困惑メラビアン−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
どうも直属の上司は厳しい人柄、らしい。風の噂でそんな評判を聞きつけて、グランロット王国宮廷魔道士長、クロービス・ノア付となった新任秘書は、緊張に身を固くして部屋の扉を叩いていた。出迎えた予想と違わぬ鋭い眼光に気圧されつつも、準備をしていた甲斐もあり用件は滞りなく進んでいく。
魔王との長きにわたる戦いを終えたグランスレイヤーともなればこの威厳も当然か。多方面に渡る業務内容を迅速かつ正確無比にこなしていく姿に、秘書は自分なりに答えを得て、一礼し退出しようとする。そうして顔を上げた刹那、廊下からかすかに幼子の声が聞こえてきた。
「ま……かあ……さま……」
迷子だろうか、と秘書が扉を開ければ、今にも泣きださんばかりの男の子が誰かを必死に探している。扉の開く音に秘書の方を向いた男の子は、安心したように涙を一筋流すと、一目散に駆け寄ろうとした。
「ぱ……とうさ……わぁっ!」
慌てて駆け出そうとした足がもつれ、男の子の身体がぐらりと傾ぐ。秘書が危ないと判断するよりも早く、何もない空間に突如として現れた黒い影がそれを抱きとめていた。
「……魔道士たるもの常に冷静に行動する。いつも言っているだろう」
「ふえ……ひっぐ……。……ごめんなさい、とうさま」
大人を相手にするのと変わらぬ口調で詰めるクロービスに、我が子にも厳格な人なのか、と秘書は思いかけるもなにか引っかかるものを感じた。この短距離で移動魔法を使う必要はあったのだろうか。あの魔法は座標の精度を上げれば上げるほど魔力消費量が大きいはずだ。秘書は転んでも大事には至らないであろうふかふかの絨毯を見ながら疑問を浮かべる。出ていく機会を失ってぼんやりと様子を見守っていると、さらに親子の会話は続いていく。
「昨日、立派な魔道士になって母様をお嫁さんにすると宣言したのはどこの誰だったかね?」
「ひくっ、いいの……?」
「……私を倒せたらな」
泣き止みかけた男の子が、クロービスの言葉にそんなの無理だよと言わんばかりに歪んだ。数少ない長所として聞いていた実直ってこういうことなのか、と更に秘書が疑問符を増やしたところで、ぱたぱたと女性が駆け寄ってくる。
「ああっ、クロービスさん! お仕事中すみません!」
母親と思しき若い女性、今代の勇者であるアステルを見た男の子は、クロービスから離れ母の元へ早足で向う。屈んで待ち構えていたアステルは、飛び込んできた男の子を抱き上げて、あやしはじめた。クロービスはその様子にため息をつくと、苦言を呈する。
「目を離すな。危ないだろう」
「うう、すみません。忘れてたお弁当を届けにきただけのつもりだったんですけど、つい大臣様に呼ばれてしまって……」
「むぅ、それなら私の落ち度でもあるか……」
クロービスの肩越しに可愛らしい花柄の包みがちらりと見えた。あれで愛妻弁当なんだ、と秘書が下馬評との差異に混迷を極めたところで、じゃあ届け物もおわったし私は帰りますね、とアステルは立ち去ろうとする。
「もう帰っちゃうの?」
「うん、パパのお仕事の邪魔にならないようにしないとね」
和やかに緩んでいた空気が瞬時に凍る気配がした。背中越しの黒衣の圧が冷たくアステルへと突き刺さる。
「アースーテールー?」
「えっ……、あっああっ!? ごめんなさい! お詫びに今日の晩御飯のおかず、クロービスさんの好物にしますから…!」
しまった、と申し訳なさそうに頭を下げ、アステルはそそくさと退散していく。残されたクロービスと秘書はなんとも言いがたい空気に包まれていた。
「ええと、晩御飯、楽しみですね……?」
「……この事は他言無用で頼む」
秘書は承知しました、とだけ答えようやく執務室を後にする。クロービスの秘書としての初出勤日、魔道士長の評判は思わぬ方向に転がる事になったのだった。