冴ゆる星の君へ ピッ、という電子音。トリオンで作られた分厚い扉から隙間風が侵入し、諏訪の前髪を散らした。
「うひ~やっぱさみぃな」
中綿の入ったジャケットのファスナーを首元まで上げる。下で買ったばかりの缶コーヒーを持つ左手だけが体温より熱かった。フェンスに背を預けながら、悴み始めた右指でプルタブを空ける。ずっ、と最初の一口はもう適温とは言えなかった。
「くそ。あいつら、集りやがって」
月末に向けて報告書をまとめたあと、夜勤まで暇をもてあましていた太刀川が、かまって欲しいオーラを放ってきた。諏訪隊の隊員は皆帰ったあとで、あまり暇そうではないが呼べば集まるおっさん組を招集した。親を回しながら何回かやって、あそこで捨てたのがミスったな…と諏訪は独りごちた。負けが混んでしまい、それぞれの希望した飲み物を奢ることになった。普段、奢られることが減っているおっさん共は妙にホクホクしていて、太刀川はいつも通りだが上機嫌で任務へ向かった。別に高いものを要求された訳でもない。随分可愛いものだ。
諏訪は本部の屋上で一人、空気が澄みきって雲一つ見当たらない夜空を見上げていた。ボーダーの基地は警戒区域の中心に建っている。周辺に住民はいないため、ポツポツと未だ残っている街頭や誘導灯など以外は人工的な光が少なかった。故に田舎のキャンプ場などで見られるものと遜色ないほど、頭上には星空が広がっている。月は見当たらない。諏訪は飲み終わった缶を柵の段差に置き、ポケットから開封済みの煙草を取り出した。中からプラスチック製のライターと煙草一本をつまみ上げると、またポケットにしまった。ふっ、とフィルターにと息を吹きかけて、ライターの着火部分を親指で押し込む。…火が着かない。そもそもが安物、使い捨てライターと呼ばれるものであるし、何より気温が低かった。火の着けられない煙草を咥えながら、諏訪はぼーぜんとした。中身を少し振ってみたり、ライターごと握ってみたりして、ようやく小さな火が灯った。逃さず先端をかざし、ゆっくりと息を吸い込む。チリチリと赤くなっていく燃焼反応と共に、慣れた味が口の中に行き渡る。ふーっと空に向けて吐き出すと、紫煙のみでなく息が白いのだろう。いつもより曇ってみえた。
遠くで警報音、ゲートが発生しているようだ。あれはどの部隊が担当しているのだろう。諏訪の立っている場所からはよく分からない。ざっくり見渡して、特に緊急性もなさそうなことに安心し、屋上の縁を囲む段差に腰を下ろす。ポケットの中にしまった左手には、トリガーがしっかりとおさまっていた。
星座のことはよくわからないが、これだけよく見えると目立つものは見つけやすい。視界の右斜め上、さっき出てきた扉の丁度先には、一等輝く恒星があった。あれと、もうすこし下の方のやつ、あと西の方にあるやつだかで冬のなんとかなんだよな、と曖昧な記憶を呼び起こす。あの恒星は何光年と果てしなく遠い距離にあるのに、紅色巨星独特の輝きを地球にまで届かせている。そこから視線を離せないでいた。
「…おい、ここで何をしている」
低い平らな声と、人影によって諏訪の視線は遮られる。思わず立ち上がったが、煙草を取り落としそうになった。
「……おめー、何でここに、」
「太刀川に聞いた」
「なんで、んなとこ立ってんだよ…」
ボーダー本部基地はトリオンを主体に構築されている巨大建造物だ。少なくとも、壁をよじ登るのは困難であるし、風間のトリガー構成にはグラスホッパーなど空中機動装備は入っていなかったはずだ。先ほど諏訪が出てきた扉を有する建屋もかなりの高さがある。そんなところから見下ろしてくる眼差しは鋭く、思わず目を逸らす。煙草は吸い口の根元まで、灰になってきていた。諏訪はカーゴパンツのポケットから携帯灰皿を取り出すと捩じ込むように鎮火した。
「つーか、任務だったんじゃねぇの」
今日の風間は午後から夜勤前までのシフトだったはずだ。ここで何をしているのかはこっちが聞きたい、といった顔をした諏訪に風間は呆れ顔で言った。
「今が何時だと思っている。引き継ぎはとっくに終わった」
は…?今が何時って…自分がこの寒空の下、一時間以上も滞在していたことに気づいていなかった。ポリポリと頭を掻く指は血が通っていないのではないかと思うほどに冷たく、その現場を風間に見られたことが何よりの痛手だった。
殆ど音もさせずに着地した風間は、諏訪の眼下まで歩いて来る。
「首が痛い」
若干苛立ったような声音に、諏訪は反射的にピクッと動いた。そして、ハァ…と大きめの溜息を漏らす。トリオン体のくせに痛いもクソもねぇだろ、と内心愚痴を零しながら、諏訪は風間より目線が下がるように屈んだ。ぴたりと諏訪の両頬をグローブ越しに包む。そのまま、諏訪の唇に吸い付いてきた。唇は乾燥していて、引きつれた薄皮からピリッと刺激が伝わる。ぺろっと舐められて口が開くと、風間の舌が諏訪の歯列をなぞり、奥へ奥へと侵入してくる。いつのまにか、頬にあったはずの両手は諏訪の後頭部を押さえつけるように力が込められていた。風間のいいように口中を舐られ、最後に下唇の端に八重歯を立てられた。
「いってェ!!」
噛まれた衝撃に口を抑えて、唖然とする諏訪と顔を顰めた風間が睨み合う。
「不味い、冷たい、首が痛い」
「はぁ? 最後の関係ねぇだろ!」
おそらく先ほどまで煙草を吸っていたためだろう。その割にはしこたま舐め回されたため、こいつも良い趣味してやがる、と諏訪は腹の中で笑った。
「早く中に入るぞ」
立ち上がった諏訪の手を引きながら風間はさっさと進んでいく。トリオン体はある程度の生体反応を模しているというが、この男の手は生身の時と同じ温度だった。
諏訪の魅入られた紅い星は、意外と近くにあった。
風間じゃないの、お疲れ~。何、諏訪?さっきまで 麻雀してたけど…あぁ、あいつなんかキテそうだったよねぇ、年末疲れ?確か…屋上行ったんじゃないかな。
俺のワープ、使う?