます」
アキは微塵の迷いもなく、容易くラインを踏み越えた。
その姿が、魔法のように一瞬で掻き消える。
デンジの夢に、入り込んでしまったということなのだろう。
「……デンジ君。望みがないって言ったのは……撤回するよ」
苦笑いを滲ませた吉田の声が、ぼそりとそこに落ちた。
♦︎♢♦︎
さすが、夢の中と言える。
物理法則も何もかも、滅茶苦茶だ。
アキは、無限に続く同じ部屋を、警戒しながら進んでいた。全く同じ部屋だが、その角度が全部いびつに繋がっている。逆さにひっくり返っている場合もあった。
――ここは…アパート、か…?
俺の、知らない部屋だ……。
その部屋は、一般的なアパートの一室と思われた。整然と調味料の並ぶカウンターキッチンに、ローテーブルとテレビ、棚が置かれたシンプルな部屋。
知らない部屋なのに、何故だか懐かしい気配がした。先程からズキズキと、頭が鳴るように痛い。
アキは長い時間をかけ、無限に続く部屋を探っていった。
――どこだ?デンジ……どこにいる?
デンジが一番に望むものとは、一体何なのだろうか。それほど彼が強く依存するものとは、一体。
吉田は『大体わかってる』と言っていた。
全く想像もつかない自分が、とても歯痒い。
アキは、デンジを知る努力を今まで怠っていたことを強く悔やんだ。
苛々して、キツく当たって。自分はまるで、初恋に惑わされる中学生……いや、小学生男子のようだった。あの心無い暴力や暴言が、一体どれだけデンジを傷つけただろう。
それを思うと、アキの心は張り裂けそうに痛んだ。しかし後悔しても、仕方がない。
――俺が命を懸けて、必ずデンジを助ける。そして、これまでのことを何度でも詫びよう。
アキは再度強い誓いを立てて、進み続けた。
通った部屋の数は、もう500を超えた。常に警戒し続けて進んでいるため、神経がどんどんすり減っていく。
いつ終わるのか、本当に終わりがあるのかも、わからない。いつ精神が参っても、おかしくない状況だった。
時間の感覚も、もうわからない。少なくとも、数日ほどは歩いている気がする。夢の中だからか、腹も空かないのだ。弱るのはひたすら、心だけである。
それでも、アキの強靭な精神力は負荷に耐え続けた。彼は何とか冷静さを保ちながら、ようやく果てに辿り着いたのである。
無限に続くと思われた部屋に、それまでにはなかったドアが出現した。
明らかに異質だ。
そこからわずかに、気配がした。
――ここに、いる。
アキは確信した。警戒して構えながら、ドアを開け放つ。
そこでアキが、目にした光景は――――ベッドで『アキ』と寄り添って眠る、デンジだった。
デンジはワイシャツを着たまま、安心しきった顔で――頬を擦り寄せ、『アキ』の胸で眠っていた。
アキの瞳孔は、それを見た瞬間に開き切った。
ガラスを直接何本も刺したような激しい痛みが、頭部に襲い掛かる。
『あれ』は。
『あれ』は――――『俺』だ。
奔流のように入り込んでくる、一生分の記憶。
家族の死。銃の悪魔。復讐。公安。マキマさん。姫野先輩。天使。死んでいった同僚たち。
かつて、ずっと暗闇の中にいた人生を追体験する。
しかしその人生最期の間際に、アキは眩しい光を見た。
パワー。
…………デンジ。
それは、間違いなく光だった。
この愛おしい光を、どうして今まで忘れていたのか、まるで分からない。
アキは激痛を堪え、何とか立ち上がろうとした。
心が叫び声を上げ続けている。それは血を吐くような、痛みを伴う叫びだった。
デンジ。
ごめんな。
待ったよな。
寂しかったな。
忘れててごめん。
ごめんな……。
アキは、ようやく立ち上がった。『自分』に寄り添って眠るデンジに、万感の意を込めて呼びかける。
「デンジ」
その一言、それだけで。
デンジは突然ぱちりと目を見開き、がばりと身体を起こした。
見開かれた三白眼と目がかち合う。
アキが大きく両手を広げて見せると、デンジは初めふらふらと、次第に早足で駆け寄ってきて、アキに縋り付いた。
「…………アキ!!!」
デンジはアキの背中に手を回し、思い切り叫んだ。
その途端、デンジが寄り添っていた偽物のアキと、周りの風景は歪み、霞のように消えていった。
何もない真っ白な空間に、二人が取り残される。
デンジは震える手で、アキの両頬を掴んだ。
「アキ、だよな……?」
「ああ。迎えに来た」
「ア……アキぃ!!!」
「ん」
「馬鹿……!今までどこにいたんだよ!!」
「すまない。でもずっと、俺の中にいたんだ」
「あ……、あっ…………」
デンジは唇と喉を戦慄かせながら、俯いた。
床に、ぱたぱたと雫が落ちる音がした。
「会いた、かった……!!!」
泣きながら沈痛な声を上げるデンジを、アキは掻き抱いた。
頬を麦穂色の髪にすり寄せると、デンジはとうとうしゃくり上げ始めた。
「会いたかった……っ!俺、俺……寂しかったあ……!!」
「そうだよな」
「何も、覚えてないの、悲しかった……!冷たくされて、すげえ、苦しかった……!!」
「本当に、ごめん」
デンジはアキの背中に回した腕に力を入れ、ぎゅうっと抱き付いた。
「だ……抱き締めて、欲しかった……!!!」
アキはデンジをきつく抱き締め直した。次第にデンジの泣き声が落ち着いていく。アキは少しだけ顔を離してから、撫でるように口付けた。
「デンジ……よく、頑張ったな」
デンジは、涙を零しながら幸せそうに笑って――そのまま、気を失ってしまった。
アキは、デンジを抱き上げた。軽い、痩せた身体。苦しげに眉根を寄せて、デンジをつぶさに観察する。
どれだけ、気を張っていたのだろう。
前回の記憶にあるデンジよりも顔色が悪く、痩せている。目の下の隈が濃かった。
ひとりでどれだけ、寂しかったのだろう。
ピアスをあけて、慣れないタバコまで吸って。
俺に、拒絶されて。
こいつは、どれだけ――――――。
デンジが気を失うと、次第に夢の世界は掻き消えていった。
二人は、あっという間に現実の世界に戻ったのだ。
姫野や同僚たちが、わっと周りに駆け寄ってきた。
取り憑きを解除されて弱体化した夢の悪魔は、狐によって一撃で討伐した。
復讐に生きた『前回』――悪魔が異常に強かった時代を思い出したアキの戦闘能力は、跳ね上がっていたのだ。
それを見た吉田が心底残念そうにしていたのが、アキは非常に気に入らなかった。
奴の目は明らかに、デンジを追っていた。あんなに仲が良い理由もまだ分からない。
しかし、デンジが完全にアキだけを求めていたのは明白だったので、もうそれ以上は追及しないことにした。
無限にも感じられる時間を彷徨っていたが、現実の時間にすれば10分にも満たない出来事であったらしい。アキとデンジはすっかり疲弊していたが、同僚たちはピンピンしていた。
「後処理はやっとくからさ。デンジ君と一緒に、救護室行った方がいいよ?何か異常があるかもしれないでしょ」
姫野にそう言われたが、アキは救護室に行くのを拒んだ。
デンジを抱えたまま、真っ直ぐに自分の部屋に連れ帰ったのである。
アキはただ、一刻も早く。
二人で一緒に帰りたかった。