鍾は時折タルに好きであることを伝えているが、タルは「ありがとう、」と返すか「俺も先生のこと好きだよ。もちろん旅人も!」とあたかも友人としての「好き」として扱われる。夜の食事会やお呼ばれは楽しそうに応じるのに、「それ以上」はない。
そんなある日、北国銀行のお得意先との会食で媚薬を盛られたタルと遭遇。頬を染めて荒い息の中フラフラな状態で薄暗い路地を歩くタルを見つけた鍾は慌てて駆け寄る。「大丈夫か?」と手を伸ばすがたるは「触らないで」と払い除けてから、申し訳なさそうに眉を下げて謝る。
「ごめん、触らないで」
「そんなことを言っても今にも倒れそうではないか。俺の部屋の方が近い、肩を貸そう」
「変な薬盛られただけだから、気にしないで」
そうは言ってもどこからどうみても弱ったたるを放置してはおけない。
その後もいくらか押し問答を繰り返したが、結局たるは息も整わない状態で体を引き摺って一人で帰った。最終的にタルに拒絶されることを恐れた鍾の負けだった。
その日から鍾は考えるようになった。脈ナシなのではないか、と。タルの言動はどうみたって自分に想いがあるようには見えない。が、タルから向けられる視線が、たるも自分が好きなのだという確信を鍾に抱かせていた。今現在伴侶がいないとはいえ6500年伊達に生きてきた訳では無い。感情の機微に聡い方では無いが、自分に向けられる感情位は読み取れた。
--劣情の籠った眼差しと、苦しげに歪められる眉。
タルも自分のことが好きだけれど、素直になれない事情があるのではないか、と鍾は考えた。
しかしその頑なな意思がどこから来るのか。女皇に向けられる忠誠ゆえか、それとも、同性同士であるがゆえか、それとも神と人の隔たりゆえか……考え出せばきりがない。
鍾はグツグツと頭を煮え滾らせ、しばらくもしない内に爆発した。
6500歳の倫理と理性の糸は恋路において存外儚く脆かった。
ある日、鍾はタルを食事に誘う。媚薬事件以降もタルは周囲からの晩餐会や食事会を断ることは無かった。断ったら急変することになるタルの態度で周囲に「なにかあった」と悟られてしまうから。タルはあの日に薬を盛られたことを誰にも知られたくなかった。
例外として鍾は事情を知っていたが、それでもやはりタルは鍾からの誘いを断ることは無かった。
食事の席でタルのお酒に人間には少し強い自白剤を混ぜる鍾。仙人にも使われるそれはタルにも作用し、いつも回る口の開く回数が減り、代わりに言葉を口にした時の内容がいつもより深くなった。よりタルの本質に近い答えを貰えるようになり、(効いてきたな)と思った先生だけど、それからも暫く他愛のない会話を続けて、自然な流れでタルの本音を聞き出そうとした。
「公子殿は俺が嫌いか?」
「そんなわけない」
「では好きか?」
「好きだよ」
「だが、いつもそっけないではないか」
「それは…」
タルが口篭る。
自白剤と理性が戦っているようだった。
鍾は辛抱強く待った。
「せんせいのことが、すきだから」
いくらかして、タルはそう言った。
「だから、だめなんだ」「こたえられないから」「やさしくされたら、なびいちゃいそうだから」「だから、だめ」
いやいや、と。言葉の紡ぐ様子は舌っ足らずの子供のようなのに、その表情は苦しみでいっぱいで。
「それは、女皇への忠誠ゆえか?」
問う鍾にタルはゆるゆると首を横に振る。
「ちがう」「じょこうさまへのちゅうせいはほんもの」「だけど、ちがう」
「ではどうしてか、教えてくれるか?」
「……」
長いことタルは無言だった。
鍾は待った。待って、待って……
ようやくタルが口を開いた頃には頼んだばかりだった熱燗は冷えきっていた。
「おさないころ、しんえんにおちたはなしはしたよね」
「ああ、そこで数ヶ月間武術を学んだと聞いた」
「……それだけじゃ、ないんだ」
それからタルが話したことは鍾にとっても衝撃の内容だった。
「しんえんにおちたとき、ほんとうはおれ、しんでたんだ」
「…!」
「たぶん、とうし」「しんだときのことはおぼえてない」「しんえんにいたなにかがおれのしんぞうになったんだ」
ずっとひとりで抱え込んでいた真実が一度吐き出されれば、全てが語られるのはあっという間だった。
「ふつうにいきてるぶんにはもんだいないんだけど、しょうりせんせいはだめ」「しんえんとかみさまはあいいれない」「しんえんはかみさまをこばむ」「だから、せんせいをうけいれたら、おれはしぬんだ」「だれがいわなくてもわかる、このむねでうごくしんぞうが、ほんのうが、おしえてくれる」「どんなきょうてきもひじゃないくらいつよく、しのそんざいを、おしえてくれる」
深淵と神は相反するもの。
深淵によって鼓動する心臓は神を受けつけない。
その身体が神を求めたとき、その先にある道は、死のみ。
「しょうりせんせいのことがすき」「だいすき」「だいすきだから、もっといっしょにいたいから、だから、せんせいのこういにうなずけない」「ごめんね」「ごめんね、せんせい」
ぽろぽろとこぼれ落ちる言の葉に、鍾はふるふると首を振ることしか出来なかった。
(公子殿が悪いわけではない)
そうは思っても、言葉にできない。
鍾はただ「大丈夫だ、大丈夫だ公子殿」「泣かないでくれ」そう声をかけることしか出来なかった。
抱きしめることはおろか、手を伸ばして震える肩に触れることすら出来なかった。これまでの交流で触れたことはあれど話を聞いた以上用心するに越したことはないし、タルが想いを吐露してしまった以上どこが「死線」となるか分からない。
それこそ触れた瞬間にタルの心臓が脈打つことをやめたら鍾は正気でいられる気がしなかった。
鍾の家で食事をする2人を邪魔する者はなく、ただ、まんじりともできない時間だけが過ぎていった。
ぐすぐすと鼻をすするたるに、鍾は暖めたタオルや水を用意した。暫くしてようやく顔を上げてたたるは「ふふ、せんせいがあわててる」と笑う。
「ごめんね、おもいはなししちゃって」
「いや、こちらこそすまない」
「ううん。…いつかはなさないといけないかなっておもってたから」
だから大丈夫、とタルは赤くなった目元を緩める。
「その、それでさ、おねがいがあるんだけど」
「なんだ?俺に出来ることがあるならなんでもやるぞ」
なんでも、はあまりにも安請け負いかもしれないが、それでも鍾はいま、タルのためになんでもしてやりたい気持ちでいっぱいだった。
「ありがと、せんせい」
「言ってみろ」
「あのね。俺が死ぬ時、抱きしめて、全力で。先生の腕の中で、先生からの愛で死にたい」
生を語るタルが死を語る