頬を打たれるのも、殴られるのも志摩の想定の内にあった。
感情が揺さぶられているのは、志摩の胸ぐらを掴み上げて近づいてくる伊吹の双眸を見ていればわかった。紅茶みたいな澄んだ虹彩の色素が、圧縮されて濃くなる。その瞳が志摩への激情で濁って澱むのを、志摩はどこか弾んだ心で俯瞰していた。
本来なら、奥多摩に返すなどと、そんな挑発的な言い回しはしなくてよかったはずだ。頭の中では、伊吹の心配を茶化してうやむやにして、勘のいい彼自身に身を引かせるような見掛けだけはやさしい台詞をシミュレーションしていたのに、こんな状況でも自分を気遣う相棒という餌を目の前にぶらさげられて、思わず飛びついていた。なんと浅ましい。わざと煽って傷をつけるような真似をしたのは、伊吹を遠ざける意図というよりも、もうほとんど志摩の達成感のためだった。
志摩の胸のうちではすでに決意は固まっていて、そのための準備も整っていた。あとはこの心優しい相棒をどう引かせるかが最大の課題で、そのためだったら嫌われて憎まれるのも厭わずにいた。ひとりで進もうと意を決したのは、決して相棒に飽きたとか見限ったとか、そういう類いの諦念ではなくて、彼の今後と身を案じてのことだったから。その思慮に、打算は微塵もなかったはずだ。対価になるような見返りへの期待も。
それでも、実際に自分に食らいつこうとしてくる彼を目の当たりにしたら、ちいさな揺らぎが生まれた。志摩に真っ向から挑んでくる純粋さを、眩しく、同時に疎ましく思う。
志摩がどれほど伊吹に気づかされて救われてきたか、伊吹はしらない。執着の度合いの異常さも徐々に自覚していった。たまに彼が軽率に嘯く好意なんかでは、とても天秤が釣り合わない想いだ。清廉で正しい彼には、志摩の葛藤やためらいなどわかるわけがない。素直で、愛情を健全だと信じて疑わない男を侮り、志摩は口を閉ざした。毒をもった禍々しい慕情を、好きだとか愛してるとかいう言葉でごまかすことも自分に許さなかった。伊吹には絶対理解できないところにいる、そういう自負が志摩にはある。志摩の心が伊吹に届くことなんてない。志摩の本質や考えが伊吹に見破られることなんてないと心底みくびりながら。
感情に負けているお前なんかじゃ、俺の相手にはならない。言葉にしなくてもわかるのだろう、軽んじられている気配に伊吹は怒気を顕わにする。だから言ってきた。
「お前俺にケンカ売ってんだよな。だったら買うぞ、こいよ」
ほら。伊吹の業腹に、志摩は内心でせせら笑う。相手をしてほしいのだろう。ありのままの感情をぶつけてほしいのだろう。それを受け止める度量も、寛容さも伊吹は持ち合わせていた。けれど。
「……殴る前にいえよ」
志摩は伊吹に本気の感情をぶつけられる高揚を隠して、平然を装ってみせた。そして、志摩が伊吹に与えたのはそれだけだった。冷静で、薄情で、動じないお前が散々『冷たぁい』と揶揄してきた志摩。
魂胆を説明してやる気はなかったし、相手にするつもりもなかった。伝わらないことを伝える気なんてない。誠実さは、同じ概念を信じるもの同士の間でしか価値を持たない。伊吹が信じているものを、志摩は信じていなかった。
じゃあ殴り返せよ。伊吹は続ける。相棒としてのコミュニケーションすら好戦的にしかけてくる、その威勢のよさは素晴らしい。志摩は背筋をぞくぞくと這う、正体不明の快感に身を任せた。一心に志摩を見つめ返してくる眼差し。それは真っ当な怒りだ。もう全部捨ててめちゃくちゃにしてやるつもりの自分には向ける価値もない感情。伊吹が見せる純粋な善意と献身はまっさらで高潔で、だから彼には志摩の悪辣な愛情なんて到底わかりっこない。不健全で、偏執的で、ときには相手の傷や痛みを望む。
「結構です」
そう冷たく言い放ったとき、視線は、隔てるものもなく真っ直ぐに絡み合っていた。伊吹は怒りの奥底に僅かな期待を抱いていた。熱を持って歪む瞳の中に、志摩を許したがっている甘い期待が見える。そんな『いい奴』だから付け入られるのだとも知らずに。だからこそ志摩は、伊吹のせつなげにひそめられた眉と、下唇に覆いかぶさった上唇の赤さ、眦の濡れる気配に胸が高鳴った。こぼれ落ちそうな涙の予感。それを見せてほしい。見せてくれたら、一生忘れない。お前を痛めつけた後悔と陶酔を、あの井戸の底で微かな希望を見つけたときに分かち合った喜びと同じように、何度も思い出し、噛み締めて味わう。お前の心がいっときでも、自分の手のなかにあった実感と一緒に。
「離せよ」
そうやって突き放したら、伊吹は志摩を凝視したまま、ぱっと手を離す。見つめ合った感情の抜け落ちたような伊吹の表情に、志摩は悪趣味なことに満たされていた。最後に見る顔がこれか。でもこれで最後。これで全部だ。
せいぜい苦しんでくれ。そして忘れないでほしいと願う。エゴにまみれた自分のひとりよがりを前に、無力なまま、この関係が終わっていくのを呆然と眺めていて。
もちろん傷つくのは伊吹だけじゃない。警察官としての身分とか安定した立場とかせっかく手に入れたお前の信頼とか相棒として預けてくれたであろう心とかを、自らの手で手放して台無しにするのだから。でも本来なら、手の届くような代物じゃなかった。だから、どんな結末になったって平気だ。そう自分に言い聞かせて、志摩は振り返ることをしなかった。