誰の香りか 眠そうに目を擦りながら朝食を食べる伊藤ふみやを本橋依央利は眺めながら他の住民たち、厳密に言うと自分を含めた五人分の朝食の準備に取り掛かる。
「美味しいですか?」
「うん。一人分だけ先に準備して貰ってわりぃね」
食事を終えたふみやが箸を置いた。食器をテーブルから回収しながら依央利はニコッと笑みを浮かべた。
「いーんですよぉ。早朝から負荷あざっす」
あふ、と欠伸をするとオレンジのジャケットを着たふみやが立ち上がって玄関へと向かう。時間は午前六時半を過ぎた頃、庭で体操をしていた草薙理解がリビングに入ってくるとふみやの背中を見て首を傾げた。
「今日はふみやさんは朝からお出かけですか?」
「あ、理解くん」
ふみやの食べ終わった食器を洗いながら依央利が少しだけ振り向く。あー、と声を漏らしながら少しだけ言いにくそうに誤魔化し笑いをした。
「うーん、と天彦さんがね。お仕事で朝に帰るから……えっと、心配でえ! うん、そう。心配で、いつも玄関で待っちゃうんだよね」
苦し紛れの依央利の説明を聞いた理解はパッと顔を明るくする。
「それは、良いことです! 仲間を心配することは大事ですね」
「あ。誤魔化されんだ」
玄関先の壁に背をつけながらふみやが体育座りをしていると、ガチャ、と玄関のドアが開いた。朝の爽やかな空気と裏腹にムアッとした夜の匂いを背負った天堂天彦が顔を覗かせる。
仕事帰りの疲労感と充実のある顔がふみやの姿を見て、パッと笑顔に変わった。
「天彦、おかえり」
「ふみやさん!」
天彦が靴を脱いで家の中に入ると、座り込んでいたふみやが立ち上がり天彦の方に体を寄せる。雰囲気としては帰ってきた恋人にハグをするような。そんな甘いものを感じるところだが、天彦は少しだけ遠い目をしてそれを受け入れた。
スンスンスン、とふみやが眉を寄せて怒りながら天彦の匂いを嗅ぐ。
「くそ……今日も匂い消えてる」
「oh…sexy…」
「うるせえ」
ぐいっと胸ぐらを掴まれ、シャツの中までチェックするかのようにスンスンとふみやの鼻が鳴る。肌に触れる鼻先だったり鼻息がこそばゆくて天彦は少しだけ喉をごくりと動かした。
「いろんな香水の匂いと煙草と酒。天彦のも、俺のも、全然匂いしないじゃん」
「そう、言われましても……」
「天彦の汗の匂いもしない」
べろりとふみやの舌が天彦の首筋を舐める。
「ッ、ん」
徹夜明けで倦怠感の残る身体に触れた粘膜の刺激に天彦が、ぴくりと反応するのをふみやは舌を出したまま見つめた。
「ふーん」
舌を口の中にしまう。天彦の腕を掴み廊下を引き摺るように歩き出した。
「よお、おはよ」
「おはようございます、猿川くん」
起き出してきた猿川慧とすれ違う。
「おはよう、伊藤ふみや。おかえり、天彦」
「おはようございます、ビューティー」
洗面所で歯磨きをするテラに天彦が挨拶をし、ふみやが浴室をゆっくりと指差す。
「テラ、しばらく風呂場使うから」
「ああ……うん……」
諦めに近い表情を浮かべたテラが口を濯ぐと、そそっと洗面所から廊下に出て、少しだけため息を吐いてから扉をバタンと閉めた。
「ん」
浴室に続く扉を開けるとふみやは天彦をペイッと浴室に放り込む。肩を掴んで天彦の裏膝に足を引っ掛けてその場に座らせた。
「ふみやさん……」
水場の独特な水と洗剤と住民たちの使うソープの入り混じった匂いが立ち込める。嗜めるような天彦の声にふみやは小首を傾げるとシャワーの蛇口に手をかけた。
「臭いんだよ。ダメ? 別にいいでしょ?」
「フフッ……お手柔らかにお願いしますね」
少しだけ頬を染めた天彦にふみやは舌打ちをするとそのまま蛇口のノブを押し込んだ。ザバッと細かい人工的な雨が天彦の頭から足の先まで全てを洗い流すように流れ出す。冷たい水が頭の中に滲み、額から鼻筋と唇までを濡らした。寒さを感じながら天彦が口を開こうとした瞬間に温かな唇に塞がれる。
「ッ、ふ……あ……」
「冷たい?」
唇の隙間から囁かれるふみやの深い声に天彦は喉で笑いながらスカイブルーの瞳を瞬かせた。
「あついです……ね……」
濡れそぼる互いの衣服の重さが心地良い。
落とし込まれるのはどちらなのか。どちらが堕としたのか。
「あっそ……ほんと狡い大人だね、お前」
きっとリビングでは依央利が用意した朝食を皆が食べていて、いつもの過ぎる日常がそこにあって。
それでも歪に蝕んだふたりは水音に紛れるようにお互いの存在を貪る。
「はッ……ぁ……ふみやさん、続きどうします?」
「あー、ね」
ふみやは天彦の瞳に宿る熱をじっと覗き込んでからハハッと笑った。
「ダメだよ、天彦。皆、朝ごはん食べてるんだから」
濡れた髪を掻き上げてからふみやはシャワーの温度を上げて天彦とふみやの体を温めると濡れた服を脱ぐ。シャワーを止めてから、べしょべしょになった天彦のジャケットとパンツを脱がしてシャツに手をかけると天彦の手が伸びて、そっと止めた。
「シャツは着たままのがセクシーですから」
「頭洗うから脱いで」
「あ、はい。え? 洗うんですか?」
シャツを脱ぎ、ふたりとも全裸になった状態になると濡れた服を洗面台に放り込む。ふみやは浴槽にお湯を張りながら天彦をバスチェアに座らせると天彦が普段使っているシャンプーを手に取って天彦の頭皮に指を滑らせてワシワシと泡立たせた。
「どうしました?」
「何が?」
「今日優しいですね、ふみやさん。一番最初は熱湯だったし、その後も、もっと手荒だったじゃないですか」
マッサージするようなふみやの手つきが気持ちよくて天彦は目を緩める。白い泡と赤紫の髪が混じり合う。
「反省した」
「反省?」
天彦のうなじの部分を擽るようにふみやの指の先がガシガシを掻いた。
「天彦のこおいうおねだりを甘やかすのは良くないなって思って、さ」
シャワーで天彦の髪についた泡を洗い流す。天彦の赤く染まった耳の裏についた泡を指先で丁寧に落としたふみやは最後にギュッと全体を絞るように天彦の頭を掻き上げた。
「皆の迷惑になっちゃうでしょ? そんなに俺の匂いになるの確かめたいの?」
丁度、お湯が張り終わるとふみやはシャワーを止めて湯船にゆっくりと入る。真っ赤な顔をした天彦にふみやは顔を向けた。
「分かった?」
「はぁい……」
天彦はまだ少しだけ染まった頬を誤魔化すように髪を下ろすとコンディショナーを手に取って、軋む髪に馴染ませた。