Auf Regen folgt Sonnenschein. / クロアス----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
迷いを振り払うように勢いよく自室から踏み出した足は、執務室まで来る頃にはすっかりゆるやかになっていた。アステルはノックをしようと構えた手を胸の前で彷徨わせる。報告書を出すだけならきっと、と覚悟を決めようとはするものの、あと一歩を踏み出す勇気には足りなくて。何度目かの溜め息は室内から遮られた。
「……入れ」
感情の見えないよく通る声が、厳かに響いて入室を促す。アステルは緊張した面持ちで部屋の中へと踏み入った。
目を伏せたクロービスは、最後に会った日と同じように書類へと目を走らせながら羽ペンを動かしている。机の正面に立つとよりいっそう、隣のぽっかりと空いた場所がどこか寒々しい。
「用件はなんだ」
「ほ、報告書を持ってきました」
「後で確認する。そこに入れておきたまえ」
顔を上げずにレターボックスを指さすと、クロービスは何事もなかったように業務へと戻る。出会った当初に戻ったかのごとく無関心な振る舞いが、アステルに重い口を開かせた。
「何も、聞かないんですね」
「……事の顛末であれば、君がいま持ってきた報告書で十分だ。それ以上、何を聞く必要がある」
「そうじゃ、なくて」
もの言いたげな様子を察したのか、ようやくクロービスはアステルへと目を向ける。深い眉間のシワと酷い隈に小さく息を飲むと、堰を切ったように言葉があふれ出た。
「私はあの時は魔族を助けたいと思いました。でも、きっと皆さんが魔族に殺されそうになったとしたら、今度は魔族に剣を向けると思うんです。こんなの、すごく卑怯で、中途半端じゃないですか」
まくしたてた感情は、あの日の判決が脳裏を過るとしばし途切れた。背筋に冷たいものを感じたアステルは、絞り出すように続く結論を口にする。
「だから、その。私は、もしかしたら。勇者じゃなくなった方が良かったんじゃないか、って……」
「何?」
ぱさり、と書類が軽い音を立て机へと落ちる。椅子を蹴るように立ち上がったクロービスは、そのままつかつかとアステルの前へと進み出る。苦い顔は歪み圧を増して、アステルを見下ろした。
「それは本気で言っているのか? 君はこの後に及んで責任を放棄するつもりかね?」
「そういうつもりじゃありませんっ!」
「……では、どういうつもりだ」
冷ややかで激しい視線は、単に思いつきを言っているわけではないらしいアステルの様子に、幾分棘を和らげる。アステルはこみ上げる物を抑え込んで、不安と怯えに揺れた瞳でまっすぐに訴えかけた。
「私が勇者だから、戦いは終わらないんです。村にいる頃からずっと魔物の被害を見てきたのに、それでもミザールさんを救いたいと思ってしまったんです。きっと私には彼は殺せない。でもだからといって魔族と戦わないで済む方法も思いつかないんです。それじゃ、いつまでたっても平和になんてならないじゃないですか。なら、それなら……っ!」
その先の身を裂くような言葉は、声になる前にかき消される。アステルは引き寄せられ、クロービスの胸に顔を埋める形となっていた。そのまま見上げようとした動きはやんわりと手で制される。
「君は多くの人々の期待を裏切った。いずれその責を問われることからは逃れられまい」
忌憚のない見解が、ずしんとアステルの心に重くのしかかる。護送から再度合流するまでに、グレンデルでの決断が人々にどう取られるのかは痛いほど実感していた。改めて自分のしたことの結果を受け止めたアステルは唇をきゅっと引き結ぶ。
「だが、それでも処刑などされていいはずがないだろう……!」
クロービスは『処刑』という単語にひときわ苦しげに声を荒げると、アステルの背に回した腕に力を籠める。縋るように抱きしめる身体が震えていることに、アステルは目を見開いた。
「っ、ごめんなさっ……!」
「いいから。黙っていろ」
そうして、互いのぬくもりだけが、感じられる世界のすべてとなった。腕の中にしかと収まる小さな身体に、クロービスは失わずに済んだことを再確認する。傍にいてほしいと願った少女は、かつて悪夢を見たほどに大切な相手は、今度は目の届かぬところで消えることはなかった。触れる柔らかさは確かに今ここに、まごうことなく存在している。
張りつめていた気がほぐれて落ち着きを取り戻したところで、名残惜しげに身体が離される。アステルを見つめる瞳はもう穏やかな色を取り戻していた。
「此度の責任を取るつもりなら、君が思う勇者としての職務を全うしたまえ。私の勇者は、君だけなのだ」
残る影を振り払うように潤んだ目を眩しく輝かせたアステルは、こくりと頷く。その姿にクロービスは安堵すると、静かに微笑んだのだった。