幾星霜の瞬きは、ただ常盤に燦いて3.
人の気配がなくなると、先ほどまで気付かなかった消毒液の匂いや治癒魔法の仄かな残滓が感覚器ににじり寄る。窓の外から聞こえる鈴虫の音や、ノーブルベルカレッジを堀のように取り巻くソレイユ川の微かなせせらぎも、糸杉の生垣を越えてマレウスの尖った耳には届いていた。
「……おい」
ふと、低く唸るような声が窓とは反対隣から発せられる。外に意識を遣って黄昏れていたマレウスはヒースグレイに艶めく唇の口角を緩く上げて、穏やかな眼差しでロロを振り返る。
「うん?」
マレウスとは対照的に厳しい表情をしたロロは、いつの間にか腕を組み左手の人差し指をトントンと二度打つ。
「おかしいだろ」
「おや、もう気付いたのか」
マレウスはおどけた様子で肩をすくめて見せた。ロロは奥歯をぎりりと噛み締めて額に青筋を立てる。
「やはり貴様の仕業か……」
ロロが己の左ポケットへ手を差し入れると、何かを取り出して手を開いた。
その手のひらには、月明かりをきらりと反す銀製の懐中時計があった。蓋には繊細な彫金が施され鐘と商船を葡萄の蔓で囲い背景には百合の紋章が浮かんでいた。ロロが人差し指で竜頭を押すと蓋が開き、白地のグラン・フーエナメルで美しく焼き付けられた文字盤が現れた。カチカチと微かな歯車の音は聴こえるのに、針は11時59分から進まずに震えている。
マレウスはこの懐中時計のことをよく知っていた。懐かしさに目を細める。
「私の時間感覚が正しければ、医務室に着いて3時間は経つだろう。とうに夜半を超えているはずだ」
マレウスは少し寂しげな表情でこう答えた。
「今日が終わって欲しくなかったものでな」
ロロは開いた口が塞がらないといった様子でマレウスを茫然と見詰めた。細く長い指の間から、懐中時計に繋がれたアルバートチェーンが滑り落ちる。怒りで唇を震わせて、それでも努めて静かな調子を保とうとしながらロロは言葉を発する。
「少しでも貴様のような悪党を憐れんだ私が愚かだった。その忌々しい魔法はどの範囲まで及んでいる?」
「この学園内だけだな」
長くロロの隣に居たかったマレウスは、妖精族が生来有している茶目っ気で時間を止めてしまったのだった。
しかし、ロロにとっては茶目っ気では許されない事態であり、軽い嘔気を感じていた。
「……では、学園の外では時が進んでいるということか」
「ああ」
「厚顔無恥にも程がある! 正確な時間を知る術がなければ、救いの鐘を正しく撞くことが出来ないではないか!」
ロロは青ざめた様子で吐き捨てた。そして、祈るように懐中時計を両手で握り締める。
「鐘を撞いたところで、時空を区切った結界を巡らしたから、鐘の音も魔力も今は届かないだろう」
「花の街の魔法植物が、花が枯れてしまう……」
マレウスは気が済んだら結界を解き時間を戻そうと思っていたが、ロロの様子に首を傾げる。
「元々、お前は紅蓮の花で魔法を根絶やしにしようと思っていたのに、魔法植物は別物なのか?」
ロロは右下目蓋をひくりと痙攣させて、マレウスを睨め付けた。月の光が反射して眼球がぎろりと光っている。マレウスはこの目でロロに見詰められると、背筋がむず痒くなった。心踊る様子を気取られないようにしようと必死で、長い脚を組み頬杖をついて笑んでしまうのを誤魔化そうとした。
「この世から魔法が平等に消えるならば救いになるが、魔法植物に頼った花の街だけが衰退してしまうのは駄目だ」
「ふむ、僕が言うのもなんだが傲慢だな」
「はぁ?!」
マレウスはなんだか楽しくなってきてしまった。悪意は全くないが少し悪戯心が芽生えたので、ロロにこう言ってみた。
「僕は悪党だそうだからな。花の街を質として、お前に僕の願いを聞いてもらおうか」
「ッ、なんだ? やはり心変わりして私を曝し者にしたくなったか!」
「ふふ、我が茨の……いや、いま僕は学生だったな」
マレウスは尤もらしく咳払いをすると、言葉を仕切り直した。
「お前を、我がディアソムニア寮へしばし『招待』したい」
ロロの眼光が緩んだ。マレウスの言葉の意味を理解するのに、少しラグがあったようだった。言葉にやっと理解が追いついた時、妙な引っ掛かりを覚えた。
「……しばし?」
「ああ、僕の気が済むまでだな。授業は人見の鏡のレプリカを使うといい」
「そんな我が儘がまかり通ってなるものか!!」
「お前が断ればこの学園の夜は明けず、舞踏会は永久に終わらないぞ?」
マレウスの言葉にロロはハンカチを取り出して口元に充てがうと、何度目かわからない「悪党め」を吐き捨てた。
「私ひとりの身で花の街が救われるなら、痛ぶるなり辱めるなり好きにすればいい……」
すっかり唇から色のなくなったロロに、マレウスは八重咲きの花が綻ぶような大輪の笑みでロロの手をとった。
「ああ、好きにさせてもらおう」
突然、ロロの手の中からカンカンカン……と小さな鐘の音が響いた。ロロの懐中時計には時鐘が備わっており、正時には内部のハンマーが自動的に鐘を鳴らす。
それは時が動き出した合図であり、同時にロロの身の上がマレウスの手の内に落ちたことを意味していた。
そもそも、マレウスは己の置かれた状況をよくわかっていなかった。過去に戻ったのか、ただ夢を魅ているのか。大河に落とされた一葉のように、事象の流れに身を任せていた。
もしも過去に戻っているのならば、既にマレウスの記憶との相違が起こっている。100年前の交流会の夜、マレウスはロロとのダンスを終えた後、その手を離してナイトレイブンカレッジ生たちと合流していた。ノーブルベルカレッジの医務室に来たのは今回が初めてだった。
――前例のないことをしてしまった僕への咎だろうか。それにしては、随分と優しい夢だ。まるで、揺籠の中であやされているような――。
二週間後、ナイトレイブンカレッジの鏡舎にて。寮服を纏ったマレウスとシルバー、セベク、そしてディア・クロウリーに出迎えられる隈がさらに深く刻まれたロロの姿があった。立襟のローブに闇色のケープコートを纏い腰のベルトでシルエットを絞ったシンプルな出立ちをして、右手に手入れが行き届いたタンニンなめし革のボストンバッグを携え、左手に招待への礼儀として花の街の銘菓である救いの鐘を模したマカロンを下げていた。
学園長室で書類手続きを済ませると、マレウスを先頭に手荷物は護衛ふたりが引き受けた。間に挟まれて歩く様はまるで囚人のようだとロロは思った。
ふと、背後から低く気怠げな声が掛かる。
「おやおや。他所から嫁を拐かしてくるなんざ、トカゲ野郎もスカした顔して酔狂な真似をするじゃねぇか」
角のある長身に伴われたロロの姿を見遣り開口一番、レオナ・キングスカラーは先手必勝と言わんばかりにマジフトのディスクかの如くニヤニヤと茶化した言葉をマレウスへ投げ込んできた。
「ああ、先の交流会で僕を『招待』してくれたフランムだ」
振り返ったマレウスに肩を抱き寄せられて、ロロは身の前で組んでいた手を解くとレオナへ深々とお辞儀をした。白銀の髪がさらりと流れる。
「お初にお目に掛かります。ご紹介に与りましたノーブルベルカレッジのロロ・フランムと申します。卿は夕焼けの草原の王弟殿下とお見受け致します。”しばし”ディアソムニア寮にてお世話になります。以後、お見知り置きくださいませ」
茶化しを一切否定しないマレウスと礼儀正しいロロに、レオナは鼻白むとジャラリとブレスレットを鳴らして蠅でも追い払うかのように右手を振った。
「アナウサギでもあるまいし、あんな暗くてカビ臭い寮に俺様が足を運ぶことはまずないだろうよ」
「そうでしたか。それは失礼を」
「トカゲは変温動物だからな。テメェの体温調整には特に気を付けとけ。異類婚姻譚が始まらなくなるぜ?」
「……ご忠告痛み入ります」
レオナが悠々と立ち去って、セベクが声高にレオナの無礼について侃侃諤諤と憤りを露わにし、シルバーが落ち着いた様子で宥める中、ロロは釈然としない顔でお辞儀を解く。色々と正したい言葉があったが、何の後ろ盾もなく異国の王子に喧嘩を売るわけにもいかなかった。
ロロが進行方向へ向き直ると、ばちりとマレウスと目が合った。マレウスは優雅に微笑むと革手袋の片手を添えてロロにそっと耳打ちした。
「キングスカラーはマジフトで僕に勝てないから、ああして毛を逆立てる」
そうして、お辞儀で乱れたロロの髪を指先で軽く直すとマントを翻した。まるで子猫と戯れあった後のように楽しげなマレウスの様子を見遣り、ロロはレオナに少し同情した。
レオナの云っていた通り、ディアソムニア寮は仄かに妖精の黄緑色をした炎が燭台に灯るばかりでどこも薄暗く石造りの為に寒々しい印象を受ける内装をしていた。ロロは寮のゲストルームに通された。二人部屋で、ふたつ並行に配されたベッドにはそれぞれ尖塔を象った天蓋があり、鉄は使われていないだろうが天井にはノーブルベルカレッジの大講堂にあるようなアイアンシャンデリアと同型の照明器具があった。書物机には三枝の燭台があり、ここでもやはり蝋燭には全て黄緑色の妖精の炎が灯っている。深緑色のシャンタンカーテンが吊された窓の外は濃霧に包まれ一寸先も見えないほどで、まさしく五里霧中の只中にあるロロの心象風景のようだった。
シルバーとセベクがウォルナット材のバゲージラックにロロの手荷物を置くと、マレウスは股肱羽翼のふたりへ労いを掛けた。
「ふたりとも、ご苦労だった。下がって良いぞ」
「はっ!」
胸に手を遣って、ふたりは敬礼した。
「マレウス様、ロロ先輩。俺たちは下がらせて頂きます。何かありましたら呼び鈴を鳴らしてください」
そうして、シルバーは出口近くの壁に掛かった真鍮製のベルを指した。
「此度は若様の海よりも広く深い寛大な御心により賓客として扱うが、先般のように少しでもおかしな真似をしてみろ、この僕が裁きの霆をくれてやる。心しておけ! 人間!!」
「セベク、それは賓客に対する態度じゃない」
セベクの物言いをシルバーが軽く嗜める。ロロの整えられた眉がひくりと動いたが、努めて穏やかに返した。
「ありがとう。肝に銘じておこう」
ロロも会釈をすると護衛ふたりはゲストルームを出て行った。
ふたりきりになったロロはマレウスへ背を向けると、コートのベルトを解いて気取られないよう生唾を飲んだ。
「これで何もかも卿の思い通りだ。私の身など好きにするといい」
ロロは努めて平静を装ったが、言葉端は少し声が震えてしまった。
しかし、幾ら待てども背後から反応はない。怪訝な表情を浮かべロロが振り返ると、もうひとつのベッドに腰掛けたマレウスが、ただロロの方を穏やかな表情で眺めているのだった。
――ああ、またか。
マレウスが己の姿を通して誰かを見ている目だった。ロロはこの目が苦手だった。まるで己が透明人間になってしまったかのような心地になり、何かよくわからない圧力で胸が押し潰されそうだった。
ロロの暗い表情に気付いて、マレウスははたと我に返った。
「すまない。お前の処遇についてだったな」
マレウスはやおら立ち上がると、一歩でロロとの距離を詰めた。まるで新緑のような鼻を抜ける香りに包まれたかと思うと、今度はその真っ直ぐに魂まで射抜いているような眼差しで至近距離から見下ろされ、ロロは息をするのも忘れて動けなくなってしまった。
マレウスはロロの顎に人差し指を掛けて上向かせると、こう宣った。
「ロロ・フランム。僕の友になってくれないか」
マレウスのヒースグレイの唇からチラチラと除く犬歯を見詰めていたロロは、またしても反応が遅れた。
「……は?」
[つづく]