63㎡に降るその子を初めて見た時、俺は諦念を抱いたような失望したようなそんな心地がした。
後ろでひとつに束ねられた髪の亜麻色も、何にも遮られず晒された瞳の紫も、凛とした佇まいも、壇上に立ちマイク越しでなくとも聞こえそうなほど朗々とした、しかし決して耳障りではない声で新入生に語りかけている様も。
似ているな、と思った。
だが、それだけだった。
もうあと2ヶ月で32歳になるただの保健室の先生。それが今の俺。
この32年は、ずっと前にあった2000年余りとは比べ物にならないくらい穏やかだった。
学生時代少しやんちゃした位の脇道はあったけれど、そんなの誰でも通るかもしれない程度のもので概ね真っ当だ。
しかし全くもって普通にとはいかず、2000年の残余は今世に引き継がれていた。
例えば、まだランドセルを背負っていた時、近所にいた中学生の双子。
例えば、中学生になる頃、隣の家に引っ越してきた黒い髪に赤い瞳の無口な小学生。
例えば、高校生の同級生になった自由奔放な女子、そしてその家に居候していた寝不足気味の子供。
かつて同じ時間を生きた人達。年齢も姿も変わっていたとしても彼らの、あるいは彼女らの顔を初めて見た瞬間『あぁ、あの人だ』と確信を得た。
魔法使いは物語の存在で、月に人類が降り立って随分経つ現代を、2000年分の過去を背負って生きるには俺はあまりに幼い。俺とって彼らの存在は救いであり、希望だった。
また出会えるかもしれない。かつて間に合わなかった言葉を交わせるかもしれない。
そうやって少しずつ懐かしい人と出会い、いつかの続きを初めてもうすぐ32年になる。
最近だと5年前に、かつての可愛い生徒の2人目と再会することが出来た。上の子は今10歳、下の子は5歳。件の同級生の子供だ。あの子達は、俺のことはまだ分からないだろうけれど。
ぽつりぽつりと懐かしい顔と出会う中、未だ出会うことができていない人たち、その中にはもう1人の生徒もいる。
それから、一番会いたかったあの子。
俺のたった1人の弟子。
一目見たらそれだけできっとあの子だとわかる自信があった。
彼女を見るまでは。
マリーナ・ラウィーニア。
壇上に立つ彼女は、俺がこの春から赴任した高校の生徒会長だ。
後ろでひとつに束ねられた髪の亜麻色も。
何にも遮られず晒された瞳の紫も。
凛とした佇まいも。
壇上に立ちマイク越しでなくとも聞こえそうなほど朗々とした。
しかし決して耳障りではない声で新入生に語りかけている様も。
似ているな、と思った。
だが、それだけだった。
『あぁ、あの子だ』と、そんな確信は一切得られなかった。
壇上から降りていく彼女を当たり障りない程度の拍手をしながら眺める。
今世は女の子に産まれたんだ。俺が赴任した年に在籍してるってこんな偶然ある?と、考えはしてもあの子である確信はない。
どれだけの年月を記憶に抱えていたとしても、たったひとつの不確定で年甲斐もなく弱気になってしまう。
あの子じゃないのか?もしあの子ならどうして俺にはそれがわからないんだ?他の人達のことはわかったのに。
俺がもしあの子の可愛がった生徒達や、400年探し続けた従者ならあの子だってわかったのか?
いくら頭の中で問答を繰り返してもこの世の不思議な摂理なんてわかるわけがない。
ただ一つだけ、頭をよぎった可能性があった。
もしも、今世での再会が前世で繋がれた縁故のものであれば、あの子との縁は既に解かれてしまったのかもしれない。いや、解かれた気になって、俺自身が解いてしまったのだろうか。
400年と数十年前に。
かつての未練は呪いにもならなかったと思ったのに、手酷い呪い返しにあったような気分になって、俺は彼女があの子である証拠なんて探す気になれなかった。
それが今年の春のこと。
あれから数ヶ月、もうすぐ夏が来る。というより既にほぼ夏だと言っていいだろう。6月を迎えて俺はつい最近32歳になったばかりだ。せっかちな夏はもうじりじりと校内のありとあらゆる場所を焼いている。
季節の変わり目というのは体調を崩しやすい。
更に冷房が入り始めると更に強烈な寒暖差にやられてしまう生徒が増え、保健室は度々喜んではいけない来客で賑わった。
マリーナも喜べぬ来客のひとりだ。
彼女も暑さと冷房にやられたらしく、真っ赤なのか青いのか分からない顔で友人の肩を借りながら保健室に訪れた。
電子音を発した体温計に表示されたのは、38.4℃の文字。うーん、早退。
名簿を捲って緊急連絡先に電話をかけると、応答したのは上品な声だった。母親だろう。
事情を話すと穏やかで柔らかな声に動揺や焦りが滲む。
どうやら職場と学校が家からは反対方向にあるようで、少し時間がかかるかもしれないとのこと。
通話の終わりかけには捲し立てるように、なるべく早く迎えに行きますよろしくお願いします、と一息で言われた。心配しているのがありありと伝わってくる声だ。
愛されて育ったんだろうな。
そう思うとなんだか嬉しい気持ちと、置いてけぼりにされたような気持ちが外の日差しみたいにじりじりと俺を焼いてくる。
今世には孤独に怯える長寿の運命も、社会から爪弾きにされる不思議の力もない。
本格的に、俺はいらなくなっちゃっただろうな。
そこまで考えて今はそんな場合ではない、と小さく首を振り思考を掻き消した。
努めて冷静にいつも通り優しい保健室の先生の声色で、ベッドを囲うカーテンの向こう側に声をかける。
「ラウィーニアさん、時間がかかるかもしれないけどお母さん来てくれるって。それまで先生もここにいるつもりだから何かあったらすぐに言ってね」
「…すみません、ありがとうございます」
返ってきた声は掠れていた。
時折咳き込んでいたし喉も痛いのかもしれない。
自分で選んだ仕事とはいえ、こういう時にしてあげられることが限られているのは少し歯痒く思う。
担任の先生にも連絡を入れて、10分ほどで4時限目の終わりを告げるチャイムがなり、昼休みに入った校内は騒がしくなった。
それから更に15分ほどして廊下酷く騒がしくなり、誰かが走ってくる音までする。それも相当な速度だ。
おいおい危ないな、と廊下を覗いて一声注意するため椅子から立ち上がると、足音は保健室の前で止まり勢いよく扉が開いた。
扉を開いたのは若い女性の教師、マリーナの担任だ。
「ガルシア先生!」
「ちょ、ちょっとどうしたの、すごい速度で廊下走ってたよね?」
「生徒が…!階段から落ちて頭を打ったんです!血が、血が出てて…!」
保健室の空気が張り詰め、俺自身も焦燥感に苛まれた。
青い顔の先生は今にも泣き出しそうで、震えた手で握っているタイトスカートは縫い目が裂けていた。
「大丈夫、落ち着いて。場所はどこ?」
「体育館側の2階の踊り場です…!」
「他に先生はいた?」
「はい、応急処置を……でも一応ガルシア先生も呼んできて欲しいと…あ、ラウィーニアさんには私が付き添いますので…!5時限目空いてますし……」
話している間に落ち着いてきたのか、ここで休んでいる自身の生徒を思い出し申し出てくれた。
「助かるよ、俺もなるべく早く戻ってくる」
ガーゼやらなにやらと、念の為スマホをポケットに入れて俺は保健室を離れた。
それからばたばたと状況の確認やら駆けつけた救急隊員の応対やら保護者への連絡やらをして、落ち着いた頃には既に5時限目が始まっていた。俺が保健室に戻るとマリーナの姿は既になかった。
「戻りました。ごめんね、思いのほか時間がかかって……」
「いえ、ありがとうございました。こういうこと初めてで動揺してしまっていたので助かりました…」
「どういたしまして。よかった、ラウィーニアさんお迎え来たんだね、思ったより早かったな」
「えぇ、ついさっき。ガルシア先生が出たすぐあとにお母様から連絡があったんですよ」
俺は空いたベッドを整頓しながら、世間話程度の気持ちで先生の話を聞いていた。
「息子が…ラウィーニアさんのお兄さんが、今日大学お休みだから迎えに行くって」
つい、手が止まってしまった。
「ラウィーニアさん、お兄さんもこの学校の卒業生なんですよ。2年前かな、私が新任で入った時に生徒会長してて……凄いですよね、兄妹揃って生徒会長なんて」
故郷に妹がいるんです。
遠い昔に聞いたあの子の声が頭の奥で蘇る。そういえば、そんなことを言っていた。
「……ねぇ、そのお兄さんさ、どんな子?」
「ラウィーニアさんそっくりですよ、髪も瞳も雰囲気も。そのまま男の子にしたような感じです」
彼女の容姿そっくりの男の子。
あぁ、なるほど。
「そっちか……」
独りごちると目をきょとんとさせた先生に、こっちの話と手を振った。
自分の勘違いに気がついて早2ヶ月と数週間。夏休みも開けて校内は文化祭準備で賑わっていた。
「いったいなぁもう…」
元気が有り余っている若者たちの声が頭に響いて顔をしかめる。二日酔いだ。
誰かが保健室の扉を叩く前に効いてくれよと願いながら、通勤中に買った市販薬を水で胃に流し込んだ。
子供たちに注意を促すべき立場の人間が、翌日も仕事があるというのに二日酔いになるほど飲むなんて恥ずべきことなのだろうが今回ばかりは許されたい。
俺はデスクに置かれた一枚の紙に視線を落とした。それは昨日演劇部が配っていた文化祭公演のチラシだった。
その演目も主演も俺にとっては最悪だった。
ジャンヌ・ダルク。今生きるこの世界の中で恐らく一番有名な魔女と呼ばれた少女。
それから火あぶりを科された者。
歴史の授業で習わずとも人生のどこかで彼女の末路を知る者は多いだろう。
俺もどこで知ったか覚えていないけれど、その人生のあらましをざっくり聞いただけで悲鳴をあげたくなったのをよく覚えている。そのくらいあの子と重なってしまい、おかげで高校時代、世界史の授業はとれなかった。
演目はそのジャンヌ・ダルクが火刑から生き延びていたらというifの物語なのだ。
「あの顔でジャンヌ・ダルクはダメでしょ……」
よりにもよって主演、ジャンヌ・ダルク役がマリーナ。確かにあのよく通る声は演劇向きだろうし、凛とした佇まいと清廉な容姿は適役だとは思う。
だが俺の精神には大変よろしくない。
あの子そっくりのあの容姿で?炎に飲まれて?かつそこから生き延びていたら?
どうしてそんな奇跡のようなキャスティングになってしまったのか。
そもそも演劇部にいることが意外だったのに。
このチラシを受け取った俺は演目と主演を見てとても正気ではいられなくなり、馴染みのバーでしこたま飲んで見事に二日酔いとなった。いつもの倍は飲んでいた気がする。
ちなみにそこのバーの店主も32年以上前からの付き合いだ。次から次へと酒を呷る俺を心配しながらも、水と一緒に好奇心を隠そうともしない視線を寄越していた。
閑話休題。
精神によろしくないと既にわかっているのなら見に行かなければいいだけの話だ。そもそも文化祭の間は校内の見回りをしなければならないし、何かあったらすぐに保健室に戻らなければいけない為1時間近くも観劇してはいられない。
だが嬉しいが困ったことに生徒に好かれている先生というのはそうもいかないもので、ニコニコしながら「先生も見に来て!」とチラシを渡してくれた可愛い生徒の気持ちを無下にはしたくない。
ひとり唸りながら頭を抱えていると控え目に保健室の扉が叩かれた。
薬は既に効いてくれているようだ。セーフ。
「失礼します」
聞こえてきた声にぎくりとしてデスクに脚をぶつけた。今さっきまで俺を悩ませていた演劇部の主演女優が、救急箱を持って入って来た。1クラス1箱置いてあるものだ、入ってるものがなにか無くなったのかもしれない。
「おはようございます、朝からすみません。……痛そうな音しましたけど大丈夫ですか?」
「大丈夫、気にしないで。おはよう、ラウィーニアさん。で、えっと、どうしたの?」
「救急箱の絆創膏がなくなってしまったので貰いに来ました」
「絆創膏ね、少し待ってて」
戸棚から絆創膏の箱をふたつ取り出す。他にも減ってるものを補充してしまおうと、救急箱を確認しているとマリーナが口を開いた。
「ガルシア先生、文化祭公演に来てくださると聞きました」
どうしてそんなピンポイントにその話題が上がってしまうのか。俺は手を滑らせて持っていた包帯を床に転がしかけた。
「……うん、見回りとかあるから10分くらいしか見れないだろうけど」
「ありがとうございます、お忙しいでしょうに」
「可愛い生徒たちの晴れ舞台は見たいからさ。そうだ、きみ主演なんだろう?生徒会もあるのに頑張るね」
「あぁ、ご存知だったんですか。少し恥ずかしいというか…照れてしまいますね。部活も生徒会もみんなで協力してやっているものですから、そこまで大変ではないですよ」
大人びた冷静なすまし顔がほんの少し和らいで、歳相応の少女の表情になったのが微笑ましくて俺もつられて笑顔になる。
「そう、無理をしてないのなら良かった」
率直な気持ちを伝えるとマリーナはきょとんとして、数度瞬きしてからまた口元を綻ばせた。
「……ふふ」
「……どうかした?」
「いえ、……大したことではないんですけど、兄にも同じことを言われて」
今度こそ包帯を落とすかと思った。
「兄も数年前この学校で生徒会長をしてたんです。その頃は素行の悪い生徒も多かったらしく…生徒会長としての仕事も大変だったみたいで……だから、私が頑張りすぎてないか心配してくれたんです。……兄をはじめその時の生徒会が校内の治安を改善したらしくて」
そういえば数年前までこの学校は、生徒間で問題が起きたと良くない噂が流れてくることがあったが、2年前を境にはほとんど無くなっていた。問題児が卒業したからだと思っていたがどうやら違うらしい。
規模は違えど革命家は生まれ変わっても革命家であるようだ。
「……心配なんかしなくても、兄さんが良くしてくれた学校は今も良いままなのに」
愛する者に対する過保護も相変らずなのだろう。マリーナは心配性の兄に呆れるように肩を竦めているが、その顔は誇らしげで嬉しそうだった。
危険な場所にも躊躇なく飛び込む可愛い生徒達。心配故に彼らを叱りつける姿が脳裏に浮かぶ。
次いで生徒会に部活に忙しくする妹を、気遣う兄の顔を想像してみる。
俺の頭の中に描いたあの子の幻影は、歳こそかつてよりも若いが昔と変わらぬ姿だった。
たかが空想だと言うのに俺はなんだか無性にこいしくなってしまって、聞くつもりもなかったことを訊いてしまった。
「お兄さん、文化祭見に来るの?」
少女の微笑みはさらに華やいだ。
「はい、午前の公演なら見に行けるって言ってくれました」
「そうなんだ、それは良かったね」
来るんだ。演目も聞いたのだろうか。自分の妹が、かつての自分と似たような運命を演じることを知ったらどう思うのだろう。
普通なら見たいとも思わないのだろうけれど、あの子なら見ることを選んでもおかしくない気がする。
可愛い妹の晴れ舞台。見に来て欲しいと頼まれたら、自分の苦悩にすら蓋をしてしまえそうだ。
そもそも、かつての記憶があるのかもわからないのだけれど。
俺の意識は完全に遥か過去に飛んでいたし、少女の花のような笑みにも持っていかれていた。
そのせいで一つ、至極当たり前の事実をスルーしていた。
「……お兄さん、学校来るんだね」
「…?はい、文化祭を見に来るんですし、そうなります」
あの子がこの学校に来る。それもこの間のようなほんの一瞬ではなく、少なくとも一時間以上。
これは俺にとって由々しき事態だ。
なにしろ俺は今、臆病風に吹かれまくっているのだから。
あの子の居場所は、マリーナから辿れば簡単に見つけられるだろう。けれど俺は探さなかった。探せなかった。
なぜって、もしあの子と思しき子に今度こそ出会えたとして、あの子だとわからなかったら?
マリーナを初めて見た時と同じ感情を、あの子本人に向けることになったら?
その時こそ、本当に俺とあの子の繋がりが無くなったことが、俺に突きつけられる。
この間あの子がここに来た時に会えなかったのだって、合わない方がいいんじゃない?という、運命かそれに準ずるなにかのお節介のように思えてならない。
運命とか、信じてる訳では無いけれど。
とにかく会って確かめる勇気がなかったんだ。会いたいけど、会いたくない。
それがここに来て突然出くわす可能性が出てきたなんて。
マリーナに必要なものを渡して彼女を見送ったあと、俺は文化祭当日の立ち回り方を感じ始めた。
時間が流れるのは早い。文化祭の日はあっという間に訪れた。
結局俺は、自らあの子に会いに行くことは選べなかった。
マリーナは、午前の公演なら兄がこれると言っていたからその前後は、会場である講堂には近づかないようにすることにした。
午前の公演なら、といっていたあたり午後は別の予定があるのだろう。
10分程度しか居られないが、公演は午後の部を見に行こう。
情けないけど、あの子がいると分かっている場所に、会うかもしれないと分かっていながら向かうことは出来なかった。
舞台上のマリーナは勇ましかった。
手作りの西洋甲冑を来て、剣を掲げる。
彼女の呼び掛けに戦士AからCくらいまでが応える。講堂のステージから俺のいる後ろの席まで、突き刺さるように声が飛んでくる。
つられて声を上げてしまった人達が、観客席にちらほら見受けられた。
凛々しいその姿は在りし日のあの子そっくりだった。
高校演劇はあまり時間に猶予がない。場面はあっという間に展開し、いつの間にかマリーナはぼろぼろの服を身にまとっていた。
マリーナの声に呼応していた戦士AからCは、裁判官と処刑人へと変わっていた。
歴史とはいくらか違うが物語というのはそういうものだろう。
彼女の訴えは聞き届けられず、物語は最悪な方へと向かっていく。……そろそろ他の部活やクラスも見に行かなければ。
俺は聖女の足元に火がつく前に講堂を出た。
講堂での演劇部の公演、体育館での軽音楽部のステージが重なったのもあり、第二校舎3階端の空き教室付近は人が少なかった。
午前の公演が終わってからは既に1時間以上が経過している。
あの子はもう校内に居ないだろう。
俺はまたあの子から逃げた。
暖かな可能性を信じきれずに背を向けた。
これが最後のチャンスだったかもしれない。だが自ら手放した。
会わないことを決めたのは数時間も前だ。その上考え直すにはもう手遅れだと言うのに、いつまでもあの子の姿を思い浮かべてしまう。
会ったら、またあの時の続きができたのだろうか。
未練は、海水を含んだ砂のように俺の足にまとわりついていた。
ふと、廊下の突き当りが賑やかになった。
数人の生徒が連れ立って教室から出てきたようだ。
確か、天文学部が使っているところだ。
普段は何の変哲もない空き教室だが、今日だけはプラネタリウムになっていると聞いた。
扉に貼られたポスターには流れ星が描かれている。
思い出すのは天から落ちてくる無数の光。
そして、それよりずっと近いところにあるあの子の瞳。
門を開けろと乞う声は無いのに、俺は教室の扉に手をかけた。
扉の内側には真っ黒で厚いカーテンが垂れている。
きっと遮光用だろう。他の来客の邪魔をしないように、素早くカーテンの内側へ入り顔を上げた。
暗闇の中、あったのは雨粒のように天井をかける無数の光。
それと、柔く波打つ亜麻色の髪。
すっと伸びた背筋、ほんの少し首を逸らして天を仰ぎみている。
目元は見えない。
だが、見なくたってわかる。
俺は知っている。
無数の輝きを映したその瞳は、鮮やかな紫色。
自分以外の来客に気がついた彼は、振り返った。
流星雨を背に。
「ファウスト」
考えるより前に口からこぼれた名前。
目の前の瞳が、星よりも強く瞬いて俺の瞳に降った気がした。