待ち人の言の葉(没文章) エリアゼロから無事に帰還した後、俺は休学期間を経て復学した。
復学後は引き続きブルーベリー学園に留学しているハルトと一緒にポケモンを捕まえに行ったり、ポケモン勝負をしたり、勉強をしたりと穏やかな日々を過ごした。
あの日、「ゼロからもう一度やり直したい」と言った俺の言葉の通りに、俺とハルトは友達としての関係を一から築き始めることにしたのだ。
毎日新たに作られていく思い出の欠片一つひとつが、テラスタルのように輝きながら心の中に降り積もっていく。ハルトに敗北した先にこんなにも幸せな未来が待っていただなんて、あの頃の俺には想像もできなかった。
ハルトはいつも俺の隣にいた。嫌なら無理して側にいなくてもいい、と言ってしまったこともあったけれど、彼は「無理してない、僕がスグリの隣にいたいんだよ」と笑って俺から離れることはなかった。
そのことに喜びを感じつつも、俺は「あまりにも優しすぎる」と思った。ハルトだって少なからず俺の行動に嫌な思いをしてきただろうに、それを微塵も出さずにこうして一緒にいてくれるのだから人が良すぎる。
そんなふうに優しくされると勘違いしてしまいそうになるから、俺は怖かった。自分はハルトにとっての特別な存在なのではないかと、そんな期待を抱いてしまいそうになる。ありえないことだとわかっているのに。
ハルトは博愛主義が人の形をしているような男だ。誰に対しても優しくて、困っている人がいたら放っておけない。俺に対する彼の気持ちだってそうした博愛主義の中の一つに過ぎないのだろう。俺だけが彼の特別なのではなくて、大勢の中の一人というだけ。
それなのに俺はハルトの特別になりたいという気持ちを諦めることができない。
こうして友達として仲良くできるだけで幸せで、それ以上のことは望むべきじゃないのに。俺だけしか知らない彼の姿や心を知りたかった。彼の「一番」になりたかった。
それでもそんな恥ずかしいことを本人に直接告げられるはずもなく、俺は友達としての関係を保つことしかできなかった。
そんなある日のこと、ハルトが風邪を引いた。
昼間にタロと交流試合をしていた時からなんとなく足元がおぼつかないように見えていたが、気のせいではなかったらしい。夕方になってカキツバタからハルトが倒れたと聞かされた俺は、購買部で必要なものを買うと一目散にハルトの部屋へと向かった。
通い慣れているはずの寮への道のりがやけに長く感じる。周りの生徒たちが駆けていく俺の姿をジロジロ見てくるが気にしている余裕などない。
息を切らしながらようやくハルトの部屋の前まで辿り着くと、俺はノックも忘れて勢いのままにドアを開いた。部屋の中にはベッドに横たわっているハルトが一人だけおり、突然やってきた俺に驚いた様子だった。
「スグリ!? もしかしてお見舞いにきてくれたの?」
「う、うん。というかごめん、ノックすんの忘れてた……」
「ふふ、気にしてないよ。ちょっとびっくりしたけどね」
くすりと微笑んだハルトの頬はいつもより赤みが増しているように見えた。熱があるのかもしれない。こちらを見据える眼差しにも力がなく、どこかぼうっとしている。健康体ではないことは明白だった。
「あ……俺、ここに来る途中でゼリーとか買ってきたんだけど食べられそう?」
「ごめん、今は無理かも……食欲なくて」
「じゃあスポーツドリンクだけ枕元に置いとくな。ゼリーは冷蔵庫に入れておくから」
「ありがとう。助かるよ」
俺は購買部で買ってきたゼリーを冷蔵庫にしまうと、ベッドの隣まで椅子を移動させてそこに腰掛けた。近くの机の上をちらりと見ると薬が入った紙袋が置かれている。医師には既に診てもらった後のようだ。
「ハルト。カキツバタから聞いたんだけど、前日に雨の中で何時間も色違いを探してたんだって? そりゃ風邪引くべ……」
「め、面目ない……集中してたらつい」
彼は申し訳なさそうにへへ、と笑ってみせたが、話すスピードはいつもよりゆっくりで覇気がない。喉が荒れているのか、紡がれる声も少し掠れているように思う。
こうして普段のはつらつさがない彼を見ていると、俺は胸の中の不安が少しずつ膨らんでいくのを感じた。今にも雨が降り出しそうな黒い雲を見ているときのような落ち着かない気持ちだった。
だって、仕方ないじゃないか。こんなにも弱った彼の姿を見るのは初めてなのだから。
俺の中でのハルトのイメージは長らく「常に強くて、笑顔が眩しい物語の主人公」だった。負けなしで欠点のないヒーローのような人。そんな彼が弱ってぐったりしている姿など、俺は想像したことすらなかった。彼だって一人の人間だし病気や怪我をするだろうに、俺の思考からはそうした前提がするっと抜け落ちていた。
だからこそ、いざこうして弱っている彼に向き合うと俺は次の行動を見失ってしまう。強さの象徴のような人がこんなにも弱るだなんて、少しでも目を離したら彼が消えてしまうのではないかと、そんな暗い想像が過ぎるのだ。たかが風邪でそんなことにはならないと頭ではわかっていても。
とはいえ、俺がここにいたところで何の役にも立たないことは理解している。俺は医者じゃないし、ハルトだっていつまでも他人が傍にいたら落ち着いて休めないはずだ。どれだけ思考を巡らせたところで「ここから立ち去る」以外の選択肢はない。
それなのに俺はいつまで経っても彼一人を残して立ち去る踏ん切りがつかなかった。彼への心配の裏に、彼を独り占めしたいという浅はかな欲が渦巻いていることも原因かもしれない。
そんなことを考えながら俺がしばらく彼の横顔を眺めていると、ハルトが力なく笑いながら顔をこちらに向けてきた。
「ねえスグリ。わがまま言ってもいい?」
俺は彼の言葉に目を見開いた。わがままだなんて、まさかそんな言葉が彼の口から出てくるとは思っていなかったから。
「う、うん。俺にできることなら何でもするから言って」
「ほんと?」
俺は力強く頷きながら、掛け布団の上に置かれた彼の手を握りしめた。ハルトがこんな俺のことを必要としてくれている。彼が望むものならば、なんだってしてあげたい。
ハルトは照れくさそうにしながら言った。
「あのね。僕が眠るまでそこにいてくれる……? なんだか風邪を引くのって久しぶりで、心細いんだ」
これまた予想していなかった言葉が出てきたものだから、俺は驚いた。彼にも「心細い」という感情があるんだ、という新鮮な気づきを得る。
「……ハルトでもそういう気持ちになるんだ」
思わず考えていたことを口に出すと、ハルトはなにそれと言いながら苦笑いした。
「そりゃ僕だって、寂しい気持ちや悲しい気持ち、怒る気持ちを人並みに持ってるよ」
「……そっか、そうだよな」
こうしてハルトと言葉を紡いでいけばいくほど、ハルトのイメージが完全無欠の主人公から自分と歳の近い少年という型に移し替えられていく。彼は手の届かない太陽などではなく、触れられる「人」なのだという実感がじわじわと湧いてくる。
考えてみれば当たり前のことだ。それなのに、どうして俺は今までそれに気づかずにいたのだろう。
もしかして俺は彼の強さばかりを見て、彼の人間らしい仕草や言動をずっと取りこぼしていたのだろうか。彼だって見えないところで悲しんだり傷ついたりしていたのかもしれないのに、俺はそれに意識を向けることすらせずに、いつだって自分の目的のことだけを考えていた。
俺が知らず知らずのうちに彼を傷つけて、彼が人知れず苦しんでいたことだってあったかもしれないのに。
「……うん、わかった。俺でいいのなら、ハルトが目覚めるまでここにいるよ」
ハルトへの返答として口から出た言葉は、罪滅ぼしの意味を込めたものだった。
ハルトとの友人関係をゼロからやり直したとして、俺がこれまでやってきたことはきっとゼロにはできない。ハルトに与えてしまったかもしれない傷の数々もなかったことにはできない。それでもそんな俺のことを必要だと言ってくれる目の前の彼に、俺は頭が上がらなかった。ハルトが望むことならば、俺はただ真摯に向き合うしかない。
「ほんと? 嬉しい。ありがとうスグリ」
ハルトは俺の言葉にふわっと柔らかな笑顔を浮かべた後、そのまま静かに瞼を閉じた。そして数分も経たないうちに彼の深い寝息がすうすうと聞こえ始めた。
本当に、いつだってハルトは優しすぎる。怒ってこちらも責め立てたって、誰もハルトのことを悪く言わないだろうに。そうやってあまりにも優しすぎるから、俺はどうしようもなく罪悪感で苦しくなる。
「……ごめん。ごめんな、ハルト」
俺は彼の手を握ったまま目を瞑り、彼への謝罪の言葉を繰り返した。
長い間、誰かと対等な関係性を築くには相手と同じだけの存在価値がなければ駄目なのだと思って生きてきた。
鬼さまもハルトも、俺には価値が足りないから手が届かなかったのだと思えてならなかった。だから彼らと並び立つための強ささえ手に入れることができれば満たされると信じていた。