夏休み【前編】「キャンプ行くぞ」
「はあ?」
ローテーブルの前に座り、端末を開いて作業をしていたシーシャは、唐突に投げかけられた言葉の意味を咄嗟に理解できず反射的に疑問形で返してしまう。しかしソファに座るジュニアは気にする様子もなくその先の言葉を紡いだ。
「子供の頃ジジイに連れて行ってもらった穴場がある、誰にも邪魔されずに夏を楽しむのには丁度いい」
「……?ああそう、まあ気をつけろよ、海だか山だか知らねえけど事故にでも合われたら寝覚めが悪い」
「お前も来るんだよ」
「いや仕事だよ」
なんの報告かと思えばレジャーのお誘いだった。
夕食を済ませ、ジュニアの部屋のリビングで各々寛いでいた矢先、藪から棒に投げられた「キャンプ」という自分にはほぼ縁のない楽しげな言葉。行く、と言うのは簡単だがこちらの都合が完全に無視されていることにシーシャは若干の苛立ちを覚えた。
「あのな、アンタは忘れてるのかもしれねえが俺も一応ピシアの一員だ、そう簡単に休暇がとれると思ったら……」
「お前ピシアに入ってから一度も有給取ってないんだってな」
こちらの言葉を遮り、手元の端末に目を落としながらジュニアが淡々と告げる。
「それにお前の仕事は諜報よりもシステムのメンテナンスとデータ管理がメインだ、よほどの緊急事態がない限りお前一人抜けたところでボロが出ることはねえだろ」
「………」
まるでこちらの業務の進捗まで把握しているかのような物言いにシーシャは思わず黙り込んだ、図星だ。
(なんでコイツが俺の仕事の内容までこんなに細かく把握してやがるんだ…?)
訝しげにジュニアの顔に目を向けると、そんなシーシャの反応を予想していたかのようにその顔にはニヤリとした笑みが浮かんでいた。
「ちなみに今月は、お前が一週間ほど抜けても支障はない程度の休暇申請しか来てないらしいぜ」
「おい、その端末、誰と繋がってやがる!!」
明らかにピシア内部の人間からリークされた情報を聞かされ、シーシャはジュニアの持つ端末を奪い取ろうと迫ったが、ジュニアはソファから立ち上がりそれをひらりと交わした。身長で劣るシーシャがジュニアの手から端末を奪うのは至難の業だ。それ以上深追いすることはなく、代わりにジュニアが座っていたソファに乱暴に腰を下ろし、苛立ちを込めた目でジュニアを睨みつけた。
「そんな顔するなよ、休みもとらずに頑張ってるお前を労ってやろうとしてんじゃねえか」
「大きなお世話だ、好きでやってんだよこっちは」
「つべこべ言わずに俺に付き合え、今お前の休暇申請が通ったって連絡が来たから明日から一週間、俺と二人で楽しい夏休みだ、感謝していいぜ」
「は!?」
休暇申請?通った?明日!?
「俺は休暇の申請なんてしてねえ!!」
ツッコミどころの多さに、つい声を荒げてジュニアの言葉を否定するが、当のジュニアはそんなものどこ吹く風だ。
「帽子の似合う幼なじみに頼んだら快く協力してくれたぞ」
「トバリ!?アンタあいつに何やらせてんだよ!!て言うか明日って急すぎるだろ!!」
「甘ぇな、俺はお前の都合なんて聞いちゃいねえよ、最初に言ったぜ?「行くぞ」ってな」
「………!!!」
そうだ、ジュニアは「行こう」とも「行くか」とも言っていなかった。自分にそれを告げた時点で、そのための準備は終わっていたのだろう。全てを隠した上で周到に用意を進めるその手際の良さに、何故そこまでするのかと疑問が湧いた。
「お前は素直じゃねえから普通に誘っても断られるだろうと思ってな」
それを見透かしたかのようにジュニアは告げる。確かにこの男に誘われて自分が素直に首を縦に振るところは想像できない。現に先程誘いの言葉を投げられた時は自分が一緒に行くという発想すら出てこなかった。
「ああもう……」
断る理由が次々と潰されていくことに頭を抱えていると、ローテーブルに置かれた自分の端末にピロンという通知音とともに見慣れたアイコンが表情された。
「トバリ…?」
幼なじみからのメッセージだ。このタイミング、先程までジュニアが連絡をとっていたのは十中八九トバリだろう。
『仕事のことは気にするな、たまにはちゃんと休め』
「………」
真面目な幼なじみがジュニアの頼みとはいえ、ピシア隊員の勤務状況の情報を外部の人間にリークしたり、他人の休暇を無断で申請した理由がシーシャには今ひとつ分からなかったが、自分を慮るメッセージを見て腑に落ちた。
(そういえば最近やたら休めって言ってきてたな…)
ラボに缶詰になり、仕事に没頭する己を気遣うトバリの言葉を、ほとんど聞き流していた自分の行いを今更ながら反省する。
「さあ、改めて返事を聞こうか?」
(ここでこいつの誘いを蹴っても俺に利はねえってことか)
シーシャの返答を見透かしたようなジュニアの笑顔を見てまた一瞬苛立ちが募ったが、理由もないのにここで意地を張っても仕方ない。シーシャは溜息をつきながら口を開いた。
「俺は何をすれば?」
「このまま俺の家に泊まって朝になったら即、出発だ」
青く澄んだ空、川のせせらぎ、日光を反射して時折きらりときらめく木々、そして──
「ねえ君一人?俺と遊ばない?」
(話しかけんじゃねえ!!!)
量産型ナンパチャラモブクソ野郎。
苦虫を噛み潰したような顔で目の前の雄大な自然だけを視界に収め、背後からの猫なで声に完全な無視を決め込んだシーシャは、数分前のジュニアとの会話を思い出していた。
昨夜の言葉通り、早朝にジュニアの家を出発してから数時間、ようやく目的の場所に辿り着いた。そこは豊かな森に囲まれたコテージだった。雲一つない快晴でも、こちらに届くのは森の木々による木漏れ日だけで、山から吹く風とかすかに聞こえる水の流れる音が心地いい。近くに川があるとジュニアは言っていた。
コテージは木製のこじんまりとした建物だが、よく手入れがされているらしく、上品な木材の香りが漂っていた。
このコテージの持ち主は、周辺の土地も共に所有しており、レジャーシーズンには私有地内の森や川を希望する客に使わせてくれるのだという。
(なるほど、まさに穴場だな)
さすがに感心していると、「ほら」とジュニアから無造作に布の塊を放られた。
「なにこれ」
それを受け止めたシーシャは反射的に尋ねる。
「何って、その服のまま川に入る気かお前は?」
普段着のままのシーシャを見ながらジュニアは呆れたように言った。
見ると、布の塊はサラサラとした手触りのパーカーや、化学繊維でできたTシャツや短パンで、たしかに普段着よりは川遊びに適していそうだ。
「荷物を降ろしたら川に直行だ、今日の夕飯はお前にかかってんだからな」
「夕飯!?途中で買い出しに寄ったんじゃねえのか!?」
またしてもジュニアから寝耳に水の言を聞かされ、思わず手の中の服を滑り落としそうになりながらシーシャは反論した。
「一週間分の食料なんて買い込めねえっての、食い物が無くなる度に街に降りるなんて興が削がれるだろうが」
「聞いてねえ……」
「文句は言わせねえぞシーシャ、お前は料理がド下手くそだ、必然的に料理が俺がする、手伝えねえなら材料の調達くらいはしてもらわねえと釣り合いが取れねえよな?」
「………わかった」
料理が全くと言っていいほどできない自分が反論できる立場ではないことを早々に理解させられ、釈然としない表情で返事をする。
(こうなったらどうにかこいつを見返せるような獲物をとってくるしかねえ…!!)
だが次の瞬間にはジュニアへの対抗心を燃やし、俄然やる気をみなぎらせていた。本人は認めたがらないが、周囲の人間からシーシャが単純だと思われているのはこういった性分が理由だろう。
日用品をコテージに運び込むと、周囲の散策もそこそこにシーシャは川の方へ意気揚々と歩き出した。
「ノリノリじゃねえかあいつ…」
シーシャをキャンプに誘ってピリポリス郊外まで連れ出すのにそれなりの労力を使ったジュニアだったが、いざ自然の中に入ると何だかんだテンションが上がっているらしいシーシャの子供っぽさに、その顔には思わず笑みが零れていた。
「おい!先に行くぞ!」
「おーおー、好きにしろ、他に客がいないからってその辺で裸になるんじゃねえぞ」
「ならねえよ!!」
ジュニアは、逸る気持ちを抑えられないシーシャだけを先に川へと向かわせ、自分はコテージの裏にある物置へと向かった。
これが数分前の出来事だ。
(他に客はいないんじゃなかったのかよ!)
大方知らずに入ってきた輩だとは思うが、よりにもよってナンパの対象にされるとは。いっそ着替えているところを見られた方がマシだったかもしれない。機嫌を取るような声色で話しかけられる度に、シーシャの怒りはどんどんと膨らんでいく。
「ね、こんな所に一人じゃ危ないよ、もっといい場所を知ってるから」
「ッ!触んな!!」
背を向けていたせいで、腕を取ろうとしてきた男に反応できなかった。指先が触れた瞬間、その手を乱暴に振り払う。
「あァ?」
(あ)
まずい、と瞬間的に思った。
大人しい、こちらの思いどおりになると思っていた者に反抗された時、逆上する人間は珍しくない。
女性に間違われ、下衆な輩に絡まれる事には慣れているつもりだ。自分の男声を聞いて理不尽に怒りをぶつけられた時はいつも、人混みに紛れて逃げ出せた。しかし今ここには自分とこの男しかいない、走って逃げたところで自分の体力の無さは自分が一番よくわかっている。体格でも劣るシーシャには為す術がなかった。
「随分と強気だな、逃げられると思うなよ?」
先程までの擦り寄るような態度を一変させた男がこちらへ一歩を踏み出し、自分との距離が更に縮まる。
(くそ、くそ!!!)
「おい、そこまでにしとけよ」
「ッ!?」
こちらに迫る腕が誰かに捕まれその動きを止めた。
「あ…… 」
シーシャと男の間に割り込んだのはジュニアだった。シーシャにも気づかれないほど気配を消していたらしい。
「何だお前?」
「こいつのツレだよ」
「男に用はねえよ!失せろ!」
「は?」
男の言葉に、シーシャが瞳に殺意を滲ませたのを横目で見たジュニアは「あーあ」とため息をついた。
「……だ」
「あ?」
ぼそりと発された言葉に、男がシーシャに訝しげな目を向けたその瞬間──
「俺も男だこのフシアナ野郎が!!!」
怒号とともに繰り出された掌底が男の顎に正確にヒットした。バランスを崩した男の腕をジュニアがぱっと手放す。
「ッガ………」
何が起こったかわからないと言った表情をした男がそのまま河原に倒れ込んだ。意識はあるが、軽い目眩を起こしているらしく、立ち上がれないでいる。
その醜態を見て少しは溜飲の下がったシーシャだったが、ジュニアがじとりとした目でこちらを見ているのに気づいて表情を曇らせた。
「暴行罪」
シーシャを指さしながら呆れた声色でジュニアが言う。
「正当防衛だろ!」
まさか自分が咎められるとは思っていなかったのか、声を荒げるシーシャに、子供を叱るような口振りとともにジュニアは近づいていく。
「お前が捕まったりしたらせっかくのバカンスがパアだ、少し冷静になれ」
尤もな言葉とともに、ビシッと音を立ててジュニアの指がシーシャの額を弾いた。
「いだっ…………悪い……」
恋人に諭され短絡的な行動を反省したのか、少しはしおらしい態度を見せたシーシャをジュニアはそれ以上責めることはせず背を向けた。
「ま、最初にルールを破って私有地に入ってきたのはこいつだからな、法律に反してるわけじゃねえが、立ち入り禁止の警告はしてるからイーブンってとこか」
「俺への舐めた態度はノーカンか?」
「この星では先に手を出した方の負けなんだよ、しかしそうだな、お前がつけられたイチャモンくらいは訂正してやってもいいぜ、おい」
そう言うと、ジュニアは仰向けに倒れた男の胸ぐらを掴み、乱暴に上体を引き起こした。男の顎を掴み、真っ直ぐに目を合わせる。突如、体の自由を奪われた男は「ヒッ」とか細い声を上げた。
「お前が散々女扱いしたこいつは俺の男だ」
「………は、?」
眼前のジュニアから発せられる低い声に、男は恐怖で混乱していた。そんな状態で聞かされた言葉の意味を正しく察せられないのも無理はない。
「なんだ、意味がわからねえって顔だな、体に教えてやろうか?なあシーシャ」
「頼まれても抱かねえよこんなクソ野郎」
「だとよ、今すぐ俺たちの目の前から失せるなら勘弁してやる、俺だってナンパ野郎に用なんかねえ」
そう吐き捨てるとジュニアは男から手を離し、見下ろすように立ち上がった。
男はしばらく呆気に取られたようにその場に尻もちを着いていたが、ジュニアとシーシャの突き刺すような視線に耐えられなくなったのだろう、チッと舌打ちをすると踵を返し、山道の方へ走って行った。
「よし、行ったな」
「……アンタさ、追い払うためなのはわかるけどあんなこと言う必要あったか?」
男の姿が見えなくなるとシーシャはジュニアに尋ねた。
──『こいつは俺の男だ』
立ち退かせるだけなら自分たちの関係を赤の他人にわざわざ聞かせる必要などない筈だ。ましてやジュニアは名のある企業のトップだ、下らないゴシップに食いつく一部の顧客にバレたら面倒なことになり兼ねない。そんなリスクを犯してまでジュニアがああ言った理由がシーシャにはわからなかった。
「………お前なあ」
心底呆れた、といった口調と表情でジュニアが近づき、シーシャの腕をとる。そしてついさっき、男に触れられた箇所に口付けた。
「は!?何して」
「俺が自分のものを好き勝手に触られて、平気でいられる男だと思ってんのか?」
「…………!!!」
咄嗟に振り払おうと後ずさるが、とられた腕は口付けられたまま動かない。
「誰のものに手を出したのか思い知ってもらわなきゃ俺の気が済まなかったんでな」
口付けた箇所に舌を這わせながら、ジュニアはニヤリと満足気に笑った。勝ち誇り、自信に満ちた顔が似合う男なのだ。
「〜〜〜!!!アンタ、ほんとに……っ!!」
「ははっ!お前今めちゃくちゃかわいい顔してるぜ」
「離しやがれ!!」
シーシャの口調がにわかに荒くなったが、真っ赤な顔ではまるで迫力がなかった。
頬どころか触覚まで真っ赤になったのを隠そうと川へ走り、そのままの勢いで飛び込んだ。
ドボン!!と水にぶつかる音の後ろで、「あははは!!」とジュニアの笑い声がした。
飛び込む瞬間、固く閉じた目を開く。空の色と太陽の光が水に溶け、地上にはない美しい光景を作り出していた。ゆらゆらと揺れながら水流に合わせて形を変える光をいつまでも見ていたいと思ったが、酸素を求める体がそれを許さない。
「ぷはっ!」
水面に顔を出した瞬間に目の前に広がる光景に息を飲んだ。
青空と自然をバックにこちらを見下ろす金色の瞳と、風に揺れ日光を反射してキラキラと輝く金髪──
──どんな絶景よりも、俺はこいつを見ていたい。
「俺がアンタのものなら、アンタも俺のもんか?ジュニア」
「さあな、夕飯を調達できたら答えてやってもいいぜ」
心からジュニアを求めた自分の素直な気持ちを伝える勇気は自分にはまだない。
皮肉の応酬がお似合いな、不器用な男が二人、今はそれでいい。
水辺に輝く金色と紫、それを見ているのは雄大な自然だけだ。
夏休み【前編】 終