この拳が護るもの② 3
まるで夢の中をさまよっているようだった。隊舎に戻り、隊士を下がらせた弾児郎は日が陰り薄暗くなった自室で一人、一連の出来事を自分ごととして咀嚼することができない胸の内と戦っていた。任務に出た隊士が死んだと聞かされて、血の付いた筵を目の当たりにして、その亡骸を確かめて……かつて人であったもの、としか言いようのない状態まで損傷した肉塊が自分の部下だったとは、信じたくもなかった。
出立の日のことはよく覚えている。頭に青い手拭いを巻いた隊士と、隊の中でも小柄だと言われている隊士が揃って弾児郎のもとを訪れ、今より現世に向かいますと告げた時のことを。
今回の任務に二人を推挙したのは弾児郎だ。隊長直々のお達しに息を弾ませ、どこか誇らしげに胸を張る二人を前に自分の頬が緩んだのを思い出した弾児郎は、そのあたたかな思い出が急激に冷たくなってゆくのを感じながら、壁の一点を見つめていた。
あちこちからすすり泣きが聞こえる。目を閉じて意識を集中させれば、悲しみに暮れた隊士たちの声が、五番隊舎全体を覆う湿っぽい空気を伝って耳へと流れ込んでくる。
「俺、すごろくであいつに負けっぱなしだったんだけどなあ」
「今度酒が美味い店を教えてやるつもりだったのに……」
「あんなふうになっちまうなんて……」
そのどれもが自らに起こった現実を現実として受け入れられず、それでいて感情だけは正常に機能してしまっているといった人間の、恨み混じりの嘆きであった。他の隊であれば、同じ隊での死に対しここまで胸を痛めることはないのだろうな。そんなふうに考えていたところで背後から気配を感じ、弾児郎はゆっくりと目を開いた。
「尾花」
自分の名前を呼ぶ声が雨緒紀のものだとはすぐに分かった。弾児郎は背を向けたまま、「雨緒紀か、どうした」と平静を装いながら応じる。
「お前のところの隊士、残念だったな」
かけられた言葉に、弾児郎は内心で驚いた。わざわざここまで足を運んだという背景も踏まえ、雨緒紀なりの心遣いなのだろうか。不器用な人情に肋骨の下で何かが揺らぐのを感じた弾児郎は一つ溜息を吐くと、「仕方ねえさ」とあえて明るい調子で話をはじめた。
「ここはそういうところ。ひとたび戦いに赴けば、必ずしも生きて帰れるわけじゃない……力がなければ残れないんだよ。無様に屍を晒したあいつらが弱かった。それだけだ」
「本当にそう思っているのか」
「ああ、勿論だ。さ、用が済んだら行ってくれ。今は誰とも話す気になれん」
さっぱりと言い切ると、弾児郎はぱしん、と強く膝を打つ。これで話は終わると思っていたが、いくら待てども雨緒紀が立ち去る様子はなかった。
「それは悲しみか? それとも……怒りか?」
無遠慮に差し込まれた問いに、一瞬、頭の中が空っぽになった。何を……いや、どうしてそんなことをわざわざ聞いてくるのだ。明らかに揶揄するような声音に息が詰まりそうになり、弾児郎は日焼けした床の目を落とすことしかできなかった。
「聞き分けの良い子どものような方便を述べたところで、私を誤魔化すことなどできんぞ。お前が抱いているそれは悲しみではない。本当は、自分の隊士を亡き者にされて腸が煮えくり返っているのだろう?」
心遣いなんてとんでもない。こいつはおれの傷口を……。ようやく理解したものの雨緒紀の言葉を遮ることができず、黙って耳を傾けることしかできなかった。
「聞けば、隊士の一人は随分とお前に懐いていたそうじゃないか。死神といえど四肢をもがれれば物を言うこともできない……大事にしていた部下が、もうお前へのあこがれを口にすることができなくなったんだ。さぞ腹が立っていよう」
「……分かっているのに訊くのか?」
臓腑の奥から沸々としたものがこみ上げるのを実感しながら、弾児郎は体ごと動かし振り向いた。外からの日差しが逆光となり、薄く影がかかった顔にはこの場にそぐわない不気味な笑みが刻まれており、雨緒紀の言葉をより一層苛烈に引き立てている。
「事実を述べたまでだ。その様子だと図星……」
どこまでも人を煽る言動に、何かが弾ける音がした。衝動のまま床を殴りつけ、雨緒紀の話を遮った弾児郎は、頭蓋の内側で膨張した熱が一気に全身を駆け巡り、体からむせ返るような怒気が滲み出るのが分かった。
「……その通りだ。おれの腸は、地獄の炎で煮えくり返り、どろどろになりそうだ」
低く唸った弾児郎は勢いよく立ち上がると、荒々しく雨緒紀へと近付いた。
「仕方がないと言ったのは虚勢じゃないぞ。山本の〝隊士須く護廷に死すべし〟の教えは常日頃からあいつらに説いてきたし、おれにもその覚悟はある。そして、いつ隊士が死んでも受け入れなきゃならねえってことも分かってる。
けどな、だからと言ってあんな死に方はねえだろ! 誰かも分からないくらい体を引き千切られて、奪われて、そうして塵のように棄てられて……」
怒りか苛立ちかよく分からないものが胸の辺りで渦巻き、弾児郎の口を動かしていた。閾値を超えた昂りにぞわ、と体中の産毛が総立つ。激情にもやがかかった思考の中、ふと死んだ隊士が身に着けていた青い手拭いを思い出してしまった弾児郎は、一度目を伏せるとやや落ち着いた声で話を続ける。
「……あいつはな、おれみたいに強くなりたいって言ってたんだ。昔から腕っぷしだけが取り柄で、それだけしか知らなくて、誰かを頼るとか信じるとかができなくて……山本に拾われなければただの荒くれ者のままだったおれのことを、綺麗な目で凄いって言ってくれて、背中を追いかけてくれた。そんな部下が死んで何も感じないほど、今のおれは冷たい人間じゃない……」
暗いだけの過去など、話す必要はなかっただろうか。頭の片隅でそんなことを思い、前を見る。雨緒紀の顔からは笑みが消え、赤の他人から見れば無愛想にも見える無表情へと変わっていた。普段と変わらぬ面持ちが思うように話せと言ってくれているようで少しだけ胸が軽くなった弾児郎は、深く息を吸うと、震える喉を律して話す。
「だが、今はもうなんにも分かんねえんだ。頭ん中にあったものが今にも爆発して、何もかもが溢れ出しそうだ。こんな感覚はあの戦争以来か? 瀞霊廷に土足で入り込んできた滅却師どもを一人残らず血の海に沈めてやった時の、全身を駆け巡った高揚感……かつてのおれが纏っていた底なしの憤怒が、さっきからおれの周りを回っている……全てを屠れ、と」
再び沸騰しかけた憎悪を、奥歯を噛み締めることで逃がした弾児郎は、最後に「おれは必ずや敵を探し出し、倒す」と告げ、自分の手を見つめる。顔も思い出せないほど多くの人間の頭を穿ち、刀を振り続け、そうして硬くなった手のひらのところどころには豆ができており、お世辞にも綺麗とは言えない手だった。
それを後悔もしていなければ、改めるつもりもない。自分はこれまでも、そしてこれからも、戦いに生きる。その意味が『自分のため』から『瀞霊廷のため』に変わっていった……それだけだ。今更大人しくなりたいとは思わない……。
「お前、腹を空かせ、苛ついたけだものの顔になっているぞ」
考えていると、ようやく雨緒紀が口を開いた。が、含み笑いに混じった言葉は先ほどと同じ侮蔑の色をしていた。
「雨緒紀、お前さっきから癪に障ることばかりだな。俺を怒らせに来たのか?」
「煽りたくもなるさ。護廷十三隊の隊長たるものが、理性も秩序も自らかなぐり捨てて人の姿を脱しようとしているのだから。ここまでくると滑稽だ」
「それの何が悪い!」
全身を声にして怒鳴ると、建物がびり、と揺れた気がした。一瞬、目の端で火花のようなものが散ったのを皮切りに、弾児郎の脳が熱を帯び、頭部が膨張するような浮遊感に襲われた。
「お前だって、おれの立場になったら分かるさ……その落ち着いた顔が醜く歪んで、髪を振り乱し、怒りに身を焼かれながら刀を振り、血を浴びるんだろうよ。嫉妬に狂った女のように……獲物を求め徘徊する獣のように……」
雨緒紀は、今度は鼻で笑う。
「馬鹿を言うな。私はそんな惨めな姿は見せん」
「分からないだろ。人の心は、どうとでも変わるんだから」
「分かるさ」
「どうして言い切れるんだよ」
「もし私が畜生に落ちようものなら……お前や執行が止めてくれるだろう?」
当然とばかりに紡がれた言葉から、他人を寄せ付けず一人で痛みに耐えていた不器用な男と、そんな雨緒紀を放っておけなかった自分を思い出した弾児郎は、頭からすうっと怒りが引いてゆくのが分かった。
感情のままに動く自分と、冷静に物事を見ることができる雨緒紀。炎と氷のように正反対の性質を持った人間だが、その心を衝き動かす根底にあるのは、おそらく同じ種類の熱だろう……ぽかんとした顔を向けていると、微笑を浮かべた雨緒紀が「止めてくれないのか?」と困ったような声を出すのが聞こえ、弾児郎は現実に立ち返った。
「止めてやるよ、何度だって……」
目の奥が締め付けられたように痛み、視界が白く滲んだ。
「雨緒紀は物分かりが良いようで素直じゃなくて、目を離すと一人で突っ走っちまうからな。おれや乃武綱くらいしか止められないだろ」
「ああ、そうだ。だからお前は人のままでいてくれ。私だけでなく、お前を慕う隊士たちのために……」
真っ直ぐこちらを見据えた目には言葉にならない切実さが込められており、そのぬくもりを心地良いと思っている自分がいることに気付いた弾児郎は、おれはこんな人間だったか? と心の内で自問した。
「おれ、昔は一人でも平気だったのに、いつからこんなふうになっちまったんだろう」
独り言に近い呟きが白い息となり、冷たい空気に霧散した。直後、五番隊舎に異常な霊圧が近付いて来るのを肌で感知し、弾児郎は勢いよく顔を上げた。
雨緒紀とともに庭に飛び出すと、敷地を囲繞する塀の上、瓦が葺かれた屋根を黒い何かが疾走するのを確かめることができた。
「おい、おめえら! そいつを捕まえろ!」
飛んできた声のほうへ目を向ければ、遥か向こうからは十二番隊隊長である有嬪が、人並み外れた巨体を揺らしてこちらへ駆けてくるのが見える。返事をするよりも先に弾児郎たちは屋根に飛び乗り、黒い何かを追いかけはじめていた。
弾児郎は目を凝らし、四肢動物のような動きで猛然と走り抜ける生き物の正体を探ろうとする。
「あれは……虚!」
すぐ後ろから聞こえた雨緒紀の声に、弾児郎は驚きのあまり「なんだってこんなところに?」と叫び返すことしかできなかった。
「分からない。だが善定寺が何か知っているのだろう。とにかく捕獲だ!」
そう言った雨緒紀は瞬歩で弾児郎の前へと進み出ると、右の人差し指と中指をそろえて伸ばし、虚へと狙いを定める。
「破道の四『白雷』!」
雨緒紀の指先から白い雷が細い線となって放たれ、虚の後ろ脚を貫通すると、耳をつんざくような甲高い叫びが空気を切り裂いた。穿たれた足からがくりと力が抜け、体が屋根から落ちかける。しかしかろうじて持ちこたえた虚は瞬時に身を起こすと、ひたすらに前へと進み続けた。
闇雲に、と言うには迷いのない足取りだった。こいつはどこかを目指しているのか? と思いながら、弾児郎は周囲を見回す。場所は三番隊舎を素通りし、二番隊舎の前を過ぎようとしていた。この先にあるものといえば……頭の中に一番隊舎と護廷十三隊総隊長の姿が浮かんだのと、凛然とした声が響いたのはほぼ同時だった。
「穿て――厳霊丸!」
稲光が瀞霊廷を包み、世界が白に染まる。立ち止まり、とっさに目を瞑ったものの強烈な光を浴びた眼球は灼けたようにひりつき、目が回ったような気持ち悪さがこみ上げてきた
「尾花、無事か!」
近くで雨緒紀が呼ぶ声が聞こえる。気配を辿りながら大まかな状況を把握し、「問題ない」と答えた弾児郎は、使い物にならなくなっていた目がようやく落ち着いたのを見計らってそっとまぶたを持ち上げた。
ぼやけた視界に虚の影らしきものはなかった。何度か目をしばたかせると、不明瞭だった物の輪郭が少しづつ鮮明になっていき、周囲の様子を知ることができるようになった。
塀の上から見下ろした先、一番隊舎の庭に黒いものが落ちている。それが虚だと判別できたのは、鞘に手を置き、臨戦態勢を崩さない乃武綱と金勒、千日がいたからだ。その奥には抜身の刀を構えた長次郎と源志郎が、元柳斎をかばうようにして立っている。長次郎にいたっては、この数瞬で虚への攻撃から元柳斎の警護に回ったと推測することができ、弾児郎は思わず「さすが右腕」と口笛を鳴らした。
「お前たち、無事か」
庭に降り立ちながら、雨緒紀が皆に問う。「ああ、見ての通りだ、長次郎が仕留めてくれた」と金勒が地面に目をやると、虫の息となった虚は地に伏したままぴくりとも動かない。
「しかし何で尸魂界に虚が……」
「それは俺から話すぜ」
弾児郎の疑問に答えたのは有嬪だった。一足遅れて来たのは、長次郎の斬魄刀による被雷を防ぐためどこかに退避していたからだろうか。その顔は普段見せる福々しい笑みのままであるものの、どこか焦りが滲んだ固いものであった。何かを感じ取った千日が「善定寺、何か分かったのか?」と真っ先に質問を投げかける。
「ああ、どうやらこの虚は現世から穿界門を通って尸魂界に侵入したらしい」
「……なんじゃと?」
瞠目する元柳斎に一つ頷いた有嬪は、驚愕を浮かべる一同の顔を見ながら話を続ける。
「俺が最初に犠牲者を見つけた時、穿界門は開きっぱなしだった。不審に思いながらも門を閉じ、隊士に犠牲者を移送させた後周辺を捜索していたところ、流魂街の人間を襲うでもなくうろついてたこいつを発見。そのまま様子を見ていると瀞霊廷に向かったから追いかけて……というわけだ」
「また悠長なことをしたな」
「とにかく情報が欲しかったからな。すぐに仕留めちまったらなんにも分からなくなるだろ?」
結果的には、何かを聞き出すことは叶わなかったが。弾児郎がふりだしに戻った徒労感を感じるよりも先に、虚を討ってしまった責任を感じた長次郎がうなだれたほうに目がいったところで、神妙な面持ちをしていた乃武綱が虚を睨みつけたまま問う。
「おい、一つ聞くが、こいつ以外の虚が侵入した形跡は?」
有嬪は一瞬押し黙ると、すぐに「……ある」と重々しく言い放った。衝撃的な事実に場にいる全員が固唾を飲む中、源志郎が「どこに、どのくらい……」と凍り付いた空気を震わせた。
「それは不明だ。今うちのもんに調べさせてるところで……」
そこまで説明したところで、有嬪の話が途切れた。伏していた虚が動いたのだ。
「お前、ここに来たのは何が目的だ」
雨緒紀と詰問する声だけが冷たい空気に反響するも、答えはなかった。のろのろと体を起こした虚は首だけ動かし金勒と乃武綱の顔を見ると次にはその後方、元柳斎のそばに控える長次郎を見つけ、そこで目を留めた。虚の視線を受けた長次郎の、刀を持つ手が微かに震える。
「……マ……モト……」
蚊の鳴くような声が、虚の口から漏れる。
「ヤァマ……モト……シィィィ、ゲク……ニィ……!」
刹那、四つん這いになった虚は四肢をばねにして走り出すと、電光石火の速さで乃武綱の真横をすり抜け、元柳斎へと襲い掛かった。
長次郎が「元柳斎殿!」と叫ぶ。その声は悲鳴に近いものだった。刀を水平に構え、切っ先を虚に向けながら、長次郎は隣に立つ源志郎へと目を移す。しかし刀を持ったまま硬直し、顔を蒼白にした源志郎は虚の急襲に身を竦ませるばかりで、傍目からも動けそうにないと分かる状態であった。
長次郎が宿したまずいという顔は、源志郎に対するものだけではない。源志郎を案じ、敵から目を離してしまった自分の失態を悔やむものであった。すぐに注意を戻した長次郎だったが、その時にはすでに虚は眼前に迫り、元柳斎へと腕を伸ばしているところだった。
思考を動かす暇はなかった。弾児郎は瞬歩で距離を詰め、獲物を狙う虚へと接近すると、振り上げていた拳を闇色の体へと叩きつけた。
喉を潰されたような耳障りな呻きを漏らしながら、虚は庭の端へと転がり、仰向けに倒れた。立ち止まった弾児郎は汗が引き、体が冷えてゆくのとは逆に腹からふつふつとしたものが湧き上がるのを感じながら、虚を睨みつける。
「……お前がおれの隊士をやったのか?」
沈黙。近付き、人間の頭蓋骨を思わせる仮面を片手で掴み上げると、「どうなんだ!」と怒気を含ませた声を突きつけ、虚を激しく揺さぶった。
「無駄だ。そいつ、もうくたばってる」
自分の脳が熱に炙られ、何が何だか分からなくなりそうになったところで、乃武綱が肩を叩いてきた。我に返り、ぐったりとした虚を解放した弾児郎だったが、激情の余韻は胸の内側に留まったままで、気が済んだとは言い難い嫌な感覚だった。
荒い呼吸を繰り返していると、肩越しに千日が首を伸ばし「こんなちっこいのが死神を二人もバラバラにしたのか?」と虚だったものを覗き込んできた。「そうとは思えんな」という金勒の同意が続く。
「となると、あいつらを襲った虚は他にいる……」
最悪とも言える有嬪の推測に、誰もが口を閉ざした時だった。一人の隊士が慌てた様子で塀を乗り越え、重苦しい空気へと乱入してきた。
「善定寺隊長!」
有嬪の足元へと膝をついたのは十二番隊士だった。有嬪が飄々とした口ぶりで「お、どうした。何か分かったか?」と訊き返すも、隊士の顔からは焦りは消えない。それどころか、乱れた息を整える時間すら惜しいといったように、掠れた声を必死に絞り出し、精一杯の叫びを上げた。
「ほ、虚たちが……瀞霊廷を目指し進行しているのを確認!」
「なんだと?」
「数は!」千日が怒声を放つ。「ざっと見て、百!」と隊士は金切り声で返した。
「流魂街での被害は」
元柳斎が歩み寄るも、隊士は「それが……」と口ごもり、顔を伏せてしまう。「どうなんだ」と雨緒紀が促したところでようやく隊士はぽつぽつと報告を再開した。
「虚たちは、流魂街の人間には目もくれず真っすぐこちらに向かっています」
「つまり虚たちの目的はここ……護廷十三隊の人間ということか」
金勒が状況をまとめたのを聞きながら、弾児郎は思考を巡らせる。霊力はないが戦う術もなく、餌とするには容易な流魂街の人間を襲うことをせず、わざわざ瀞霊廷を目指す。しかも一体や二体ではなく、大勢の虚が。一体何が目的で……。
まさか……という言葉がよぎった時、長次郎の声が重々しい空気へと響いた。
「もしかして、虚の目的は……元柳斎殿ということでしょうか」
「確かに、尸魂界で最も霊力が高いのは山本だ……可能性としてはありうる。この虚も山本を狙っていた」
雨緒紀が腕を組むのを見ながら、弾児郎も小さく頷いた。虚は人間の魂魄、特に生前近しかった者や霊力の強い人間を喰らう傾向にある。霊子がいたるところに含まれている尸魂界とはいえ、特に霊力の高い『死神』という個体がいる瀞霊廷の場所を嗅ぎつけるのは、例え知能に劣る虚といえどたやすいことなのだろう。
護廷創設を遂げた男として名を馳せる山本元柳斎重國のずば抜けた霊力については、おそらく虚側にも知れ渡っており、畏怖と関心の対象となっているのだろう。だとすれば、十二番隊の報告通り百の虚がこちらに向かっているのならば……その膨大な狩猟本能が、元柳斎を狙っているということになる。
長次郎の顔から感情が消えた。その奥深いところから、すぐにでも元柳斎に降りかかる脅威を排除せんと暴走しかねない切迫が顔を出そうとしているのをひしひしと感じ取ったのか、乃武綱が「今すぐ討伐に向かうか?」と元柳斎を見やった。
「尸魂界中を駆け回るとなると、隊士がいくらいても足りぬ……その間、瀞霊廷の護りも手薄になるじゃろう」
「では、このまま放っておくのですか?」
尋ねた長次郎の目は、言葉とは裏腹にそんなことは反対だという意見を言っているように思えた。固い表情のまま思案した元柳斎は、膝をついたままの隊士に向き直ると「虚たちがここまで来るにはどのくらいかかる」と質問を投げかける。
「幸い、虚たちの移動速度は極めて遅いです。半日といったところかと……」
「ということはここまで来るのは今夜か」
元柳斎は一人ひとりの顔を見ると、何かを決意したように一つ、大きく頷いた。
「迂闊に流魂街で戦闘になれば、一般人に被害が出るじゃろう……半日のうちに体勢を立て直す。すぐに全隊長を集めよ!」
総隊長の下知に、千日、金勒、乃武綱、雨緒紀がすぐさま瞬歩で姿を消す。迅速な同僚たちに続こうとした弾児郎だったが、視界の端に何かを見つめる長次郎がちらつき、一度立ち止まった。
視線の先を追う。そこには唇を噛み締め、立ち尽くす沖牙源志郎の姿があった。
《続く》