守り手は現のみならず / クロアス----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
紙の上で優雅に踊る羽根ペンが動きを止めた。読書をしていたアステルは、本を閉じ凝り固まった身体をほぐすように伸びをする。ペン先が奏でる調べも、職務に励む隣の静かな息遣いも、今ではもう馴染みのものだ。執務室の穏やかな時を刻む音は心地よく、瞼を重くするには十分だった。
「先に寝ていても構わなかったのだがな」
机の上に広がった書類を片したクロービスは眼鏡をかけ直す。宵闇の瞳が揺らぎを捉えるより早く、アステルは当たり障りのない理由を口にした。
「ちょっと、夜更かしをしたい気分だったので」
「……明日も早い。もう眠るぞ」
寝室へと向かうクロービスの後を追って、アステルは同じ扉をくぐる。こうしてあとは眠るばかりとなった二人には、まだやるべきことが一つだけあった。
細部までよく見えるよう室内灯へ照らされた肌の上を、熱の籠った視線が滑っていく。吐息に擽られ、指が柔らかな場所をなぞる度、上擦りそうな声を抑えていたアステルは、ついに焦れて控えめな抗議を行った。
「く、クロービスさん、そんなにまじまじと見なくても……」
「小さな傷口とて見逃すわけにはいかぬ」
意に介さないといった調子で手の観察を続けるクロービスの目は真剣そのものだ。純粋に身を案じての行動なのであろうことは明白だけれど、気恥ずかしさにアステルは頬を染め俯く。最初にハンドクリームを贈られてから今夜に至るまで欠かされなかった日常は、慣れるにはあまりに優しく丁寧だった。「いちいち口に出さねばいかぬのか」と零された言葉の意味をまさしく体現するこの習慣は、想いの嵩の分だけ触れる指先から伝わる温かさを意識してしまう。
「特に問題はないようだな」
検分を終えたクロービスは、雪の結晶が描かれた缶に手を伸ばす。使いこみ緩くなった蓋は少し力を込められるだけで、間の抜けたような音を響かせて開いた。より密度の濃い時間が始まる合図にいっそう身を固くしたアステルに、クロービスは怪訝そうに尋ねる。
「何を緊張しているのかね。初めてというわけでもあるまい」
「その、大切にされているんだな、と思って」
「……当たり前だ」
何事もなかったかのようにクロービスは底から掬い上げたクリームを両手で温め、アステルの手を包み込む。触れた瞬間の冷たさは生ぬるさとなり、じわりと沁み込んで潤いを与えていった。そのまま手のひらや甲、指の腹や間、爪との境目、手首まで、くまなく撫で上げられていく。繊細な芸術品を扱うのにも似た手つきは、アステルがどれだけ大事な存在であるかを如実に物語っていた。
「……クロービスさんは、信じていたものが揺らいだとしたらどうしますか?」
「また随分と曖昧な問いだな」
「すみません。まだまとまっていなくて」
まとまっていない、というのは半分だけ本当で半分は嘘だ。対峙した魔王や六天魔がアステルの魔族への印象を変えた一方で、久しぶりに祈りへ応えた女神の様子は拭いきれない違和感を残している。けれどそれを、魔族をよく思っているとは言い難いクロービスに直接相談するのは憚られ、中途半端な質問をするにとどまっていた。難しい顔をしたクロービスはもう片方の手を取ると、先ほどと同じようにクリームを伸ばしながら、少しずつ考えを紡ぎ出す。
「以前であれば、それでも己の役割を果たすべきだ、と断言したところだが」
「今は違うんですか?」
「あれだけの騒動を起こした後では説得力がないだろう」
グランスレイヤーとなる過程で一度は職を辞しかけたという事件はまだ尾を引いているようだった。嫌なことを思い出させてすみません、と慌てるアステルに、気にしていない、とクロービスは返す。塗り跡に僅かにムラのある部分を見つけ眉を顰めると、濃さをならすように指を這わせた。
「あの時は、この手が悪夢を断ち切ったのだったな」
クロービスはゆるく口角を上げ、注ぐ眼差しは淡い色を帯びる。しっとりと最後の仕上げまで終えられた手は、今や触れるためだけに握られていた。
「きっかけはあれど、結局は解とは自分で得るものだ。示してやることはできぬが、迷いには付き合ってやろう」
「……ありがとうございます」
「まだ礼を言われるようなことは何もしておらぬ」
「それでも、そう言ってもらって心が軽くなったので」
幾ばくか明るさを取り戻したアステルに、単純なことだなと呟いて、クロービスは眼鏡を外しケースへとしまう。そうしてすぐ傍で横たわった二人の手は、夢の中でも離れぬようにと繋がれていた。