初恋アザミにキスをする 4そうして過ごしていた、ある夏の日のことである。
アキが風邪を引いて高熱を出した。
デンジは誰かに看病されたことなんてないし、ましてや誰かを看病してやったことなどあるわけがない。しかしPCを使って自分なりに一生懸命調べ、アキを必死に看病した。
スポーツ飲料や冷えピタだけでなく、風邪薬もお店の人に聞いて買って来た。
デンジは米くらいは炊けるようになっていたが、この家での料理は完全にアキの管轄分野である。今まで作業工程を見るばかりで、挑戦したことがなかった。
その結果、べちゃべちゃな割に芯が残っている最悪のおかゆができてしまったが、アキは残さず全部食べてくれた。具合が悪いのにデンジの頭をさらりと撫でて、「ありがとな」と言ってくれたのだ。デンジは嬉しさで、自分の心が舞い上がるのを感じた。今度アキが元気な時に、おかゆの作り方も習っておかなければと思う。
アキには風邪が移るからもう部屋に入るなと言われて、追い出されてしまった。しかしどうしても気になって、デンジはずっとアキの部屋の前を行ったり来たりしていた。
とうとう我慢しきれなくなって、ドアを小さく開けてみる。隙間から様子を伺うと、解熱剤の少し効いたアキは眠っているらしかった。
近づくと、呼吸が浅くてとても苦しそうだった。体調を崩した時の心細さは、デンジだってよく知っている。アキの白磁の肌が赤く染まっていて、明らかに具合が悪そうだ。頬に触れると、やはりまだ熱かった。
デンジはふと、ああキスしたいな、と思った。
――そっか。アキが具合悪りぃから、今日はキスしてもらえねぇんだ。
毎日享受していたそれが受け取れないと気づいて、デンジは途端に寂しくなった。少し逡巡したあと、デンジはかがみ込み、アキの唇の端にキスを落とした。
デンジが自分から、自発的にキスをするのは初めてであった。キスの主導権はいつもアキが握っており、彼が始めるものだったからだ。
しかしその途端、予想だにしなかったことが起こった。
アキがその両目から、ほろりと涙を零したのだ。デンジはぎょっとした。
「アキ、アキ……?大丈夫かよ」
声を掛けるが反応がない。アキは悪夢にうなされているらしく、口を引き結んで痛みに耐えるような顔をしていた。その顔から玉の汗が吹き出し、小刻みに震えている。デンジは慌ててタオルを取り、その汗を拭おうとした。
その時、アキがはっきりとした寝言を発した。
「デンジ……ごめんな。デンジ……」
デンジは呆然とした。その言葉には、尋常じゃないほどの――深い後悔と悲哀が、滲んでいたからである。
そうしてその瞬間、デンジにはわかってしまった。
――アキが好きなのって、『前世の俺』じゃん。
それは勘だったが、何故だか強い確信があった。デンジは突然足に力が入らなくなり、その場に膝をついた。手が僅かに震えている。背筋が寒くなった。
――じゃあ、俺は…"代わり"なんだ。
デンジは顔を真っ青にしながら、理解した。
――アキは。
『前世の俺』の、代わりに、俺にキスしてるんだ。
目の前が真っ暗になるのを感じた。
アキの想う相手が面の良い女なのであれば、その方がずっと良かった。
もう生きてすらいない人物……それも、自分の『前世』だなんて、最悪だ。
――敵うわけねぇじゃん……。
デンジは眠るアキの隣に座ったまま、呆然とその寝顔を見つめていた。
♦︎♢♦︎
「デンジ君、なんだか今日は辛そうだね?」
学校に行くと、レゼが話しかけて来た。
こてりと首を傾げてデンジを見ている。紫がかった黒髪がはらりと落ちかかって、細められた緑の目の可憐さが際立っていた。今日も糞可愛い。
転校生のレゼとは最近、急速に仲良くなった。デンジを見下したりせず好意的に話してくれる、貴重で唯一の女の子だ。レゼといる学校生活は、とても楽しかった。しかも、超可愛いし。もしもアキに出会っていなければ、デンジはコロリと彼女を好きになっていた自信がある。
「ハァ〰︎……聞く?俺の失恋話」
「えっ!?もしかして!アキ君と進展あったんですか〰︎!?」
「進展じゃなくて、失恋だって」
レゼには、アキのことを相談していた。他に話せる人なんて、誰もいなかったので。もうデンジは、一人でアキとの秘め事を抱えきれなくなっていたのだ。
駅までの帰り道を歩きながら、レゼに今回のことを全部話した。もう既に粗方の事情は吐かされているから、話が早い。彼女はとても聞き上手だった。
「ええ〰︎?じゃあデンジ君は前世の自分に負けたってコト?」
「そーなんじゃね?ま、良かったよな。本格的に好きになる前でよぉ」
「おやおや?キミはまだそんなこと言っていたのかい」
レゼは呆れた顔をしていた。そう、デンジはこの期に及んで、まだきちんと認めていなかったのである。アキを好きだと言うことを。
一度認めれば何もかも終わりだと、デンジの本能が叫んでいたのだ。だからデンジは、頑なにそれを否定し続けていた。
「だってわかんね〰︎じゃん。キスが気持ち良かっただけかもしんねぇし。他の人とキスしたら、その人んこと好きになんじゃね?俺」
「あはははは!チョロすぎ!デンジ君はやっぱり面白いね〰︎!」
レゼは涙を流して笑っている。
――糞可愛いな。なんで俺はこのコじゃなくて、アキのことばかり考えるんだよ。
デンジは納得がいかなかった。デンジは女の子が好きで、アキはれっきとした男であるのに、おかしな話である。
「じゃあじゃあ!提案がありま〰︎す!」
レゼはデンジの前をたたたっと早足で歩いて、くるりと振り返り、微笑みながら言った。
「私とキスしてみませんか?」
「……は?」
デンジは固まった。
キス。
キス……レゼと?
「それで気持ち良かったら、私のこと彼女にしてみない?」
「ハァ!?レ、レ、レゼって……まさか俺んこと好きなのオ!?」
「そうだよ。私はデンジ君が好き」
レゼはまた首をこてりと傾げて、頬を染めながら言った。
「本当は一緒に学校に通えるだけで満足だったけど……アキ君がデンジ君を泣かせるなら、私がデンジ君を幸せにしてあげる」
「……!」
デンジは瞠目した。
信じられない。
あんなに底辺のさらに底だった自分が、こんなに可愛い女の子に告白されている。
デンジは、基本的に自分を好きな人が好きだ。レゼのことなら好きになれるかもしれない。
レゼは頬を染めた可愛い顔のまま、一歩ずつデンジに近づいて来た。このままだとキスしてしまう。夕焼けの河原沿いの道で、同級生の女の子と。まさに夢みたいなシチュエーションである。
レゼはデンジの前で立ち止まる。その小さな顔が、そっと近付いてきた。長い睫毛が伏せられて、傾けられたその顔が目前に迫って来る。
なのに。
――なのにどうして俺は、全然喜んでないんだろうな。
デンジは改めて、絶望していた。
"好きになれるかもしれない"というのが、まずおかしいのだ。
ちょっと前のデンジなら、もうとっくのとうにレゼを好きになっている。
そうならなかった原因は、明確だ。
夏の空みたいな青を思い出す。
あの薄い唇の熱さを、感触を。タバコの味を。
デンジはもう自分が手遅れであることを、ようやく認めた。
「……ゴメンンン!!!!」
デンジは勢い良く顔を背けた。位置がずれたレゼの唇が、頬にぷちゅっと当たる。さすが女の子の唇だ。滅茶苦茶柔らかい。
けれどデンジは、もうそれでは満足できなくなっていた。
「……デンジ君は私のこと嫌い?」
「好きイ!!」
デンジは即答した。可愛い女の子、しかも自分に優しい女の子なんて、好きで当たり前である。
「だけど…………」
デンジは顔を真っ赤に染めながら、レゼにもごもごと言った。
「俺、もうアキじゃなきゃ駄目みたいでさ…………やっと分かったんだ今……」
「…………そっか、わかった」
レゼは一瞬だけ、本当に悲しそうな顔をした。けれどすぐに明るくて楽しい、いつものレゼに戻って言った。
「わかってましたよ〰︎〰︎!!ていうか、デンジ君が認めようとしなかっただけでとっくに好きだったでしょ?」
「ウッ」
デンジは俯いた。とうとう認めてしまった気持ちが、頭の中でグルグルと渦巻いて苦しい。
いつからかと言われたら、もうわからない。
初めてキスされた時からかもしれないし、料理や歌を魔法みたいだと思った時からかもしれない。
いや、もしかしたら――もっともっと、前からなのかもしれない。
わからないが、デンジはもうアキしか好きになれなくなってしまったのだ。相手がどんなに可愛くて優しい女の子でも、キスをするのはアキだけが良いと思う程に。
「ハァ……俺、どうしたら良いんだろ……」
「それが青春ですよ!悩みなさい!」
「レゼ…………ごめんな」
「わかってたからいいの。まあ私とは、これからも仲良くしてね?」
「それは、もちろん。……レゼがいーなら、だけど」
レゼは、何だか吹っ切れたような、すっきりとした笑顔で笑った。
「いいよ。私はデンジ君の味方でいるって決めてるの」
レゼが右手を差し出す。デンジもつられて笑って、その手を取った。二人は握手して、笑い合った。
デンジは、全然気付かなかった。
キスからの一連の流れを、遠目から目撃していた人物がいたということに。
それが、風邪から回復して車でデンジを迎えに来た――――デンジの好きな人であったということに。