ウタ平土砂降りから逃れるように入ったバーは、お世辞にも俺を歓迎しているようには思えなかった。それでも、ドアベルを鳴らしてしまったのは事実。一杯だけ飲んで退散しよう。
カウンターに座ると、怪しい雰囲気のバーテンが俺に微笑む。片方だけの剃り込みに赤い目はどう見ても堅気の人間には思えなかったのだ。
「大雨だったんだ」
タメ口で馴れ馴れしく話しかけてくる。その態度が少しだけ癪に障った。普段は絶対一人ではいかないから勝手が分からない。
「雨、上がったらとっとと退散するので」
不愛想に返す。彼はどこか満足げな顔をしていた。そして、まだ頼んでもいないのにシェイカーにリキュールが注がれる。
「おい、まだ頼んでない」
「奢りだからいいよいいよ。この店はぼくだけしかいないから、久しぶりのお客さんが嬉しいんだよね」
上機嫌でカクテルを作りだす彼を止められるはずもなく、リズミカルな音が静かな店内に響き渡る。価格帯も分からないのでコッソリ財布の中を確認すると、何枚か札が入っていたのでホッと胸を撫でおろした。しかし、以前会社で盗み聞きしたぼったくりバーの話を思い出し、嫌な汗が頬を伝った。
「どうぞ」
出されたカクテルは血のように赤く、向こうがうっすらと透けて見える。
「『本物』じゃないだろうな……」
「そんなんだったらもうお店出来なくなっちゃう」
言いつつも、目の奥が笑っていない。本当に大丈夫な物なのだろうか、と不安になりながらも口を付ける。瞬間、優しいベリーの香りが鼻に抜けた。
美味しい。酒だという事を忘れて一口で行けそうなほどだ。
「なんて名前のカクテル……なん、ですか」
驚きと悔しさと恥じらいで噛んでしまう。彼は手を口に当てて「あらあら」と言いたげな仕草のあと、カウンターから身を乗り出してきたのだ。
この店には二人しかいないはずなのに、と身構えた。
「また遊びに来てくれたら教えてあげるよ」
口づけでもされそうなほどの距離感に思わず席を立とうとした。が、慣れないカウンターチェアで転倒してしまう。
「大丈夫?」
今は構われるのも何かをされるのも御免だ。俺は適当に札を引っ掴み机の上に出す。そして、逃げるようにバーを後にした。
あれからもう長い年月が経った。
俺は一向に酒なんて分からないし、あの日以来バーという場所に足を運んでいない。
けれど、夜の繁華街を歩くたび後頭部が少し痛むような気がする。二度と行くものかと思う反面、時間が出来るとあの店があった駅に降りてしまう。あれからどれほど探しても、あの店にたどり着くことが出来なかった。
別に貸しがあるわけでも、彼が恋しいわけでもない。でも、もう一度だけでもあの店があったのかだけでも確認したいのだ。
そして、口にしたあのカクテルの名前を聞くまで探し続ける。
たとえ、もう二度とここにはなくとも。
終わり