可愛い子には旅をさせよ 1
「行かぬと言っておるじゃろう!」
芽吹きかけた桜が吹き飛ばんばかりの怒鳴り声が、一番隊舎に響き渡った。無論、護廷十三隊の総隊長である元柳斎のものである。大抵の人間ならばこの大声を浴びせられれば裸足で逃げ出すものだが、そうでない者がここにいる。元柳斎の右腕を志す長次郎だ。
「元柳斎殿、そこをなんとか」
必死の形相で足元に縋りつこうとする長次郎の手には、一枚の紙が握られていた。
それは西流魂街に西洋菓子を提供する茶屋が開店したことを知らせる広告紙で、先日町へ遣いに行った際に貰って来たものだった。『ビスカウト』や『ウェーファース』といった見慣れない文字が並ぶ中、長次郎の目を引いたのは『あいすくりん』という名前の菓子だった。
あいすくりんといえば、少し前に知霧とともに貴族の屋敷へ赴いた時に口にしたことがある。新雪を思わせる美しい白色と滑らかな冷たさ、そして舌の上に広がる優しい甘さ。身を躍らせたくなるような美味しさを記憶の奥から呼び起こした長次郎は、これは是非元柳斎に食べてもらいたいと張り切って誘ったものの、取りつく島もなく断られ、さらに西洋という単語を出したところ、烈火の如く怒り出してしまった……といったところだ。
「大体なんじゃ、その『あいすくりん』とやらは」
「四楓院殿に聞いたところによると、牛の乳を凍らせて作った氷菓子です。以前私も、志島殿と食したことがありましたが、今まで食べたことがないような、とても美味しいものでした」
「ふん、氷菓子など珍しいものではないじゃろう」
「西洋の氷菓子は、普段我々が食べているものとはまた違うもの。ですから元柳斎殿も一緒に……」
元柳斎は「行かぬ」と忌々しげに鼻を鳴らし、長次郎の話を遮った。「西洋の食い物など口にしたくない」と続けたその脳裏には、尸魂界に侵攻してきた滅却師の姿と、その惨禍がありありと浮かんでいるのだろう。
長次郎にその心の内が分からないわけではない。長次郎とて、三界の均衡と平穏を脅かすユーハバッハは許しがたき敵であり、そこで流された血のおびただしさに何も思わなかったわけでもない。それでも、西洋の全てを疎むのは違うのではないかとも考える。
「……確かに滅却師も西洋の出ですが、その文化すらも忌避するのはいささか意固地だと思います」
思い切ってそんな言葉を紡ぐと、元柳斎の眉がぴくりと動く。こちらを見つめる目が鋭さを増したのが分かった。
「護廷十三隊の総隊長ともあろう人間が、坊主憎けりゃ袈裟まで憎いという理由で視野を狭めては、尸魂界での警護に支障をきたします。この地で生を受けた者にも、現世から来た死者にも様々な思想の人間がおります。今はそうでなくとも、いずれ尸魂界にもいろいろな文化が……」
「ええい、聞きたくないわい!」
がなり声が、再び壁を揺らす。次いで「何を言われようとも儂は行かぬ! そんなに行きたければお主一人で行けばよかろう!」と鬼の形相で吐き捨てた元柳斎は、荒々しく床板を踏み鳴らしながら廊下の向こうへと行ってしまった。一人残された長次郎は、さすがに言い過ぎたかと意気消沈し肩を落とす。
決してここまで言うつもりはなかった。ただ、たまには二人で少しばかり遠くへと足を延ばし、美味しいものを食べたかっただけなのだ。あいすくりんは見慣れないものではあるものの、きっと気に入るだろうと思ったのだが……。
だが、肝心の元柳斎の機嫌を損ねてしまっては元も子もない。仕方がないが諦めるしかない……そんな考えが頭をかすめた、その時。
「山本はずいぶんとおかんむりじゃねえか。一体何があったんだ?」
背後から掛けられた声に、集積しかけた陰鬱がにわかに吹き飛ぶ。振り向いた目に、ひときわ目立つ桔梗色の髪が揺れた。
「齋藤殿!」
「よお、長次郎。しけたツラしてどうした?」
よっぽどひどい顔をしていたのか、元気よく手を上げながら近付いてきた不老不死は怪訝そうに顔を覗き込んできた。答えに窮していると、不老不死の視線は口元から首筋、そして長次郎の手元まで滑り落ちる。
「なんだこの紙……西洋菓子の茶屋? まさか……」
「ええ、実は……」と、長次郎は事の顛末を話して聞かせた。眉を顰めながらも最後まで聞いた不老不死は、はあ、と大きな溜息を吐くと、
「まあ山本の言わんとすることは分からなくはねえけどよ……相変わらず頭が固いこった」
「元柳斎殿は頑固なのです。我々の敵は尸魂界に侵攻してきた滅却師、さらに言いますとユーハバッハです。無辜の民や西洋の生活にまで憎しみを抱くのは違うと思います」
「流石は総隊長の右腕と呼ばれる男。山本と違って冷静で結構結構」
腕を組んで頷いた不老不死は、ゆっくりと周りを見回して人がいないことを確かめると、長次郎の耳元にそっと唇を寄せる。
「……で、そのあいすくりんとやらはそんなに美味いのか?」
元柳斎とは対照的な反応に嬉しくなった長次郎は「はい!」と嬉々として答える。
「氷なのですがとても滑らかで、舌の上ですぐに溶けてしまいます。それでいて優しい甘さで、そして何と言っても美しい! 降り積もったばかりの新雪のような白さと清廉さは、普段我々が口にしているものとはまた違った趣です」
「ほお」
早口でまくし立てるように語る長次郎を物珍しそうに眺めていた不老不死だったが、やがてにやりと口角を上げ、誰が見ても怪しい笑みを浮かべる。
「儂もそのあいすくりん、食べたい」
突然の提案に、長次郎は自分の顔に戸惑いとも後悔ともつかないものが滲むのを感じた。これだけ熱弁を振るってしまえば、面白いもの好きな不老不死が興味を持たないわけがない。話すんじゃなかった、と……。
「ま、まさか……」
「長次郎、あの頑固爺じゃなくて儂と行こうぜ」
「齋藤殿と、ですか……?」
「なんだよ、こんな美人が誘ってるのに断るのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「じゃあ決まりだな!」
不老不死は一つ大きく手を叩くと頬を持ち上げ、満面の笑みを浮かべた。眼帯のない右目が細められる。
「さっそく金勒に、明日非番にしてもらえるよう頼みに行こうぜ!」
「あ、明日? また急ですね……」
「善は急げってやつだ。行くぞ!」
こうなれば止めることなどできるはずもない。仕方ないと廊下を慌ただしく走り出した不老不死について行こうとした長次郎だったが、三歩も進まないうちに足を止めることとなった。体ごと振り向き、廊下の曲がり角へと目を据える。
そんな長次郎に気付いた不老不死が「どうした?」と少し離れたところで立ち止まる。
「誰かに見られているような気がして……」
答えながら五感を研ぎ澄ますも、人の気配を拾うことはできなかった。気のせいだろう。そう言い聞かせ、長次郎は三番隊舎へ向かうべくその場を離れた。
2
翌日。金勒から非番の許しを得ることができた二人は昼前に瀞霊廷の西門で待ち合わせると、西流魂街へ向けて出発した。
「いやあ、しかし楽しみだな。儂、西洋の菓子なんぞ食ったことねえから。抜雲斎たちも連れてくれば良かったかな」
見るからに浮足立っている不老不死とは対照的に、長次郎の表情は暗いものだった。朝、休みを取った旨を伝えに元柳斎のもとへ赴いた長次郎だが、元柳斎は口を利くどころかこちらを向いてもくれなかった。覚悟はできていたものの、実際に突き放された態度を取られるとやはりこたえるものがある。
そんな胸の内を察したのか、不老不死は、
「あんな頑固爺のことなんか気にすることねえって。自分で行かないって言ったんだ。儂らだけで楽しもうぜ」
「そうは言いましても、なんだか悪いことをしているみたいでして……」
「気にし過ぎだ。いくら側近でもな、四六時中一緒にいなきゃいけないわけじゃねえよ。それに、山本にだって頭を冷やす時間が必要だ。あいつ、素直じゃねえから」
毒付きながらも精一杯の励ましに、長次郎がふっと頬を緩ませた、その時。背中に冷たいものを感じ、俯けていた頭を上げた。またこの感覚。一体誰が……考えたところで横からひときわ明るい声が飛んで来る。
「で、その西洋の茶屋とやらはどこにあるんだ?」
我に返った時には不可思議な感覚は消えていた。長次郎は気を取り直すと、「ええと、西流魂街五区の外れで……確か地図が載っていた気が……」と、昨日の広告紙を取り出し、不老不死の前で広げてみせる。
――長次郎の懐からもう一枚紙が落ちたことに、本人はおろか不老不死でさえも気付くことはなかった。
*
「ったく、呑気に歩きやがって……」
長次郎と不老不死の遥か後方で、黒ずくめの長躯が悪態を吐く。借金取りと言われても十人が十人、納得してしまうような怪しげな男は、護廷十三隊七番隊隊長である執行乃武綱その人だった。
西流魂街へ続く山の中、体を極限まで折り曲げ身を隠した乃武綱は、茂みから頭だけを出した状態で前を行く二人を凝視している。
「二人で出かけるなんていうからびっくりしたぜ。あいつらのことだ、きっと道中で面倒事に巻き込まれるか、面倒事を起こすに違いない。尸魂界の平和のために汗水垂らしている護廷十三隊なるもの、街の皆さんに迷惑をかけるわけにはいかねえ。ここはしっかり見張っておかなきゃな……」
すると、「あの木まで競争!」と威勢の良い声が聞こえる。言い終わらないうちに脱兎のごとく駆け出した不老不死を、長次郎が追いかけるのを確かめた乃武綱は、茂みから素早く這い出るとなるべく目立たないよう姿勢を低くし、そろそろと走り出した。
山道とはいえ、西流魂街上層区への近道ということもあってか人通りは多く、商人や貴族らしき姿もちらほら見られる。すれ違う人間の身なりがそれなりに良いものだというのも、この辺りの治安が悪いものではないというのを雄弁に物語っている。
もっとも、悪人が自らを悪人と喧伝して歩いているなどあるはずもないが。長年の癖で視界に入ったひとり一人の腹の底を探るように視線を巡らせていると、うなじの辺りに一筋、鋭い霊圧が刺さったように思え、乃武綱はひたりと足を止めた。
霊圧は右斜め後方からだ。手入れをするものがいないのか、小枝が網の目のように密生した藪の中から漏れ出していた。
「おい、なにやってんだよ」
近付いて呼びかけるも、藪は答えない。だんまりを決め込むつもりか。わざとらしいため息を漏らすと、心底呆れた声で言い放つ。
「やり過ごそうったって無駄だ。今のお前の霊圧はあからさまなんだよ……山本」
藪をかき分けて見れば、そこには膝を抱えて座り込む護廷十三隊総隊長の姿があった。知らない人間が見れば不機嫌にしか見えない顔には小指の先ほどの小さな葉っぱが一枚、ぺったりと貼りついている。
「お前なあ、こんなところで何やってんだよ」
「……散歩じゃ」
「嘘つけ。長次郎が心配で追いかけて来たんだろ」
「そんなわけなかろう。たまたまじゃ」
意地でも本心を明かさないとばかりの強情っぷりに、普段以上のめんどくささを察知した乃武綱は、げえぇ、と人目をはばかることなく顔をしかめてみせた。
「変なところで意地張るなって。目的が同じなら一緒に行くぞ。早くしねえと見失っちまう」
横目で前方を見れば、米粒ほどの紫が遠くで小さく揺れている。元柳斎に構っている間にずいぶんと離れてしまったようだ。長次郎か不老不死の霊圧を辿れば容易に追跡は可能であるとはいえ、あの二人がいつどんな騒ぎを起こすかまでは予測がつかない。なるべく目を離したくないものだが……。
がさり、とすぐわきで音がし、しかめ面のまま姿を現した元柳斎が隣に立つ。何が不服かなど聞かずとも分かる。「そんなに気になるなら長次郎の誘いを断らなきゃ良かったじゃねえか」と無遠慮に神経を逆なでれば、案の定「西洋のものなど誰が食すか」と突っぱねる言葉が返ってくる。
「お前も分かってんだろ? 食い物に罪はないって。何もにこにこしながら行くことはねえんだ。お前は長次郎に連れられて仕方なくって顔して食ってればいいじゃんか」
元柳斎からの返事はなかった。本人も分かっているだろうし、何よりこれ以上の小言は機嫌を更に損ねるおそれもある。瀞霊廷の外に出てまで元柳斎の説教は御免被りたい……。
そこまで考えた乃武綱は、ふと思うところがあって話題を変える。
「それより山本。お前、金勒から言われていた報告書、終わってるのか? 確か今日までだろ」
「やるわけなかろう。そういうお主こそ提出したのか?」
悪びれる様子など微塵も見せない元柳斎は、何を分かりきったことをという顔を作り、ふんと鼻を鳴らす。傲然とも開き直りとも受け取れる態度に、乃武綱は口の端が上がっていくのを自覚した。
「まさか! どう考えてもこっちのが大事だろ」
一瞬きょとんとした顔をした元柳斎は、ゆっくりとこちらを仰ぎ見る。戦場では敵を射殺さんとする険しい双眸がにわかに丸くなっているのがあまりにもおかしく、乃武綱は声を上げて笑いそうになるのを我慢しながら言葉を続ける。
「俺たちの本分は書類仕事じゃねえ、尸魂界の安寧を守ること。この尾行はそのために必要……そうだろ?」
「その通りじゃ」元柳斎は大きく頷く。
「部屋でじっとしているばかりでは街の様子など分からぬからな」
言い訳じみた話しぶりに、乃武綱は顔のにやけを抑えることができなかった。旅は道連れ。ようやく志を同じくした二人は、長次郎たちに追いつくべく揃って山道を進みはじめる。
やがて山を抜け、西流魂街八区に入った。下級貴族も居住する地区とあって町は荒れている場所などなく、店先も整理され美しさが保たれている。西洋茶屋のある五区まではまだ距離がある。
長次郎と不老不死は大通りを歩いている。時折店先で足を止め、商品を眺めているさまは護廷十三隊の死神ではなくどこにでもいる男女そのもので、年が近いせいもあってか、恋人同士や幼馴染と言われても不自然ではない組み合わせだ。
まあ、これが普通だよな。乃武綱は内心でそう呟く。日頃から長次郎は元柳斎や乃武綱といった年長者と一緒にいることが多いため不自然さを忘れていたが、これが本来あるべき過ごし方なのかもしれない。同じくらいの年の人間と他愛のない話をし、ふざけ合い、飯を食う。長次郎には、護廷十三隊の中にそうして気を許せる人間がどれほどいるのだろうか。不老不死や知霧は立場上は上官になるし、あとは源志郎くらいか。その源志郎とも任務や出動で折り合いが付かない時が多い。そうなると……。
「……儂と出掛ける時よりも楽しそうではないか」
一抹の寂しさを滲ませた声が、隣から聞こえた。元柳斎も、不老不死と歩く長次郎を見て何か思うところがあったのだろうか。乃武綱は「そうでもねえぜ。ぶすくれた頑固爺と一緒にいる時のあいつも、散歩に出た犬みたいにはしゃいでるぜ」とだけ返しておくと、にわかに人気が多くなった通りに視線を据え直す。長次郎たちは周囲をきょろきょろと見回しながら歩いているものの、こちらの存在には気付いていないようだ。
それだけではない。
「……おい、お前にも分かるか?」
乃武綱は急に声の調子を落とし、元柳斎の耳元で囁く。
「うむ。儂ら以外にも長次郎たちを追っている人間がいる……」
そう言った元柳斎の視線の先、こちらの少しばかり前方には町の喧騒には似つかわしくない、仇を前にした兵士を思わせる真剣な面持ちをした二人の男があった。長次郎と不老不死から目を離さない男たちは、時折距離を詰めるべく足を踏み出そうとするも、人が多くなかなか実行に移せない様子だった。そしてそんなことをここへ至る山中から繰り返している。
「あいつら、一体何が目的だ? 物取りにしては目立つし、第一手際が悪い。それに、あんなちんちくりんよりもっと金目のものを持っていそうな人間を狙う方がいいのに」
ざっと見ただけでも、長次郎たちより身なりも振る舞いも良いものは多く歩いている。それこそ、森から後を付けるほどの価値がありそうな獲物が。
何より、長次郎と不老不死も二人組だ。本当に金を取るつもりなら一人で行動している人間を標的にしたほうが成功率は上がる。わけありの若夫婦にでも見えたのだろうか……考えていると、「あやつらはいくら若く見えても護廷十三隊の一員。狙う理由などいくらでもあるじゃろう」という元柳斎の唸り声が耳朶を打つ。
「俺たちに恨みを持つ、あるいは良く思っていない奴らってことか」
言いながら、乃武綱は自分の顔が引きつるのを感じた。
「はたから見れば若輩者にしか見えない死神がこんなところをふらふら出歩いておるのじゃ。襲うには絶好の機会じゃろうて」
「つまりは、人ごみに乗じて命を奪おうって魂胆か?」
「断定はできぬが、な。長次郎も不老不死も非番とあって斬魄刀は持っておらぬ。この賑わいでは鬼道を使うこともできぬし……」
「あの背が低い男、さっきからしきりに手元の紙を見てやがる。あれが人相書きってことか。よし、いっそ俺がとっちめて……」
乃武綱が鼻息荒く出て行こうとするも、元柳斎がその肩をしっかりと掴んだ。
「待て。ここは人が多い。もしあやつらが自棄になり街の人間に危害を加えることがあったらどうする。あの様子ではしばらく動くことはなかろう」
再び男たちに目をやる。先ほどと変わらず長次郎たちを遠くから眺めるにとどめている。
「この先、七区となれば店の数はぐっと少なくなり往来も減る。そうなれば、儂らにとっても動きやすくなる」
「逆に言えば、あいつらにとっても長次郎たちを襲う好機になるぞ?」
向こうが仕掛けるのが先か、こちらが動くのが先か。事態は思った以上に切迫している……頭巾の下で汗が噴き出すのを実感した乃武綱は、男たちから目を離さないまま刀に手をやった。刀傷沙汰にはしたくない。だが、もしもの時は──。
「あの二人が長次郎たちを襲う前に、一気にカタをつける」
町の喧騒の中でもはっきりと聞こえた声に、乃武綱は一つ、頷きを返した。
3
そういえば、こうして町中をゆっくりと歩くなど久しぶりのことだった。任務の時は人目を避けて迅速に行動するのが基本だし、町に出る時は元柳斎の護衛を理由としたものがほとんどで、目的のない散策などできるはずもない。
まるで子供のようにすれ違う人、通り過ぎる店に目を奪われていた長次郎は、隣を歩いていた気配がなくなっていることに気付き、足を止めた。振り向いて見れば、不老不死は小間物屋の前で足を止めていた。店先で春の日差しを浴びてひときわ輝くかんざしをじっと見つめていたかと思えば、立ち止まる長次郎の姿を見つけ、名残惜しそうにその場を離れる。
別の店では小袖を、その次は紅に目を留めるも、いずれも躊躇うように眺めるだけで買うどころか触れることすらしなかった。
「気になるものがあるのでしたら、ゆっくり見てはいかがですか? せっかく町に出て来たのですし、私を気にすることはありません」
たまりかねて声を掛けたものの、不老不死は「いや、いいんだ。使う機会もないだろうし」と首を振り、店から立ち去る。言葉とは裏腹に、その表情にはやはり未練が滲んでいる。
「かんざしなんか付けてると戦うのに邪魔くせえし、どうせ血やら埃で汚れるんだから化粧なんて……」
「女性はお化粧をするだけで気分が明るくなると聞いたことがあります。ご自分を鼓舞する意味で付けるのも良いのではないでしょうか。善定寺殿も顔を粧っておりますし……それに、あれだけ動きのある四楓院も耳飾りをしています。装飾品だって、慣れればどうということはないのでは?」
「けど、儂は……こういうのに詳しくねえから……」
ぼそぼそと言いながら、不老不死は町並みへと目のやり場を求める。先ほどまで不老不死が見ていた小間物屋の前に同じくらいの年頃の女子が二人おり、かんざしや櫛を眺めながらきゃあきゃあと可愛らしい声を上げている。
「それにきらきらし過ぎてて、眩しくて、儂には似合わないような気がするんだ。今まで縁がなかったから……」
不老不死は二つに結った髪の先を摘まむ。彼女にとっては髪をくくっている黒い紐、ふんわりと形作られた蝶結びが精一杯のお洒落なのかもしれない。
考えてみれば、普段の不老不死の外見で最も目を引くのはその髪色ではあるものの、それ以外色という色はない。地味というよりも、洒落っ気がないのだ。不老不死のことだから粧うことが面倒なのだと勝手に思っていた長次郎だが、実際はその逆であったという事実に内心で驚いていた。そして未知の世界に足を踏み入れる前の不安には、自分にも覚えがある。
「憧れというのは、最初は恐ろしいものです。心を奪われたものがなんであれ、意識すればするほど釣り合わない、ふさわしくない、届かないと、自分の弱さが浮き彫りになってしまうからです」
少しばかり昔を思い出しながら言葉を紡げば、不老不死の視線が女子たちからこちらへと戻る。
「しかし同時に、憧れの場所に少しでも近づこうと、自分を奮い立たせる良い機会になります」
卍解を習得しようと必死になっていたあの頃、頭の中は元柳斎のことばかりであった。自分よりもたくましい背中と、全ての悪を見逃さんとする鋭い眼光、なによりその堂々たる戦いっぷりは、それまで出会ってきた人間とは一線を画していた。役に立ちたいという思いが腹の底で熱を帯びるにつれ、自分なんかが傍にいて良いのだろうかという懊悩も、心の奥に燻った。熱意と卑屈。その両方に揺さぶられながら過ごす日々は重く、そして苦々しいものだった。
憧れという光が生む、不穏の影。それと似た澱みが、不老不死の中にもあるのだろう。勝手にそう解釈した長次郎は、伝えなければという焦燥に衝き動かされながら口を動かす。
「齋藤殿は似合わないと言いますが、私はそうは思いません。任務の時に身に着けるのがはばかられるのであれば、こういった非番の日にめかしこむのも良いのではないでしょうか。憧れるものがすぐそこにあるのに、手を伸ばすことなく過ぎてしまうのは勿体ないことです。だから、普段の齋藤殿のように無鉄砲に見て回ってください」
言い切って、真っ直ぐに不老不死へと向き直ると、呆けたようにこちらを見る紫と視線が絡む。透徹した瞳に光が差し込み、真剣な眼差しの青年が映っている。その険しい面持ちに長次郎自身も驚いたのも束の間、不老不死がはっとしたように目をしばたかせたため、瞳の中の長次郎がぐにゃりと歪む。
そうして次には胡乱な目を向けられた。
「おい、長次郎。儂のことを無鉄砲とか思ってるのか?」
励ますつもりが一転、迂闊にもほどがある失言をしていたことに、長次郎は「え、いや、その……」と口ごもることしかできない。機嫌を損ねたかとおそるおそる様子を窺えば、不老不死はそれまでの不審顔を崩し、「ま、長次郎の言う通りだな。尻込みしてるのは儂らしくねえ」とにっと歯を見せて笑い出す。
「ありがとな」
からりと言ってのけた不老不死は、小間物屋に興味を向けることなくさっさと歩きはじめた。
「齋藤殿、見なくてもいいので……?」
「今日はもういいや。金がなくなっちまったら元も子もない」
早足で追いかける長次郎に聞こえるように、明瞭な声で言う。
「今はお前とあいすくりんを食うほうが大事だ。買い物はまた今度!」
さ、行くぞ! という声が市井に響き、不老不死は走り出した。何はともあれ元気になって良かったと胸を撫で下ろした長次郎は、ぴょんぴょんと跳ねる背中を見失わないように地面を蹴る。
二人の目的地まで、もう少し。
*
区域が変われば町家の数は一気に減り、民家が目立つようになった。西流魂街七区は居住地だ。先ほどのように若者の目を楽しませるような品はないはずなのだが、長次郎と不老不死は何が面白いのか、視界に入った様々なものをひっきりなしに指さしては談笑を繰り返している。
もっとも、他ごとに夢中で背後を気にしないというのは、追いかけているほうからすればこのうえなくやりやすい。異様に目立つはずの乃武綱と元柳斎がここまでの道すがら見つかることなく尾行を続けられたのは、ひとえに長次郎たちの注意力散漫の成果と言える。
同時に、怪しげな二人組の男が距離を詰めることも容易にした。背の高い男と、ずんぐりとした男。声を掛ければ届くほどまでに長次郎たちに肉迫したところで、何かを決意したように頷き合ったのを確かめた乃武綱たちは、今が好機とばかりに行動を開始した。
瞬歩で男たちの真後ろへと接近した乃武綱は、前方ばかりに注意を向ける首根っこを掴むと膂力を総動員し、力ずくで小路へと引きずり込む。声を上げる間も、抵抗する隙も与えなかった。何が起こったのか分からないという顔が揃ってこちらを振り返り、こちらの姿を確かめたのは、一拍遅れてからだった。「ひいっ」と喉から恐怖を絞り出したのがどちらだったかは判別できなかった。
「おい、ちょっと聞きたいことがあるんだが……」
すると、背の高い男の顔は急に表情を凍らせ、乃武綱の横の元柳斎を指さす。
「おい、この男……!」
「まさか」と続いたのはずんぐりのほうだ。二歩三歩後ずさった男たちは瞬時に身を翻したかと思えば、路地裏の奥に向けて一目散に駆け出した。
「追うぞ!」
「言われずとも分かっとるわい!」
閑静な長屋の間を通る小路は迷路のように入り組んでおり、薄暗い上に道幅が狭いものであった。迂闊に瞬歩を使えば何が起こるか分からない。そのため乃武綱たちは必死になって足を動かすことしかできなかった。
二人組はこの辺の地理に詳しいのか、迷うそぶりを見せずするすると角を曲がっていく。一方で乃武綱は、何度も長屋の軒に頭をぶつけそうになるなど、戦闘では優勢を取ることができる人並み外れた長躯が仇となりなかなか前に進めない。恵まれた体格の元柳斎も同じく、塀に肩をぶつけてばかりだ。
先に業を煮やしたのは元柳斎だ。
「儂は上から追う」
「上からだぁ?」
頓狂な声を上げた乃武綱を尻目に塀を駆けあがり、上へ上へと登った元柳斎は、小路に目を据えながら板葺き屋根を走りはじめる。確かに、こんなせせこましい場所よりは視界が利くし、瞬歩も使える。後に続くべしと考えた乃武綱だったが、それより先に降って来た元柳斎の声に、動く機会を失うこととなる。
「あやつら、すでにあんなところまで……乃武綱、お主はそのまま左の方角へと進むのじゃ! 儂は先回りする!」
「あ、おい待て! ちっ、なんでこんな狭いところを……俺だって屋根がいいのにあの爺……」
さっさと行ってしまった元柳斎に従いながらも、悪態を吐くのは忘れない。ぜえぜえと息を切らしつつどこへ続くか分からない小路を進んでいた乃武綱は、角を曲がったところで足に冷たいものを感じた。
上ばかりに意識を向けていたからか、目上を爺呼ばわりしたからか。水が張った桶に思い切り足を突っ込んでしまったのだ。
「ちくしょう、なんでこんな目に……!」
今にも泣き出しそうな情けないぼやきは、無人の長屋の壁に吸い込まれて消えた。仕方なしに追跡を再開した乃武綱は、右足だけが冷たく、地面を踏みしめるたびに水を吸った足袋がぐにぐにと気持ちの悪い感触を生む不快感と付き合いながら元柳斎の霊圧を追う。
ややあって、少し離れたところから男の悲鳴が聞こえた。それがあの二人組のもので、元柳斎が先回りをしたのだというのはすぐに分かった。
遅れて到着した乃武綱が見たのは思っていた通り刀を抜いた元柳斎と、尻もちをついて震える男たちという光景だった。
「おっさん、なんであの二人を追いかけてたんだよ」
近付くなり乃武綱が尋ねると、こちらを見た男たちの目に涙が浮かんだ。
「頼む、命だけは!」
地面に額を擦りつけはじめた二人に、乃武綱と元柳斎は一つ、溜息を吐き、
「お主ら、質問に答えよ。あの二人に一体何をしようとしておった」
「な、なにも悪いことなんか……」
「だったら、なんで俺たちの顔を見て逃げたんだよ。後ろめたいことがないなら大人しくしてりゃあ良かったじゃねえか」
乃武綱の追及に言葉を詰まらせた男二人は、互いの心情を読み取らんばかりに顔を見合わせる。やがて、ずんぐりとした男が話をはじめた。
「あの白い髪の兄ちゃんに、渡すものがあって……」
男は懐から一枚の紙を取り出し、こちらに差し出してきた。紙を受け取ったのも束の間、描かれているものが何か理解した元柳斎が顔を凍り付かせたのを目の当たりにした乃武綱は、横から紙を覗き込んだ。
「……おい、なんだよこれ」
そこに描かれていたのは元柳斎の似顔絵だった。今度は背の高い男のほうが説明する口を開く。
「あの兄ちゃんがこれを落としたのを見た俺たちは、大事なもんかもしれねえと思って返そうとしてたんだが、いかんせん人が多いせいかなかなか声を掛けられなくて……」
「そもそも、男が男の似顔絵を持ってたから、その……ただならぬ関係の相手かと思って」
「そんなわけなかろう!」
噴き上がった怒りのまま元柳斎が怒鳴りつければ、男たちの肩がびくりと大きく跳ねる。放っておけば第二、第三の雷が落ちかねないと考えた乃武綱が仕方なしに宥めると、「だよなあ」と男のどちらかが漏らす声が聞こえた。
「何にせよ、大っぴらにするとあの兄ちゃんも恥ずかしいだろうから、人気のない場所で渡したほうがいいかと思って、それで……」
「じゃあ、お前たちが逃げたのは……」
ずんぐり男の言葉を、乃武綱の問いが遮る。今度は背の高いほうが答えた。
「似顔絵と同じ顔の男が現れるなんて、思ってもいなかったからびっくりした。なんか、おっかないし」
そこで乃武綱は横を見る。元柳斎の怒りは収まりわずかに落ち着いたものの、これ以上にない渋い顔をしている。
「しかしまあ、なんで長次郎はこんなもん持ってたんだ?」
乃武綱の疑問は所持していたことよりも入手経路に対するものだった。まさか長次郎の作ではあるまい。筆遣いから察するに相当の熟練者が描いたもの。誰の手によるかなど皆目見当も付かない……。
「……心当たりは、ある」
考えあぐねていたところで、元柳斎の溜息が聞こえた。乃武綱と男たち、三人分の注目が元柳斎へと向けられる。
「一番隊舎の庭に柳の木があるじゃろう」
「おお、あのやけに立派なやつか。それがどうした?」
「少し前、儂の部屋の掛け軸の絵にその柳を描いてもらおうと絵師を呼んだことがあってな……絵師は千日に紹介してもらったのじゃが、多くの貴族の依頼を受けるほどの腕の者だった。実際、かの者は一刻もかけず見事な墨絵を描いて見せた。ちょうど傍にいた長次郎はその絵師にいたく興味を持ったようで、儂の用事が終わった後に目を輝かせて人物画は描けるかなどと尋ねておった」
話を聞きながら、乃武綱は自分の口がへの字に曲がっていくのを感じていた。なんとなく予測がついたのだ。乃武綱の顔を見た元柳斎が話を続ける。
「……お主が考えている通りじゃ。あろうことか長次郎は、絵師に儂の絵を描いて欲しいと頼んでおった。無論、その時は叱りつけてやめさせたが……」
「長次郎の奴、お前の知らないところで描いてもらっていたと」
乃武綱は再び絵に目を落とす。元柳斎に隠れて描いたということもあり、髷の形や髭の質感などが実際とは微妙に異なっている。心なしか微笑んでいる上、若々しく美化されていることも、長次郎以外が見れば背筋が粟立つような不気味さを醸し出す一因であろう。
しかし長次郎は、敬愛する元柳斎をより身近に感じたかったのか、あるいは苦難を乗り越えるよすがとしたかったのか、その絵をお守りのように肌身離さず持ち歩いていた……。
事件が思いも寄らない結末を迎えたことに、乃武綱はどっと疲れたような心地になった。
「あのう、それで、この絵はどうしましょうか」
こちらを見上げた男が、おそるおそるといった顔で尋ねてくる。
「下らぬことで手間をかけさせたな。この絵は儂が早々に……」
元柳斎が絵を受け取ろうとしたのと乃武綱が手を出したのはほぼ同時だった。紙一重の差で素早く取り上げた絵を高く掲げて見せると、元柳斎は取り返すべく手を伸ばしてくる。が、あまりの身長差に手が届くはずもなく、しまいには目を吊り上げこちらを睨みつけてきた。
「何をする!」
「お前、この絵を燃やすつもりだろ」
「当たり前じゃ。そんなもの、恥ずかしくて残しておけぬ」
「駄目だ。よく見ろ。紙が全体的によれているし、端のほうなんか繊維が毛羽立つほど脆くなっている。それだけ大事に持ち歩いてたってことだ。いくらお前が描いてある絵だってな、勝手に処分しちゃいけねえ。それは長次郎との信頼関係を損なうし、何よりあいつが悲しむぞ」
ぐっと詰まる元柳斎に「こいつらだって、長次郎にこれを返そうと必死になってくれたしよ」と付け足すと、視界の端に頬を緩めた男たちが頭をかくのが映った。
「とにかく、これは一度長次郎に渡すべきだ。どうするかはその後」
弁駁も否定もなく、黙ったままの元柳斎は、納得がいかないというわけではなく何かを思案しているように見えた。いくら石頭でも、これだけ言えば強硬手段には出まいと判断した乃武綱は「ま、これは俺のほうで預かる。隊舎の前に落ちてたとか適当に言って返しておくさ」と締めくくり、絵を懐にしまいこんだ。
「お前らも、追いかけ回して悪かったな。行っていいぞ」
乃武綱は未だ座り込んだまま二人を、声に穏やかさを乗せて促す。男たちはおずおずと立ち上がりこちらに一度頭を下げると、来た道を小走りで駆けて行ってしまった。
「じゃ、俺らも行くか」
男たちの背中が長屋の角を曲がり、足音さえも聞こえなくなるまで見送ってから言うと、「どこに行くつもりじゃ」とぶっきらぼうな声が返ってくる。
「おいおい、走ったせいで〝俺たちの本分〟を忘れちまったのか?」
ぽかんと立ち尽くす元柳斎に、乃武綱は口角をこれでもかと上げて笑って見せる。
「決まってんだろ。あいつらが無事にあいすくりんを食えるか、見届けるんだよ」
4
西洋茶屋は外観こそ他の店と変わらぬ町家造りではあったものの、中に入ればまるで別世界だった。壁は一面白く塗られ、色彩鮮やかな絵が飾られており、棚や机、椅子といった調度品のところどころには意匠を凝らした細かな彫刻が施されている。天井からはいくつものろうそくを抱えた真鍮の燭台が鎖で吊り下げられており、居抜きの飯屋を建物そのままに西洋風へと変更した名残りが見られるものの、これまでまるで縁のなかった瀟洒な世界に長次郎と不老不死は、ただただ圧倒されるばかりだった。
店はそれほど混雑していなかった。袖のない割烹着のような前掛けをつけた給仕に案内された二人は、席に着くなり注文を済ませると、しばし無言で店内を眺めていた。
「そんなに気を落とすなって」
よっぽど意気消沈しているように見えたのか、不老不死が声を掛けてくる。どうやら落ち込みは隠しきれていなかったようだ。
店に到着する直前、西洋茶屋の広告紙とともに持って来た元柳斎の似顔絵がないことに気付いた時の長次郎は大慌てとしかいいようのない狼狽えようだった。おそらく道中で何度も広告紙を出し入れしたためそこで落としたということは推測できたものの、瀞霊廷からここまでかなりの距離だ。小さな紙一枚を戻って探すには途方もないことも相まって、長次郎の胸に暗雲が立ち込めたままだった。
「よりによって、元柳斎殿の似顔絵を失くしてしまうとは……」
「大体、なんでそんなもん持って来たんだよ。魔除けか?」
「例え本人でなくとも、元柳斎殿と来ている気分を少しでも感じたくて……」
長次郎からすれば至極真面目に答えたつもりだが、不老不死は「うへえ」と顔を顰められた。
「うん、やっぱり山本の右腕はお前しか務まらねえな」
そう納得する声が聞こえたところで、給仕が盆を手に席へと近付いてきた。せっかくだからとあいすくりんと一緒に頼んだお茶が運ばれて来たようだ。
「麦湯か? それにしてはなんだか赤いぞ」
給仕が離れたのを見計らった不老不死の言葉に、長次郎も茶を覗き込んだ。
『麦湯』とはいわゆる『麦茶』のことを差す。現世では平安時代から貴族が麦を炒って粉にしたものをお湯に溶かして飲んでおり、時代が下るにつれ大衆に広がったとされている。尸魂界でも同様に愛用している貴族がおり、実際に飲んだこともあったが、ここまで赤いものではなかったはず。
「西洋のお茶はこういうものなのでしょう」
とりあえずの答えに、でもよ、と不老不死が切り返す。
「これ、湯飲みは飯茶碗みたいに平べったいし、輪っかが付いてるし、しかも皿の上に乗ってるぞ。どうやって飲むんだ?」
その声は人目をはばかってか、普段よりも大分抑えた大きさだ。
これらは西洋では『紅茶』『ティーカップ』『ソーサー』と呼ばれるものだが、そんなことを知るよしもない長次郎も不老不死も、ただただ物珍しそうに眺めるしかできない。
やがて、
「こういう時は他の人の真似をしましょう。お隣のご婦人を見てください。この輪っかをつまんで湯飲みを持つのです」
ちらりと隣の席を見ながら、長次郎は『平べったい湯飲み』の持ち手をつまみ上げ、茶をすすった。不老不死もこわごわと長次郎に続く。
「いつも飲んでる茶とは違う匂い……これが西洋の……!」
不老不死の驚きの声に「さわやかで、まるで柑橘のような香りですね」と長次郎が付け足す。香りと温かさに、冷えた体に熱が広がっていく。やはり飲み物を頼んで正解だったとしみじみしていると先ほどの給仕がこちらに向かっているのが見えた。いよいよあいすくりんがやってきたのだ。
短い脚が伸びた器は硝子でできており、側面にはなめらかな流線が描かれている。その上に控えめに鎮座しているのは思い描いていた新雪の白、半球状に盛られたあいすくりんが日差しを受けてきらきらと輝いていた。
「おおっ、これがあいすくりんか!」
不老不死が歓喜の声を上げる。すかさず長次郎が「齋藤殿、声が大きいですよ」と口元に人差し指を立てると、不老不死ははっとしたように口を噤み、きょろきょろと周囲を見回した。
声を上げたくなるのも無理はない。長次郎自身、はじめて見た時は知霧と二人で目を丸くしたのをよく覚えている。あの時の自分もきっと、今の不老不死のように口元を緩ませ、そわそわとせわしなく匙を握っていたのかもしれない。
「この、銀色の匙ですくって食べるのか?」
「そうです。冷たいので、少しずつですよ」
不老不死は匙の先であいすくりんを少しだけすくい取ると、そろそろと口の中へと運び込む。
直後、期待に揺れていた右目が大きく見開かれた。
「溶けた……!」
もう一口、匙の半分ほどを舐める。今度は味わうように舌の上で転がした後、ゆっくりと飲み込んだ。
「餡子やきな粉とはまた違う甘さだな。これは砂糖か?」
「それだけでなく、牛の乳で作られているそうです」
「牛の乳? 本当か?」
不老不死はわずかに身を乗り出す。
「ずいぶん昔、精がつくと言われて山羊の乳を飲んだことがあったが、あれは癖があって飲みにくいものだった。牛のほうはこんなに美味いのか」
しみじみとした声を聞きながら、長次郎もあいすくりんを食べる。知霧と食べた時と同じく、口いっぱいに優しい甘さが広がった。
金属製の匙が硝子に当たる澄んだ音が、店のあちこちから聞こえてくる。それはまるで夜空の星の瞬きが音の粒になったようで、なんだか楽しい気分になった。
「こんなに美味いものを食わないなんて、山本は勿体ないことをしたな」
器を舐める勢いであいすくりんを食べながら、不老不死が呟く。心底残念という声の割に、その顔は満面の笑みに彩られている。
「ま、そのおかげで儂があいすくりんにありつけたわけだが」
「でもいつか、元柳斎殿にもあいすくりんの美味しさを知ってもらいたいです」
元柳斎はあいすくりんを前にどんな反応を示すだろうか。長次郎は想像を巡らせる。あの凛々しい眉が、思いがけず跳ね上がるのだろうか。鋭利とも言える目が不老不死のように丸くなり、美味い美味いと声を上げるだろうか。いくら美味いものを食べ慣れている元柳斎でも、あいすくりんの甘さには驚くはず……。
「これだけ溶けやすくて繊細なんだ。あいつの傍になんか置いたらたちまち溶けちまうぞ」
悪戯っ子のような言いように、長次郎は思わず吹き出してしまった。
「確かに、元柳斎殿とは相性が悪いかもしれませんね」
「あいつにあいすくりんは似合わねえ。次は抜雲斎や八千流と来ようぜ。あ、せっかくだから千日も呼ぶのはどうだ? 貴族の男と町を歩く機会なんざ滅多にねえぞ」
「そんなこと言って、ちゃっかり奢らせるつもりでしょう」
長次郎の突っ込みに、不老不死はぺろりと舌を出した。どうやら図星のようだ。
一口ごとにあいすくりんへの感動を口にする不老不死の相手をしながら、長次郎は何の気なしにお品書きを眺める。他に元柳斎が好みそうなものがあるだろうか……そう考えていたちょうどその時、ある単語が目に入り、頁をめくる手を止めた。
「お持ち帰りができるのか」
最後のあいすくりんを口に入れた不老不死が、器を脇によけてから身を乗り出して覗き込んでくる。
「さすがにあいすくりんは無理か」
「瀞霊廷に着くまでに溶けてしまいますからね」
こういう時ばかりは氷雪系の斬魄刀を所持する死神が羨ましい。あいすくりんの運搬どころか、上手くすれば作ることもできるのかもしれない……そんな夢物語を想像していると、突如不老不死がお品書きの上に人差し指を置いてきた。
「持ち帰りができるのは……ビスカウト? なんだ? これは」
「焼き菓子と書いてあります。説明によると、さくさくとした食感と牛乳の甘さがちょうどよいとのこと……」
「さくさく? 落雁みたいなものか?」
「落雁とは違うと思いますが……」
「ま、砂糖と牛の乳を使ってるなら美味いと思うが……そうだ!」
不老不死はぱちんと手を叩くと、「儂にいい考えがある」と歯を見せて笑い、長次郎の耳に唇を寄せる。
やがて耳打ちされたある提案に、長次郎は深く頷くこととなる。
*
一足遅れて西洋茶屋に到着した乃武綱と元柳斎は、見つからないように少し距離を置きながら店の中の様子を窺っていた。
「見ろよ、あの美味そうな顔」
一風変わった内装の先、奥のほうの席には満面の笑みを浮かべる長次郎と不老不死が見える。分かりやすい反応に乃武綱が口元を緩ませるも、元柳斎は前方に目を据えたままうんともすんとも言わない。
「お前も本当は分かってんだろ? 長次郎はお前と一緒に美味いもんを食いたいって思って誘ったんだ。疲れてるお前を労わるためにだな……」
「……分かっておる。あやつはそういう奴じゃ。儂なんぞの喜ぶ顔を見たいがために、ちょこちょこちょこちょこ動き回る、変わり者よ」
そこではじめて、元柳斎は顔に笑みを浮かべた。安堵とも呆れとも取れる、柔らかな笑みだ。戦いの時の苛烈さからはおおよそ想像もできないほどの慈しみと優しさに満ちた元柳斎の眼差しに、乃武綱のほうもつられて目尻の皺が深まった、その時。長次郎と不老不死が席を立つのが見えた。
そうして店から出て来た二人の顔は、どこか晴れ晴れとしたものだった。それだけではない。長次郎の手にはたんぽぽのような淡い黄色の風呂敷包みがあった。
「あれ、きっとお前への土産だぜ」乃武綱は確信した。元柳斎に突っぱねられたとはいえ、頑固者の長次郎のことだ。是非食べて欲しいと、鼻息荒く土産を元柳斎に押し付けるつもりに違いない。そういえば先ほど不老不死が長次郎にひそひそと何か囁きかけていた。落ち着きがないようで周りをよく見ている不老不死が、長次郎に助言をしたのかもしれない。あいつもなかなかの世話焼きだな……。
「いいか、今度は突っぱねるんじゃねえぞ。せっかく長次郎がお前のために用意してくれたんだから」
「……乃武綱。先の絵をこちらに寄越せ」
一体なんのつもりだと元柳斎へと目を移す。
「処分はせぬ。帰ったらあやつと少し話そうかと思うてな」
逸らされた視線に、こちらにまでくすぐったいものがこみ上げてくる。狡猾な笑みを浮かべた乃武綱は「じゃ、頼んだぜ」と絵を渡すと、期待を込めて強く肩を叩いた。
そうして帰路についた長次郎と不老不死を見送った後、乃武綱は「さてと」と大きく腕を伸ばし、元柳斎へと向き直る。
「お前と長次郎が上手く仲直りできるか作戦会議でもするか」
「作戦会議じゃと?」
「せっかくここまで来たんだ。戻る前にちょっくら一杯引っかけていかねえ?」
「またお主は……」
「この近くにいい店を見つけたんだ。珍しい酒が置いてあるし、なによりつまみが美味い」
案の定、元柳斎の眉間にはこれ以上になく皺が寄っている。飛んで来るのは𠮟責か、それとも疲れたような大きな溜息か。そう身構えていたところで、
「……まあ、たまには良いか」
乃武綱は驚きのあまり数瞬ぽかんとしていたが、やがて顔全体で喜悦を作り上げると、「総隊長殿と呑めるなんざ、俺はついてるぜ」と喜色満面の声を出す。
「おだてても何も出ぬぞ」
即座に釘を刺されるも、乃武綱は揉み手擦り手で元柳斎の周りをひょこひょこと飛び跳ねるのをやめない。
巌の偉丈夫と黒ずくめの道化という一風変わった組み合わせの二人の間には一大事を解決した後のようなさわやかな達成感が漂っていた。そんなどこか浮ついた足取りのまま、乃武綱と元柳斎は肩を並べ、町の喧騒へと消えていってしまった。
5
すっかり日が落ち、昼間の暖かさが一転し総毛立つような寒さが降りて来た頃。瀞霊廷に二つの影が現れた。かなりの身長差があるにも関わらず二人は肩を組み、まるでふらふらとした足取りを支え合っているように、互いの体にもたれながら歩いている。
「なかなか美味い店だっただろ?」
そう話した乃武綱の声は誰が聞いても分かるほど上機嫌なものだった。隣の元柳斎の顔も赤みがかり、心なしか表情がだらしのないものになっている。
「お主にしては趣味の良い店だった」
「だろ? 俺の舌は案外肥えてるんだぜ」
「なーにを調子の良いことを」
周囲は隊士の姿がなく、静寂だけがあった。そのため二人が発した豪快な笑い声はひときわ大きく響き、瀞霊廷の壁を小さく揺らす。酔いが回っているということもあり、乃武綱も元柳斎も気が緩んでいた。
そうして酒で火照った体を冷やしながら進み、夢見心地のまま前方に一番隊舎の門が見えたところで、突然視界がぐらりと揺らいだ。
飲みすぎたか? という自問は、地に伏した瞬間に霧散した。体が重く、自由が利かない。誰かに押さえつけられている圧迫感に、たるみきっていた意識に緊張が走るのを自覚した。
曲者か? こんなところで……関節を押さえ込まれ、完全に反撃ができない状況に歯噛みしながらも隣に目をやれば、元柳斎もうつ伏せに倒れていた。その上には岩を思わせるがっちりとした体がのしかかり、つるりとした頭皮が月の光に輝いている。
「煙鉄?」乃武綱が発するも、その声は掠れてしまっていた。すると今度は「おいおい、いくらなんでも飲みすぎだろ」と別の声が降って来た。
「おめえら、しこたま飲んできたみてえだな。そこかしこに酒の匂いがプンプンするぜ」
有嬪のものだ。「お主ら、一体何のつもりじゃ!」と上手く回らない舌で元柳斎が叫べば、「それはこっちの台詞だ」と呆れたような物言いが飛んできた。
目の前に汚れ一つない足袋と、履き古した草履がある。首を思い切り伸ばし見上げれば、鬼の形相をした金勒がこちらを睨みつけていた。
「護廷十三隊の隊長二人が、大切な書類をすっぽかして飲み歩くとはいい度胸だな。今日という今日は許さんぞ」
視線だけで人を射殺しかねない眼差しと書類の存在を思い出したことで一気に酔いが醒めた乃武綱と元柳斎は、這い上がる寒気を吹き飛ばす勢いで口を動かす。
「儂らは……見回り、そう、流魂街の見回りをしておったんじゃ!」
「山本の言う通り! 長次郎と不老不死が出かけるって言うから、ついでにだな……」
そこで乃武綱は、金勒の手にあるものに気が付いた。薄闇でもはっきりと分かる、黄色の包み……間違いない、西洋茶屋から出た長次郎が持っていたものだ。
「その包みは!」
「ああ。これか」金勒はうやうやしく包みを掲げながら、乃武綱の疑問に答える。
「長次郎と齋藤が、急に休みをもらって悪かったとわざわざ持ってきてくれたんだ。なんでも、珍しい西洋の菓子だそうだ。あいつらは若いのに良く気が回るな」
「儂への土産ではなかったのか……!」
真横で絞り出された声には、愕然以上に悲痛が滲み出ている。
「まあいい、連れて行け」
対する金勒の声からは情だとか温かみといったものは一切感じられなかった。力づくで立たされた乃武綱と元柳斎は、半ば引きずられるように三番隊舎のほうへと歩かされる。
「おい、有嬪! お前なんのつもりだ! すっかり金勒の言いなりになって、恥ずかしくねえのか!」
「恥ずかしいのは乃武綱、おめえのほうだ。今回は金勒が正しい。ったく、目を離すとすぐにさぼるんだから困ったもんだ」
「煙鉄、お主……」
「山本、悪い。お前に恨みはない。だが俺も金勒には世話になってるから」
総隊長の威厳もなにもあったもんじゃない。戻って来た時とはうって変わった切実な叫びが、春の夜にささやかな賑わいを添える。
*
塀で途絶された一番隊舎、長次郎の部屋には甘い匂いが漂っていた。外の騒々しさなどまるで知らない部屋の主は、不老不死とともにビスカウトが詰まった箱を覗き込んでいる。
西洋茶屋ではお土産用のビスカウトを二箱用意してもらった。二つを同じ風呂敷に包み、瀞霊廷まで運んだ長次郎たちは、目上にはきちんとしたものを贈るべきだという判断から自分たち用の箱を取り出して包み直し、金勒へと渡したのだ。
ビスカウトはこんがりときつね色まで焼かれた、小さな円盤状の菓子だった。整然と並べられた一枚を摘まんだ不老不死は、期待と興味に満ちた顔で口へと運ぶ。
「さくさくだ……!」
ほどよい歯ごたえに、不老不死の目はあいすくりんを食べた時と同様にきらきらと輝いた。
「落雁よりも固いが、でも優しい甘さもある。西洋のせんべいみたいなもんか?」
「たとえが適当過ぎますよ」
言いつつ、長次郎もビスカウトをかじる。さくさくと口の中で崩れ、噛めば噛むほど甘さを感じることができる。
「これはお茶請けに良いですね。水分も少ないので陣中食にも適しているのでは?」
「こんな美味い陣中食、あっという間に食っちまいそうだ」
「やはり元柳斎殿にもおすそ分けを……」
「いらんいらん。さっきあいつの部屋の前を通ったらいなかっただろ? どうせどっかに呑みに行ってんだよ。せっかくのお前の誘いを蹴ったくせに、全く」
不老不死がまるで自分のことのように怒ってくれるのは嬉しかったが、内心では落ち着かない気分だった。今日の元柳斎に外出の予定はなかったはず。だからてっきり一日書類仕事をしているものと長次郎は思っていた。普段から護廷十三隊とはどう在るべきかを滔々と語り、自分にも他人にも厳しい元柳斎が無計画に、しかもここまで遅くなるまで出歩くとは、一体何事か。何か良からぬことに巻き込まれていないといいが……。
思考ばかりを巡らせていると、目の前に座っていた不老不死が箱に詰まったビスカウトの半分を皿に移し、さっさと立ち上がるのが見えた。
「こっちは儂の分、残ったほうはお前の分。半分こな」
「部屋に戻られるのですか?」
「抜雲斎と八千流にも分けてやろうと思ってな。じゃあな! 今日は楽しかった。また出かけようぜ!」
大切そうに皿を抱えた不老不死はまばゆいばかりの笑みを浮かべると、せわしなく部屋を飛び出していった。遠ざかる足音が、夢のように楽しかった一日が過ぎ去り平時と変わらぬ一人の時間に戻った寂しさを呼び起こし、胸が締め付けられる思いがした長次郎は、行き場のなくなった視線をビスカウトへと差し向ける。
しかしすぐに廊下の先から誰かが駆けてくる音が、静寂へ割り込んでくる。不老不死が戻って来たのか? 不思議に思い、再び顔を上げたところで勢いよく障子戸が開かれ「長次、お前、やっと帰ったか!」と息せき切った声が飛び込んできた。源志郎だった。時間をまるで無視した嵐のごとき勢いに、長次郎はのけぞりたくなるのをぐっとこらえた。
「お前はいきなり休むって言うし、どういうわけか元柳斎殿はいないし……急務がないから良かったけどなあ」
独り言とも愚痴ともつかない嘆きをぶつくさとこぼす源志郎に、長次郎は尋ねる。
「元柳斎殿はどこに行かれたんだ?」
「さあ。他の者が言うに、日中から不在とのことだ。門から出て行くのを見た者もいることから、流魂街に用があったんじゃないか?」
はて、流魂街に用事? 謎が謎を呼ぶばかりの答えに首をひねったところで、源志郎がまたもや大声を出した。
「あ、おやつがある! せんべいか?」
「ビスカウトという、西洋の菓子だ。今日、齋藤殿と流魂街に新しくできた西洋の茶屋に出かけてな」
「西洋の! いいなあ! 俺も誘ってくれれば良かったのに」
「お前は任務で出かけていただろう」
「そうだが……でも、俺も西洋のものを食べてみたい!」
好奇心旺盛なのか、ただ食い意地が張っているだけなのか。子どものようにふてくされる友人に、長次郎は一つ苦笑いを向けると、
「悪かった。良かったら一緒に食べないか? 今から茶を淹れるから」
源志郎は待ってましたとばかりに「いいねえ、そうこなくちゃ」と破顔すると、ビスカウトの入った箱の傍へと腰を下ろす。
入れ替わりに席を立った長次郎が廊下に出ると、春の暖かさが抜けきった風が頬を撫でた。足先から体温が奪われる心地はまるで冬に戻ったよう。手をこすり合わせながら炊事場を目指して進んでいると、途中で元柳斎の部屋の前を通りかかった。部屋は未だ不在なのか、明かりはない。この様子だと戻るのは夜中か、それとも明朝か……。
長次郎は昨日の元柳斎とのやりとりを思い出す。あれから幾度も季節が廻ったものの、あちこちに滅却師侵攻の傷痕が生々しく残っている。冷静になった頭では元柳斎の態度も仕方がないという納得があるものの、しかしいつか元柳斎にもあいすくりんを食べてもらいたいという思いも捨てきれない。
もう少し時が経ち、この世界に本当の平和が訪れた暁には、元柳斎も西洋の文化に寛容になってくれるだろうか。今日、不老不死がそうであったように、二人で目を輝かせながらあの甘さを味わうことができる日が訪れるだろうか。
長次郎は夜空を見上げる。元柳斎が乃武綱とともに三番隊舎で金勒の監視下に置かれながら書類の山を片付けていることなど知る由もないまま……。
全てを知っているのは月だけだった。柔らかな光に照らされた夜は、今日も静かに更けてゆく。
穏やかに、そして厳かに。
《了》