ココ⭐︎イブ① 中央合同庁舎第2号館内部には光を取り込む開放的なアトリウムが設けられているため、伊吹が入館する様子が九重のいる階からも見て取れた。九重が訪問を事前登録していたから受付もスムーズで、セキュリティゲートを軽快な足取りでくぐるときに見えた伊吹のスニーカーは今日も奇抜な色をしている。前触れもなくふと顔を上げた伊吹は、さっと目配せしただけですぐに九重の存在を視界に捉えては破顔する。サングラスの裏で眦を緩めた気配を察し、九重も口角を上げた。そのままエレベーターの方に向かって行ったから九重も出迎えにと歩を進めだす。伊吹はちいさな紙袋を小脇に抱えていた。
「やっほ九ちゃん久しぶり。も〜先輩をパシんなよな〜」
目的階に到着したエレベーターの扉が開いて、開口一番、苦言が飛び出してきたけれどその口元は朗らかな笑いを携えている。つられて九重も唇を綻ばせる。十一月に差し掛かり、徐々に冷え込む外気に合わせて伊吹の重ね着も分厚くなっていた。ジャケットの中に着込まれたパーカーはあの緊張感のない間取りの分駐所にいた頃に何度もお目にかかった柄のもので、九重は懐かしさに目をそばめる。
やり取りは応接ブースに通すまでもない。少し離れた、廊下に無機質にならぶ椅子に腰掛けるように促した。
昨日は公休だったはずで、しっかり睡眠を取る時間はあっただろう、はにかむ伊吹の顔色は悪くない。日頃疲労を外に見せない伊吹だが、身体は正直だし年齢には勝てない。特に伊吹は皮膚が薄いので当番明けにもなるとしっかりと目の下に隈を作って退勤していた。仕事だから仕方ないが、二十四時間ぶっ通しという勤務体制には些か心配が付き纏う。
一方九重はというと、機捜を離れてからは行政官として本庁での経験を積んでいる最中で、足を使うこともなく机に向かい、毎日ひたすら書類を捌いている。朝日を浴びながら目を覚まし、定時になれば帰宅する。健全すぎる日々の退屈さにもいい加減慣れた。そもそも、キャリア採用である九重には、本来なら現場仕事など回ってくるはずもなく、シフト勤務の警察官を経験したのが異例だったのだ。
けれど、一度経験してからは、伊吹やかつての同僚に無茶はしないように、体調を崩さないようにとあれこれ気を揉むようになってしまった。普段は顔を見ることも声を掛けることすらない彼ら現場警察官の、過酷さが身に沁みてわかったからだ。頭で理解するよりも実践で体感したことの方が遥かに価値のある経験であると、当たり前のことを実感しては噛み締める。お膳立てされて今の立ち位置がある。ゴルフにも連れられて行って、機捜にぶち込まれてものめずらしい体験もして、そして好きなように生きることを肯定される。与えられていることに無自覚だったわけではないけれど、声に導かれて、道を誤らないように手助けされて、初めて父親を、成熟した大人なのだと思うようになった。
「はいこれね。キッチンとか洗面台にあったよ」
「すみませんわざわざ」
「ん〜〜い〜〜よ朝ランついで」
九重も伊吹の横に座り、伊吹から手渡された紙袋の中を覗き込む。そこにはマグ、タイピンなど九重の私物が数点入れられていた。機捜での任を解かれたとき、追い出されるように荷物をまとめた。とりあえずロッカーの中の物を一切合切段ボールに詰め込み、次の配属先が決まれば送るように指示した。机や職員が利用する場所には極力私物は置かない、そう徹底していたつもりだったけれど、荷を解いた際にあれこれも置き忘れをしていることに気づいた。それほど、きっと、九重は機捜に深く根を張っていたということだろう。こそばゆく胸が騒ぎ立てるまま、スマートフォンをタップし、LIMEを起動する。画面をスライドし探し当てた名前は、九重の心を僅かに痛ませた。
「もう部外者である私は機捜には出入りできないので助かりました。ありがとうございます。ちゃんと持ってきていただいたお礼はしますよ」
「へぇ? なにそれっ気にしなくていいのに」
九重が感謝と、報酬の提案をすれば、伊吹は律儀にも遠慮をこぼす。気の遣い合いは、ぎこちない距離感を体現していた。これが陣馬だったら、素直に喜んでくれただろう。引かれた一定の線を感じながら、九重は曖昧に微笑んでみせる。
「肉いきます?」
含みのある表情をつくり、秋波を飛ばす。するとその目配せの意図を汲んで、伊吹が眉尻を上げた。
「……じょじょえん?」
下瞼に緩やかな弧を描き、含みのある笑みで伊吹は九重に流し目を送る。わかりやすいおねだりと諧謔の気配に、九重も思わず頬が弛んだ。
「お望みとあらば」
「えっうそ? きゅ〜〜ちゃんダイスキ〜〜」
暗に期待を持たせる一言を発すると、すぐに色良い返事が聞ける。現金なものだ。まあ食べ物で釣っている時点で、九重も目先の利害を追っているわけだから別に構わない。
「最近、どうですか四機捜は。仲良くやってます?」
「なに仲良くって。子供じゃないんだから。あっそういや陣馬さんが復帰したよ」
「聞いてます。新しい相棒、また新人なんですって?」
「そ。俺もこ〜はいができて張り切ってるよ」
「なんで伊吹さんが張り切るんですか……陣馬さんに任せておきましょう」
「あっ俺が頼りないって言いたいのかよ」
「まあ初日に廃車にするよりは……いいんじゃないでしょうか」
「あれね。あれゴカイだよ。あれやったの志摩。俺じゃないの」
「どっちもどっちでしょ。陣馬さんなら組んで早々始末書書くようなことにはならないですよ」
「も〜〜九ちゃん陣馬さん好きすぎない? そんなに陣馬さんが恋しいならさ、今日呼べばよかったじゃん」
伊吹が九重の腕を肘で突きながら、確信に迫るようなことを言う。それを九重は和かな笑みで受け流した。
「そんな。悪いでしょ。元相棒をパシるなんて」
「えっ待って俺はいいの」
「私のほうが階級上なんで」
「え〜〜言うじゃん」
一見不躾にも取れる台詞だろうが、そこに棘はなく、伊吹も風に吹かれたように穏やかに白い歯を覗かせていた。嫌味ではない、気楽な軽い応酬。スムーズに会話が進むのは、親交が深まったからなのか、それとも伊吹の緩い態度がそうさせるのか判然としない。
階級という尺度で測るならば、いまや九重は陣馬よりも上だ。そのため、上下関係の有無は言い訳として適切ではないということはわかっていた。そのことを敢えて話題に出さずに多義的に微笑してみせる。肝心なことを伝えないままでいるのは、彼の相棒の猿真似だった。
「志摩さんはどうしてます」
「んっ? 志摩ぁ?」
思い出したついでに、話題を振ってみる。知らねえ。前に陣馬の病室の前でふたりきりで会ったときには素っ気なく返したのみだった。だが今はどうだ。伊吹はわかりやすく上機嫌に相棒の直近について語り出す。最近立てた手柄や、密かに暗躍した事件の舞台裏話、新入りの活躍に、捜査を通じて縁ができた人々、そしてお気に入りのうどんの味付けにまで話は多岐に及んだ。
要は、相棒とうまいことやっているらしい。仲直りのためにわざわざ東京湾にまで車を運んで尽力したのは自分であるというのに、すっかり忘れている腑抜けた様子に、九重も下唇をはむ。楽しそうでなにより。いつまでも愛想笑いもしていられなくて、九重は伊吹の話に鷹揚に相槌を打つだけになっていた。あの騒動から
何ヶ月も経ったわけでもないのに、随分前のことのように感じられる。伊吹の語る内容は、もうほとんど九重の知らない情報ばかりだった。
こうして、道は違えていくのだろう。最初っから、隣を歩くなんて無理だった。伊吹が九重の知らないところで知らない経験をし、知らない人間と出会い、知らない話をする。そのことにたまらない苛立ちを感じながらも、九重にはどうすることもできない。別れを寂しがるなんて可愛げを、期待していないといえば嘘だけれど、そんな感傷が彼が向けてくれるはずないと自嘲する。そもそも、そんな間柄でもなかった。
会いに来てもらったとはいえ、無限に時間があるわけではない。今は早朝の勤務時間前で、これから伊吹は芝浦署での内勤が待っている。出勤前の貴重な時間をいただいた感謝はあるが、それにしてもここでお別れなんて侘しかった。部署的にも、役職的にも、もう二度と会うこともない相手だ。休日に遊びや飲みに誘うほど親密になった覚えもない。それこそ訝しがられるだろう。自分と伊吹が立ち並ぶ未来を想像しても、違和感はどうしても拭えなかった。
「エレベーターまで送りますよ」
今日はありがとうございます。最後にもう一度感謝を述べて、ゆっくりと立ち上がる。伊吹も倣ってぶらぶらさせていた足を地に着けて腰を上げた。そして来た道を歩き出す。
砂のように掴み所のない時だった。今この瞬間も、まばたきすら惜しい速さで終息へと向っていく。彼を引き留める気の利いた言葉も出てこない。彼と過ごした時間や感慨が込み上げて堰を切ろうとするけれど、それが瞳にまで届く前に堪える。みっともない終わり方だけは嫌だった。
「じゃあまたね、九ちゃん」
空っぽのエレベーターに乗り込み、振り向いては頑是ない口調で告げる伊吹の笑顔は眩しかった。哀愁を微塵も感じさせない顔で、晴れやかに笑っている。取り繕うこともしない。九重の惜しむ気持ちも知らずにいるから。
またってなんだ。口先ばかり。伊吹の口から紡がれる軽々しい挨拶は、白々しくて、空虚だった。こっちがどんな想いで。込み上げる憤りのまま、九重は手を伸ばす。伊吹の胸ぐらを掴んで、衝動的に引き寄せた。
視線が交錯し、焦点がぼやけ、睫毛の触れあう距離で薄茶の瞳と向かい合う。一瞬世界から音が消えて、息が止まった。最早視界には意味ある景色は何も映らなくなったのに、目を閉じなかったのは意地だ。近づくことで重なった、伊吹の唇は熱くて柔らかかった。九重も唇を押し付ける。色素の薄い虹彩が潤む気配を感じて、ぐっと腕を伸ばす。いまだに状況を飲み込めていない伊吹は呆気に取られた様子で蹌踉めき、茫然とした間抜けヅラを晒していた。
「……ふ、」
その腑抜けたツラがおかしくて、図らずとも口角が上がってしまった。侮蔑でもポーズでもない、ほんとうに、こころからおかしくて自然に笑みが溢れる。案外勘が鋭く、警戒心が深い彼を、出し抜いてやったという達成感と陶酔。
チン、とエレベーターが音を立てた瞬間、どっと伊吹の胸を突き飛ばした。伊吹は覚束ぬ足取りで数歩下がり、お構いなしに扉は閉まる。
くぐもった機械音が足の下から響き、階数を示す点滅は移ろっていく。それを見届けて、九重は踵を返した。
*****
芝浦署第四機動捜査隊分駐所の面々は、変わらずに緩い空気を醸しながら、出勤した伊吹を出迎えた。おはようございます。言い慣れた挨拶が何も考えずに口から出てくる。習慣に倣い、カウンターにいる陣馬からコーヒーを受け取り自席についた。置いておく手荷物もないから、ロッカーには寄らない。ふと見遣れば、案外ぎりぎりに出勤してくる志摩がまだロッカーにいた。
「なんだ、伊吹今日は遅いな」
志摩がそう溢しながらデスクにやってくる。伊吹は基本的に始業の半時前には職場に着いていたから、いつもと違う様子に志摩が怪訝に思うのも無理はない。
「あ、うん。九ちゃんとこに寄ってたんだ」
「九重? なんで?」
「なんかね、分駐所の忘れ物届けてって」
「ふぅん」
伊吹が経緯を説明すれば、志摩は簡素な相槌を打つだけで、まるで気にした素振りを見せなかった。どうやら納得したらしい。
そしてそのことに違和感を覚える。どうしてお前が? という真っ当な反論が返ってこないことを不思議に思うと同時に、焦燥が心臓のあたりを掠めた。
あ、やばい。陣馬さんの前だった。かつての相棒を差し置いてご指名をいただいたことに今更ながら後ろめたい気持ちを抱く。陣馬なら別に表立って嫉妬をぶつけたりはしないが、面白くはないことだろう。
あのね、俺九ちゃんといっぱい話したんだ、陣馬さんにも会いたがってたよ。新しい相棒のことも知ってたから、交流があるんだね。志摩のことも気にしてたな。また皆んなで焼肉でも行けたらいいって思うんだ。……そんで、別れ際にはなんでか口塞がれてたんだけど……。……、
「……あのさあ、九ちゃんてさ……まだ俺のことキライなのかな」
話すべきことはもっと他にあったはずなのに、九重との会話や行動を想起するうちにふと閃いた安易な案だけが勝手に口をついて出た。
「は?」
当然ながら志摩がこれ見よがしに訝しがって、伊吹は慌てる。九重の陰口を叩くつもりでも、貶めるつもりでも勿論なかった。
ただ、あんなことされる理由が他に見当たらない。
出会った当初の九重は、それはそれは取りつく島もない、お高くとまった男であった。必要最低限しか話さないその姿は、寡黙というよりもこちらを嫌悪しているという心理がありありと透けて見えた。事実、志摩に伊吹の配置換えを勧めていたのもバッチリ聞いたし、これはもう、完璧に見下されてるな〜嫌われてんな〜とは感じていたけど。
けれど共に過去の事件を追い、陣馬に情報を吐かせるために酒まで飲んで、まだ完全に打ち解けたとはいかないまでも、そこそこ仲良くなれたとは思ってはいたのに。
唇を重ねるという行為は、ある程度の感情がないと成り立たないだろう。相手が異性ならば、性欲や下心からくるものだと予想できるが、伊吹はその対象ではない。であれば悪意からの行動かと、どうしても勘繰ってしまう。九重がその心の内を教えてくれなかったのも、余計に伊吹の被害妄想を掻き立てた。
「どうしてそう思うんだ?」
伊吹が失言を取り繕えずにいれば、陣馬の声が優しく会話を導いてくれる。頭ごなしに否定するんじゃなくて、ちゃんと話を聞こうとしてくれる姿勢。志摩と意思疎通が図れなくて言い争いに発展しそうなときに、何度この声に救われてきたか。伊吹の返答を律儀に待つ張り詰めていない間も、手慣れたものでありがたい。
おかげでどうにか言葉にできそうだった。
「いやその……さっき、九ちゃんに会ってきたんだけど、そのとき? なんか? ……ちょっとおかしなこと? されて? みたいな? ……嫌がらせ? なのかなって」
「なに嫌がらせって。キスでもされたか?」
ガタンッ。志摩の指摘に伊吹は椅子をひっくり返しながら飛び上がった。
「えっ⁉︎ なんで知ってんの⁉︎」
「ハア⁉︎」
さっきまで半笑いで伊吹に応対していたくせに、志摩は途端に大きい声を張り上げる。志摩も同じく動揺しているようだったが、見事言い当てられた伊吹はそれどころではない。
それにしても的確すぎる。これは勘がいいとかいう話じゃないだろう。
「ええっ……志摩ちゃんもしかして見てた⁉︎」
「んなわけあるか! ……いや……おいマジかよ……」
「んっえっウソ? かまかけたの? え? どっち? なに?」
伊吹が必死に状況把握しようと相手の出方を探っていれば、志摩も驚愕に目を見開き戦慄している。志摩も自身の発した内容が信じられない様子だった。そして伊吹の狼狽などお構いなしにひとり思考している。
「……お前さあ……それは……」
考え込んだときに顎を指で撫ぜるのは、志摩の癖だ。おまけにぶつぶつと口の中で単語を弾いているから、断片的な音のみが聞こえてくる。埒があかなくて陣馬を見遣れば、陣馬は陣馬で志摩に意味深に目配せをしていた。爪弾きの立ち位置に耐えかねて、伊吹は喚いた。
「もお、なんだよ、なになに? どゆこと?」
癇癪を起こしてじたばたしてみる。話題の深刻さに反比例して、やり取りは表面上、軽快で穏やかに見せたかった。重苦しい空気は苦手なのだ。伊吹の答えを急かす幼稚な振る舞いに、陣馬がようやく顔を顰めたまま口を開く。伊吹、よく聞け。前置きまで入れて念押しされ、伊吹は殊勝に黙るしかない。唇を引き結び、耳を欹てたら、陣馬が溜息を挟んで話しはじめた。
「俺の口から喋るのは憚られるけれど……九重の名誉のために言う。伊吹、お前さ。九重に嫌われてるわけじゃない。むしろその逆。……九重はお前のことが好きなんだよ」
「は?」
陣馬の言葉を遮り、今度は伊吹が唸る番だった。先程からありえないことばかりが起こる。一体なんの冗談なのかと返そうとしたが、しかし唯ならぬ剣幕で「本当だ」と諭され、伊吹も茶化すこともできずに志摩を見やる。困惑または否定を期待したのに、志摩も同じような表情をしていて、ことの真実味がより一層深まった。
「九重、お前には気づかれないように気をつけてたみたいだけど、側から見たら結構わかりやすかったしな」
志摩がダメ押しの一言を発し、陣馬が頷く。
補足説明は非常に端的でわかりやすく、つまりは九重の気持ちを、俺だけが知らなかったということである。
「え――――――そうなのゆってよ!」
「当事者が伝えてないのに言えるかバカ!」
疎外感に声を荒げるも、志摩に即座に罵倒され、なるほど、と納得した。恋バナって結構デリケートな話題だもんな。しかも相手は同職の、そして同性の階級は格下ともなれば、そりゃ軽々しく口にできないのも宜なるかな。
「九重も想いを告げるつもりはなさそうだったし、まあ、そのうち熱も冷めるだろうと黙って見てたんだがな。……久々に会って箍が外れたってとこだろ」
志摩は頭を掻きながら冷静に分析していたし、陣馬はむっつりと押し黙ってシンクの片付けをしている。それをどこか俯瞰した視座で眺め、手持ち無沙汰な伊吹はコーヒーに口をつけて湯気で鼻のあたりを湿らせた。
「……へえ〜〜でもあの九ちゃんがね〜〜……そっか〜〜へえ〜〜」
不意に訪れた沈黙に困り、茶化すように間延びした口調で間を繋げてしまった。事者意識がいまだに芽生えない、どこかふわふわした気持ちでいた。志摩や陣馬の説明が思考をすり抜けていき、ぼんやりと、衝撃を受けているのを自覚する。それを誤魔化そうとしていたのかもしれない。
「伊吹」
しかし伊吹の感嘆を、陣馬の神妙な声色が遮った。
「九重の気持ちに応えてやる気がないなら放っておけ。むやみに構うな」
低く、重い調子だった。
「構うなって……」
「無用な優しさで期待を持たせるようなことはするなと言っているんだ。中途半端が一番よくないんだよ」
続け様に釘を刺されて、伊吹は押し黙る。なんだか見透かされたようだった。陣馬の真剣な視線が痛くて、眉が下がってしまう。
九重の想いと同等の感情は、残念ながら伊吹にはない。だからどんな慰めも、おそらくどんな謝罪も、結局は上から目線の同情になってしまう。
自分は感情を顕わにしやすい性質だから、なおのこと九重の前で取り繕うのはきっと難しい。伊吹が戸惑いの表情を浮かべていれば、陣馬がふと愁眉を解いて伊吹を呼ぶ。全てを受け入れるみたいな穏やかな目付きでゆるりと語りかけた。
「……お前にその気がないなら、九重に対してできることは何もないってことだ」
静かな物言いは、伊吹のことも気にかけての忠言だとはわかった。
けれど、陣馬の放った言葉が、頭の奥底に巣食う記憶と重なる。できることは何もない。何も。言い聞かせるように胸の内で呟きながら、血が、勢いよく全身をめぐっていくのがわかった。ゆるりと視線を向けると、志摩の不安そうな表情が目に入る。まだ真っ向から向き合うには、躊躇いのある記憶だったから。
志摩が心配してくれている。何かいわなきゃと言葉を探すけれど、喉の奥が詰まって、うまく思考が働かない。だから人生において、二度も言われたことを反芻していた。
「…………できることは何もないかあ……」
音にしたら尚更虚しいように思えた。そして言葉の意味を心の中で噛み締める。他人に寄り添いたいとかあまつさえ救いたいだなんて、なんと見当違いな独り善がりだろう。楽観的な自分の発想や人間性が、誰かを傷つける可能性があることなんて知らなかった。九重を傷つけるかもしれないという未来を想像して、ただ深々と驚く。厳しいとさえ思える陣馬の助言を、そうだなと納得するようにする。
そもそも、別に好きだなんて言われていない。キスも挨拶程度のものかもしれない。九重の考えなんて俺のちっぽけな頭で懸命に考えたところで到底わかりようもないのだから、陣馬の勧める通り放っておけばいいのだ。肉を奢るとは言っていたけれど、取り付けた明確な約束はない。良くも悪くも後ろは振り返らない性分のため、日々の生活を送るうちにそのうち今日の興奮も罪悪感も忘れ去られていくだろう。ちょうど始業の時間になり、陣馬が朝礼を始める。先程の囂然な空気とは打って変わって、ひどく長閑でいつも通りだった。今日はスパイダー班と一緒に防犯カメラ映像のチェックを行うらしい。骨のいりそうな作業だ。集中力が問われるから、他のことに気を取られている暇はない。これ以上彼のことを考えていても仕方がない。舌先でなぞられた唇の感覚が蘇えってくる前に伊吹は渡された業務ファイルの中身を捲った。
*****
チャイムが鳴ったので、九重は玄関の扉を開ける。すると帽子を被り制服を着た男が氏名の確認をしサインを求めてきた。男の後ろには背丈の3分の2ほどの高さの筒状の荷物が置かれている。九重が簡単にサインを終えると、男は軽い一礼で去っていき、その場には九重と受け取った荷物のみが取り残された。
荷をすっぽり覆ってくるビニール製の袋のジッパーを開ける。すっかり外装を取り払って、そうして使われることもなく返送されてきたキャディバッグを靴箱の横に立て掛けた。ゴルフクラブも一式揃っている。念のため本数を数え、問題ないことを確認すると、九重は部屋の中へと戻った。
マメジにゴルフに誘われるのは二度目だった。一度目は父への接待の口実。二度目は、どうだろう、ただの人数合わせな気がする。マメジはああ見えて、案外ゴルフ好きなようだ。
警察幹部には色々な制限があり、警視正以上は国家公務員という身分となるため国家公務員倫理規定に縛られることになる。すると直接利害関係のある相手と金銭や物品の授受はもちろん、貸借もきつく禁じられていて、つまり会食やゴルフはたとえ割り勘でもアウトなのである。
そうなれば、誘える相手なんて限られてきて、内情も理解しており守秘義務の重みもわかる、同僚である警察官僚しかなくなる。
加えて刑事部の幹部ともなると、いつ呼び出しがかかるかわからない。ゴルフは基本4人1組で回るので、途中で抜けることが難しい。故にそうなっても失礼とならない相手として……九重は選ばれたのだろう。
実際、マメジに昨日ドタキャンされてしまって、本日は丸々予定が空いてしまった。有給休暇の申請は既に通っており、今更仕事に行く気にもなれない。ゴルフクラブの返送もあることだし、そのまま休ませていただこう。こうして九重はなんのタスクもない休日を急遽手に入れ、見事に暇を持て余していた。
リースやオーナメントでゴテゴテ飾り付けられた通りを九重は足速に駆けていく。平日の午前中なので、人通りも少なく、人気な飲食店も並ばずに入れる。と、思ったのが大きな間違いだった。行きたかった洒落たビストロは長蛇の列で、仕方なく手頃なファストフードで遅めの朝食を済ませる。年末まで数えで六日。暦でいうと十二月二十五日。キリスト教における降誕祭、世間では所謂、クリスマスの真っ只中である。
典礼年の中心的な祝祭であるため、敬虔な信者であれば教会に赴き礼拝に参祷するのだろうが、こと宗教祈念の薄い日本においては、世俗的なテーマや起源が混在し、結果、経済活動の活発化を伴うための小売業者や企業にとってのみ重要なイベントに成り下がっている。
こういう宗教的あるいは個人的、思想的な理由ではく、ただ単に大騒ぎしたいがためにあるようなイベント時には、事件も事故も起こりやすい。現場にいた頃だったら気を配っていただろうが、ホワイトカラー集団の、しかも男社会においてはそのような浮いた話題も上がらなかった。祝日でもない以上、出勤日であり、仕事がある。そうして忘れ去られていた祭日を、九重は大都会東京のど真ん中で思い出した。
もうすぐ大晦が訪れ、そしてなんの名残もなく年が明けていくのだろう。そのとき、まだこの国はかつての日常を保ったままでいられるのか。
マメジが急にゴルフの断りを入れてきた際の弁明としては、なんでも外務省に呼ばれただのどうだのと言っていた。マメジはかつて大使館書記官として中国に赴任していた頃があったらしいから、その経歴からの伝手だろう。ちょうど世間では、武漢で新型肺炎の患者が確認されたと騒がれている。まだこの国にまでの被害は及んでいないようでメディアも大々的には取り上げてはいないが、実際のところはわからない。
なにせかの国はとにかく隠蔽体質であり、崩落事故現場を生存者の有無に関わらず即座に埋めて隠すほどだ。中国国内の感染状況でさえかなり局限されて伝えられている可能性だってある。中国進出している、または中国から物品を輸入している企業は物流の滞りを早くも察知していると聞いた。SARSの二の舞にならないことを祈りつつ、海を越えたこちら側に飛び火しないように我が国がどこまで対応できるかが懸念だった。巨大なツリーを前に浮かれる群衆は、九重の焦燥も知らずに、すぐ横を波のようにすり抜けていく。
呑気なもんだと、高いところから傍観しているのは、決してこの日をひとりで過ごしていることへの虚しさや負け惜しみからではない。そもそも師走の末にゴルフのラウンドを入れている時点で恋人との予定がないことを露呈しているのだ。それはマメジや同僚たちだってわかって誘っている。
ふと、すれ違うカップルたちを眺めて、九重の心を惑わせる存在のことを思い出した。頭の端を掠めていく、閃光のように激しく刹那的な男。危なっかしくて短絡的で荒っぽくて、とてもとても警察官だとは思えない。最初は苛立ちと呆れの眼差しで眺めていたというのに、彼の時折見せる、静かに溶けてしまいそうな目付きは、九重の胸の内を掻き乱した。それは彼の躍動感のある振る舞いからしたら些か不釣り合いなもので、気づいたら目で追っていた。共に過ごした怒涛の時間や、歳の離れた兄弟みたいな関係に引き摺られ、いつの間にか九重は彼を好きになっていた。
こんな男に。恋だなんて。地獄の始まりだとわかっているのに。それでも、九重は潔く諦めることもできずに、宙ぶらりんな恋にみっともなくしがみついていた。
独り相撲のような惨めな片思いは、九重次第ですぐに決着する。けれど、一度欲しいと思ったら、なかなかそれを諦められない気質が災いした。完全にこじらせていた。先月どうにか口実を作って久々に顔を見たのも、よくないことに、九重の欲を刺激し、伊吹への想いの強さを自覚しただけで終わった。はずみで口付けたのは、完全に目論見違いだったが、同僚と恋愛のはざまをうろうろとさまよっていた自分の感情への蹴りがついたと、いっそ清々しい気持ちでいた。
切ない慕情を噛み締める。成就までもを願うつもりはない。でも、自分がこの恋に苦しんでいることを少しでもわかってほしかった。できれば同じように心を痛めて、狼狽えてほしかった。構ってもらいたくて悪戯をする子供みたいな、稚拙な欲求が自分の中にあることに驚いていたが、一度近づけば、際限なく欲が溢れる自分を制御することはできなかった。
それに、軽い気持ちで伊吹にちょっかいをかけたら、思ったよりもいい反応がかえってきて九重は呆気に取られる。唇を奪われたあとに、伊吹が晒した間抜けヅラを思い出しては九重はひとり感傷に浸っていた。
ふと思考を打ち切り、スマートフォンのLIMEを起動してトークリストに沈んであった懐かしいアイコンを選んだ。別にどうというつもりもない。ただの気まぐれ。返事なんて期待していないけれど、もう一度伊吹を揺さぶれたら嬉しい。そんな諦念と僅かな打算で、指で画面をスワイプしてタップを二回。動作にして数秒の出来事で、サングラスのアイコン相手にスタンプが送られる。踊る犬が、もみの木を背後にMerry Xmasと喋っている。精悍な顔つきのくせに、ぎこちない動き。どことなく伊吹を想起させると購入したスタンプだったことを九重は追憶していた。
気を抜くとすぐに彼のことを考えてしまう。たとえ負けるときでも、損害は最小限に留めるのが定石だろうに。セオリー通りにいかない恋に振り回される滑稽さに自嘲を浮かべ、九重はスマートフォンをポケットにしまおうとした。しかしマナーモードにしているスマートフォンが震え、明るくなった画面に通知が届く。
『めりくり』
なんとも味気ない返信である。即座に反応をもらえたのはいいが、話を広げる気もなさそうな返答に、肩を落としかけたとき、またも画面が光った。
『きょうやすみ?ケーキあるよ。食べにくる?』
短いメッセージのあと、地図アプリのURLが続けざまに送られてきた。アプリで示された場所は警察官舎で、それなら九重もある程度の地理は頭に入っている。『いきます』。簡素な文字列を送り、九重は伊吹の誘いに疑念を持ちながらも、どこか浮ついた気持ちで歩き出していた。
指定の部屋番号に辿り着いたら、玄関に鍵はかかっておらず、中から入ってきてと声を掛けられる。九重は他人の家の扉を開ける不躾に一瞬戸惑ったあと、そろりとドアノブを捻り顔を出して室内を覗き見た。すると間取りは三和土から部屋の全体を見渡せる狭い1Kで、その真ん中に伊吹が座っている。ちょうど伊吹が壁にぶつけないよう細心の注意を払いながら菓子箱から中身を取り出しているところだった。次第に、伊吹が伝えてきた『ケーキあるよ』の全貌が明らかになっていく。
「え? ホール?」
「うん。テンション上がるっしょ〜〜」
先程まで嶮しい顔だった伊吹は、形を崩さずに無事に中身を取り出せてわかりやすく破顔する。しかし九重は笑うことができない。九重が目撃したケーキはなんと円柱の形をしていた。
幼い頃ならいざ知らず、社会人になってからはとんとお目にかかっていない形状に、目を丸くする。
そしてこの状況に違和感を抱く。九重がLIMEを送らなければ、伊吹はこの場にひとりだったわけだ。こんな仰々しい洋菓子を、独り身の男がわざわざ購入して持ち帰り自宅で広げるものでもないだろう。
「……あの……、どなたかと予定があったのでは……」
「ないよ」
念のため尋ねたら即座にいらえられて、その返しの内容にも驚いた。
だとしたらなおさらおかしい。九重は眉を顰めて訝しむ。そのホールケーキはどうした。まさか毎年これだけの量を一人で平らげているというのか? ぜったいなんかあったろ。という、猜疑的な眼差しを向ければ、問い詰める前に伊吹が口を開く。
「なくなっちゃったあ」
いつもと変わらぬ溌剌した口調なのに、どこか憂いを感じた。
けれど、お得意のご機嫌顔で伊吹は続ける。
「いや今日もね? ガマさんに会いに行ったの。ほんできょうクリスマスじゃん? 知ってる? ホントのクリスマスってね~家で家族とゆっくり過ごすもんなの。いや俺も麗子さんに教わったんだけどさ。で、毎年この時期になると一緒に協会行ってガマさんちでメシ食わしてもらってたなあ、って。思い出しちゃって。街歩いててもそんな感じだし。ケーキ持ってったら喜んでくれるかな、って。そんだけ。ま、結局今日もガマさん会ってくんなかったけど!」
つらつらと心境を吐き出し、悲嘆もなく伊吹は締めた。あまりになんともないという素振りで伊吹が喋るから、九重もなにもない振りで返すしかない。
「……拘置所は食べ物の持ち込みはできませんよ」
しってるぅ~~。間延びした調子だが、律儀に言い返してくる。わざと明るく振る舞っているような様子でもない。だが、伊吹の口から語られる経緯と、伊吹の醸す調子が合致しなくて九重は不釣り合いな印象を受ける。伊吹の態度は、うんざりするほど平静だった。
九重も、蒲郡が伊吹の面会をずっと拒否しているのは知っている。
そして、伊吹が今日も同じ結果だろうと覚悟しながら、けれど今日こそはという甘い期待が捨てきれないのも知っている。会いたくなければわざわざ会いに行くこともない。伊吹の切実な願いは九重も重々把握していた。
それにいくら伊吹だとて、差し入れの制限を調べていないはずはない。
だからこれは、伊吹にとって願掛けのようなものであったろう。一緒に口にすることはできなかったとしても通じるものはあると。最後まで報われることはなかったようだけれど。
九重はローテーブルの上に置かれている洋菓子に目を向ける。真っ白なクリームにツンと澄ました赤いイチゴが映える、クラシカルなスタイルのホールケーキだった。イチゴを覆うゼリーがつやつやと光沢を放ち、隙もなくクリームで側面を埋め尽くされた、男二人で平らげるには大きすぎる円周。それにしても一緒にケーキが食べたかったなら、ピースケーキで事足りるだろうに。……かつて蒲郡家で食べた形式だったのだろうか。もしくは切り分けるという行為自体に意味があるのか。伊吹の思い出までは、九重の知る由もない。わざわざ尋ねる気もなかった。
九重が熱心に見つめる視線を催促だと受け取ったのか、伊吹は立ち上がりシンクから包丁を持ってきた。その切先をそっと真っ白なクリームに差し込み、ケーキを器用に等分していく。無地の、白い皿にピースを置いては、残りを箱に仕舞って冷蔵庫に入れる過程で九重の分を渡された。
平べったい皿に乗ったケーキの断面からは色とりどりのフルーツが覗いていた。先端から少し離れたところにフォークを入れればスッと通り、そのまま掬い上げて口に入れる。クリームが舌先で溶ける。シロップと洋酒の染みこんだスポンジは噛む必要がないほどにふわふわともろい。果実の爽やかな酸味が口の中で調和していた。
おいしいですね。素直に感想を口にする。すると伊吹は眦を緩めてにんまりと唇に弧を描いた。だろ? ここのね、おすすめなの。そう陽気に口にして、九重のピースにだけ乗ったチョコレートプレートの店名ロゴを見るように促す。
「麗子さんがすきだったとこ」
伊吹はそのまま、目を伏せて言った。睫毛が頬に影を落としていたから、表情までは見えなかった。
九重は蒲郡にも、もちろん麗子さんという人物にも、当然ながら会ったことはない。伊吹から直接聞いたこともなかった。なのに伊吹は当たり前のようにその名を出し、哀愁を口にする。
九重が知っていることを、伊吹も知っているのだ。本人が断片的に語った昔話や、陣馬や志摩に聞いた話をつなぎ合わせて、彼の過去が九重の中で線になっていった。そしてやるせない事件の顛末。伊吹が深く傷つき、声を上げて哭いていたことを、九重は知っている。
幼かったこの人が、おそらくは全身全霊をかけて尊敬した相手だったのだ。
「……伊吹さん口ついてますよ」
なんとも言えない気持ちで伊吹を眺めていたら、伊吹はフォークではなく先がふたつに割れた菓子楊枝をケーキに突き立てていた。もしかしてこの家のカトラリーは1人分しかないのでないか。しかもその1人分のフォークを九重に譲ってくれた家主は、先程の繊細な包丁捌きとは打って変わって、ケーキを乱雑に大きく切り分け、塊とも言えるそれを、さほど大きくない口に運んでいる。当然、唇の端からクリームが溢れて、だらしない有様になっていた。
「ん」
もごもごと頬張った口の中で歯を動かしながら、伊吹が口角あたりを指で拭う。その所作もおざなりなため、白いクリームが唇にまだ残っていた。
九重は咎める気にもなれず、ため息を吐いてからゆっくりと伊吹の横に移動した。
「まだついてる」
そう言って手を伸ばして薄い唇をなぞる。それから唇をこじあけ、クリームのついた指を差し入れた。熱い舌に指先が触れる、すぼめて吸いついてくる。伊吹は薄目を開けて九重を見上げていた。
誘うような目付きだ、と勝手に思った。そう都合よく解釈した。
伊吹が顎を上げたところに顔を寄せた。
「ふ、」
唇を伊吹の唇に押し当てて、擦り付ける。すごくベタな、ありきたりな流れだという自覚はあった。 けれど伊吹も、ごく自然な動作で九重の唇を受け入れる。そうして唇をずらしながら口の周りについたクリームを舌で舐めとったところで唇を離した。
見つめ合い、視線が絡む。伊吹は切れ長の目を細め、呆れたようにつぶやいた。
「……なぁに九ちゃん、慰めてくれんの」
なにもかも諦めたみたいな、力のない声で。
改めて言うが、伊吹の九重の間には、心を預けるほどの信頼関係も、熱の籠った情もない。同じ職場で働いてはいたが、勤務時間のほとんどは別の相手と過ごしていた。たまに顔を合わせることはあっても、話すことと言えば業務の報告や情報共有のみで、個に押し入る付き合いなどしたこともなかった。ずっと微妙な緊張感と距離を保ったままでいられた。
なのになぜいま、こんな踏み込むような真似を自分に許すのか。
九重は無言でもう一度、顔を近づけて唇を重ねる。伊吹がそっと瞼を閉じる気配を感じた。ツンと上を向いていた睫毛が九重の頬に触れていた。触れ合うだけの拙い口付けを繰り返してようやく舌を差し入れた。けれど深追いはせずに、口蓋を舌先で柔くなぞる。ひく、と伊吹の舌が縮こまって喉の奥で揺れていた。伊吹の咥内は熱くて、甘かった。
「、っは、……優しいじゃん」
ほどほどで唇を離してやれば、伊吹から漏れる息の合間に賛辞までいただけた。それに九重は鷹揚に口を開く。
「……私が伊吹さんに優しいのは下心があるからですよ」
わかってるでしょう。この言葉は飲み込む。問い掛け確認したところで、伊吹からは九重の望む答えはかえってきやしない。
伊吹の投げやりとも言える流され方を、不用心だとか節操がないとか憤る反面、こうやって付け込める機会を得られた幸福に感謝する。
人恋しさを埋めるために利用されている、それでもよかった。悲しいときに笑う。そういう男だと知っていたはずだった。大事な誰かを喪って、胸が張り裂けそうなほどの深い哀しみも、いつかは薄れていく。少なくとも、いつまでもそのときと同じ痛みを抱いたままはいられない。そうでなければつらすぎる。
けれど、きっと伊吹は、ずっと覚えていようとするだろう。間に合わなかった後悔も無念も、全部抱えて手放そうとしないだろう。捨てられて、置いて行かれたというのに。なにがそこまで伊吹を駆り立てているのか、九重にはわからなかった。責任感か。使命感か。警察官としての矜持か。それとも別のなにか。考えたところで、答えは出ない。
だけど、この程度の言葉で簡単に落ちてしまうほど伊吹が飢えていたのは確かだった。
弱く伊吹の腕を引く。すると伊吹は呆気なく九重の胸の方に転がってきて、大人しく身を委ねた。後頭部に手を添え、ゆっくりと敷かれっぱなしのマットレスに横たえる。覆い被さる九重の首裏に伊吹が腕を絡ませ、目を細めて九重を見上げる。服を脱がせる九重の不埒な手を、伊吹が制することはなかった。