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    POIPOI 16

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    2023/01/07_08:10

    幾星霜の瞬きは、ただ常盤に燦いて2.


    「……曲が途切れた。手を離したまえ、マレウスくん」

     口調は穏やかでありながら奥底で燻る憎悪の炎によってわずかに震えたその声が、マレウスの目を驚きで見開かせた。磨かれた床タイルの照り返しの眩しさに眼球の奥を突かれ少し右目を顰めたが、マレウスは目蓋を閉じなかった。揺れる視界の中、少し低い位置からこちらを真っ直ぐに見上げる顔はマレウスの手近な記憶よりも随分あどけないもので、暗い瞳には瞠目する己のみが映っていた。
     ――忘れもしない。
     ノーブルベルカレッジの大講堂で初めて愛しい人と手を取り合い踊った夜に、マレウスは立っていた。
     一度は自然の摂理に従って放した手を、再び離せようはずがなかった。マレウスはこらえきれない衝動に駆られた。
    「……ロロ!」
    「?!」
     マレウスは思わず眼前の愛しい人を覆い被さるように抱き締めた。つばの広い互いの帽子がぶつかって、ロロの帽子は左側に少し傾ぎ、胸元に掲げられた救いの鐘を模す真鍮製の鐘飾りがガチャンと鈍い音を立てる。マレウスは腕の中のロロが瞬時に身を強張らせたのを感じ取ったが、いまは構っていられなかった。マレウスが鼻梁を寄せたロロの首筋はうっすら汗ばんで襟足が少し張り付いていた。以前に星灯りの中でロロの肌肉玉雪の肢体の内に燻る熱を素の手のひらで感じながら何度も愛撫した光景を、マレウスの脳裏に思い起こさせる淡く甘い肌の香りがした。マレウスは心の内から込み上げるものをいなすよう腕に力を込めつつ、卵の殻を破らないような力加減でロロを囲った。遠巻きに様子を見ていた未来ある魔法士たちは、ふたりの距離の近さに色めき立った。
     渦中のロロは、周りの目がある為マレウスをみだりに突き離せなかった。目の敵にしていた憎き大魔法士のちょっと様子がおかしい行動にどう正当性を見出すか、その腕の中で目を泳がせながら必死に考えていた。
    「…………マレウスくん。気分が優れないのであれば、椅子に掛けていたまえ。それとも医務室の方が良いだろうか?」
     わざと周りに聞こえるようロロが問えば、マレウスは腕を緩める事なくロロの左耳へ直接骨の髄に響くような低い声を注いだ。
    「ああ、少しお前とふたりきりになりたい」
    「……」
     ロロは眉間の皺をそのままにマレウスの言葉を聞いていたが、違う事柄に気を取られていた。気が動転していたとはいえ、医務室という選択肢を出してしまったことを後悔していたのだ。
     医務室には紅蓮の花が枯れ果てて尚、目を覚さない者たちが数人伏せているとロロは副会長から伝え聞いていた。おそらく、その者たちが目覚めた時には完全に魔力は失われているだろうことが予想出来た。これはロロが望んだことであり、数少ない『救い』をもたらすことが出来た者たちであると言えた。
     しかし、――。
     ロロの脳裏には昨晩のナイトレイブンカレッジ生達の言葉が悪夢のように思い起こされていた。己の善行を悪業だと罵られ、表面上は「悪党の言葉に動揺するな」と己を叱咤しても、己への疑念がまるで紅蓮の花の根のように深く伸びてロロの心臓に這いまわりギリギリと締め付け苦しめていた。
     心臓の痛みにロロは細く息を吐く。
     この痛みに負けて仕舞えば、己が今まで費やしてきた全ての善が覆されてしまうという予感に、ロロは唇の色を失っていた。
     ――くだらないっ!
     ロロは奮起して寄り掛かかるマレウスの袖を握り締めると、力を込めて引き離す。
    「わかった。医務室まで案内しよう。来たまえ」
     ロロはマレウスの袖を引くようにして、衆目を集めながら大講堂を後にした。

     青白い月明かりに照らされて、会話もなくふたりは回廊を歩いていた。鈴虫の音だけが響く夜の中庭には、月下美人から分岐した魔法植物の青い花が月光を受けて薄ぼんやりと光り、ジャスミンに似た香りを漂わせていた。マレウスの味蕾に懐かしい幻の苦味がじわりと広がった。花の街にしか咲かないこの花の実からロロが作る解熱剤の味を、マレウスは知っていた。
    「ロロ、手をつ……」
    「全く、ダンスで目でも回したのかね?」
     ロロはマレウスの次の句を潰すかのように言葉を発したが、マレウスは意に介さず続けた。
    「繋がないか? 子鼠が僕達のあとをつけて来ている」
    「繋がないが知っている。我々はいい見せ物のようだ」
     大講堂を出てから野次馬心を抑えきれなかった数人の気配が、ふたりをコソコソとつけて来ていた。
    「ふむ。僕もあまり寵児を見せつける趣味はない」
    「なんの話だ?」
     若干噛み合わない会話にロロが苛立ちを滲ませた口調で柳眉を顰めると、マレウスは右手の人差し指を己の背後でひと振りした。途端、追尾してくる気配が途絶える。
    「貴様、何をしたっ」
     驚いた顔でロロがマレウスを仰ぎ見る。
    「子鼠もダンスで疲れて眠ってしまったのだろうさ」
     余裕の笑みを浮かべるマレウスに、ロロは内心胸を撫で下ろしつつも舌打ちをして前に向き直った。
     すぐそこの角を曲がれば、医務室がある。ロロの心音は早鐘のようにうるさく鳴り響いていた。ハンカチで口元を覆い過呼吸を起こしてしまわぬように、ロロは少し乱れた己の呼吸をなだめながら歩く。背後からマレウスの声が追う。
    「大丈夫か? お前は呼吸が乱れやすいからな」
    「……いらぬ気遣いだ」
     ダンスを終えた後から、ロロはマレウスの言動の端々に違和感を覚え始めていた。

     明かりの落とされた医務室は数台のベッドが使用中になっており、風に揺れるカーテンの向こう側からもがき苦しむ声が微かに聞こえていた。保健医はベッドに臥す生徒たちの様子を忙しなく診て回っていた。ロロは医務室の入室台帳に名前を書き付けて、保健医に会釈すると空いたベッドのひとつにマレウスを促し掛けさせる。マレウスは帽子を脱いだ。ロロの眼前へ差し出されたマレウスの頭上の捻れた黒い角は、窓からの月光を受けて玉虫色に鈍く円偏光を放っていた。
     マレウスは尖った耳をひくりとそば立て目を細めた。
    「ここの者たちは随分と魘されているようだな」
    「……ああ、魔力保有量が元々少ない者たちだろう」
    「ここの者たちに僕たちが用意した『贈り物』が届いていないのはあまりに不憫だ。代わりの品を授けよう」
     言うなりマレウスの右手に魔力がきらきらとした光を纏って圧縮された刹那、まるでカメラのフラッシュを焚くように眩い閃光が医務室を満たした。思わずロロは腕で光の直視を防ぐ。目蓋をゆっくり開けると何事もなかったかのように、医務室は元の様子を取り戻していたが、カーテンの向こうから次々と生徒たちが目を覚ます声と保健医の歓喜する声が聞こえた。ロロは憂鬱をその顔に貼り付けて、マレウスに問う。
    「何をしたんだ」
    「僕の魔力を分け与えてやった」
     あっけらかんとマレウスは宣った。
    「紅蓮の花は、ここの者たちの魔力を完全に吸っていた訳ではなかったのか……?」
    「風前の灯ではあったが、皆魔力がついえている訳ではなかった。救いの鐘の音が守ったのだろう」
    「…………ふん、余計な事を」
    「僕が手を出さずとも、幾度か鐘の音を浴びていれば魔力は戻ったさ」
     目を覚ました者たちと保健医は皆喜びに沸いた様子で揃って医務室を去り、代わりに医務室には静けさが訪れた。マレウスは少し離れたところに立ち腕組みをして己を睨み付けるロロへ、微笑むと詠うように嬉々として言った。
    「これでやっとお前とふたりきりだ」
     ロロは右手の人差し指をとんとんと二度打ち、すげなく言い放つ。
    「私はあの舞踏会の主催者だ。そろそろ大講堂へ戻らせてもらう」
     腕を解き踵を返したロロの右手首を、マレウスの右手が掴む。
    「行くな、ロロ」
     ロロは大人しく立ち止まり、マレウスに向き直る。
    「……先ほどから気になっていたのだが」
     ロロは一度言葉を切った。正面から改めて見下ろすマレウスの瞳は猫の目のように窓からの月光が反射して黄緑色に怪しく光りながら、どこか迷子になった子どものような縋る眼差しでロロの方を見上げていた。
     見上げながら、ロロのその奥を懐かしげに見ていた。
     ロロはマレウスを見ているのに、ふたりの目線がかち合わない。
    「貴様は、私を誰かと勘違いしていないか?」
     マレウスは驚いた顔をする。
    「勘違い?」
     ロロは墨染めのエメラルドのような瞳でマレウスの目をまっすぐに見詰めて、問う。
    「さっきから誰を呼んでいる?」
     さらにロロは畳み掛け、吐き捨てた。
    「私の名の向こうに誰を見ている? ……いたく不愉快だ」
     ロロの言葉を受けて、マレウスは長いまつ毛を瞬いた。
     想いが通じ合ってマレウスは己の半身をロロの伴侶とし、花の街で共にその生涯を終えた。
     マレウスと愛し合った年月を持たない眼前のロロは、悲願を打ち砕いたマレウスに憎悪しか持っていない。あの頃と同じ温度と質量の気持ちをぶつけてもダメだとマレウスは今更ながら気付かされ、半ば落胆した。
     初めて、マレウスは眼前のロロを見た。
    「すまなかった」
     哀しみの色を湛えた輝膜の瞳に射抜かれて、ロロは何故か胸が苦しくなった。
    「僕はお前を通して、愛する人を悼んでいた。少し傍に居てほしい」
     懇願されてロロはマレウスの手を振り解けなかった。
     ロロは視線を逸らし窓の外の月明かりに照らされる糸杉を眺めて、独りごちるように薄い唇から言葉を零す。
    「……少しならば」
     マレウスは目元を緩めて微笑むとロロの手を引いた。
    「ありがとう」
     ロロはいざなわれるまま、マレウスが掛けるベッドの隣へ坐して帽子を脱いだ。
     会話を紡ぐでもなく、深い森の凪いだ湖の底のように静謐な不思議と居心地のよい空気の中、ふたりは互いの存在をただ感じていた。


    [つづく]

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