雨が止んでも持っていて窓がノックされる音に気がついて、ガラス越しに空を見ようとするも水滴で視界が歪んでいた。雨だ。
今日は曇り止まりで雨の予報はなかったのに。
もう少しでうちにくる今日の俺の先生、もとい面倒見のいい先輩ファウストに想いを馳せた。
今日は俺の家で勉強会だ。
ファウストが俺の家に来るのは秋ぶりだったけど、まだ家の場所は忘れていないようで、駅まで迎えに行くと言ったら寒いから家で待っていなさいと返された。
準備のいいあの人のことだ、きっと折り畳み傘を持って…………………いないかも。
そうだ、確か一昨日あたりに壊れたとぼやいて、持ち手が取れたそれを見せてくれた。
なんでも、突風に煽られて反射的に強く引っ張ったらばきりといったらしい。触れれば壊れそうな見かけによらず、パワフルなところは相変わらずだ。
気にいるものが見つかるまでは長傘だけで乗り切る、と宙ぶらりんの持ち手を揺らしていた気がする。
スマホを開いてファウストにメッセージを送る。既読はつかない。そりゃそうか、雨が降ってる中じゃスマホを見る余裕もないだろう。
駅から歩いて15分。ファウストから駅に着いたと連絡があったのが5分前。雨が降り始めたのが今さっき。
俺は、玄関に立てかけられた傘を2本掴むと、適当なサンダルを足にひっかけて玄関を飛び出した。
真冬の雨は痛い。
ゴミ出し用のサンダルには少しも防御力がなく、みるみるうちに足が冷えていく。ジーンズの裾もずぶ濡れだ。
ファウストをうちに呼ぶ時いつも使う道を駅へと逆走してると、丁度ファウストがコンビニの軒下に駆け込むのが見えた。
雨空を伺いながら、濡れた手でハンカチを取り出そうとしているようだった。いつもより大人しくなった巻き毛の髪から水が滴っている。
「ファウスト」
傘を差したまま軒下に入って黒い傘を差し出した。
突然近距離に現れた人影にファウストは肩を揺らし、俺だと分かった途端ぎょっとした。
大方、なんでここにいるんだ、と思っているのだろう。顔に出やすい人だ。
「なんできみここにいるんだ」
ほらやっぱり。
「雨降ってきたからさ。予報もなかったし、あんた折りたたみ壊れたって言ってたじゃん」
「よく覚えてたな……すまない、寒いだろうに……すごく助かったよ。止む気配もなかったからここで傘を買おうかと迷ってたんだ」
「お、じゃあ予想外の出費は防げたな」
「あぁ、ありがとう」
差し出された傘を受け取って、ファウストは再度ぎょっとした。視線の先は俺の足。
「きみサンダルじゃないか!!」
「うおっ!?なんだよ、確かにサンダルだけど……」
「なんだよじゃない!この真冬の雨の中サンダルって……!」
「だって……あんた傘持ってないだろうし、連絡しても返事ないから急いで出てきたんだよ」
俺の防寒対策の欠片もない足元にご立腹だったようだが、自分に非があると思ったのかファウストはぐうの音も出さずに黙ってしまった。別に気にするようなことでもないのに、素直な人だから。
「あんたのがよっぽどずぶ濡れじゃん。ほら、早く行こうぜ。なんか温かいのいれるからさ」
「……うん、頼んだ」
せっかくの冬休み、寒い中俺のために俺の家に向かう最中、自分は頭の先から足先まですぶ濡れになった癖して、足だけ濡れてる俺の事を心配して怒るこの人を、早く温かいところに押し込めたかった。
「はは、落ち着かなさそうだな先生」
「当たり前だろ……人の服を借りるなんて経験ほとんどない」
家に着いた俺は、比較的くたびれてない服一式をファウストに持たせて洗面所に放り込んだ。
ここまでしてもらう訳には、とわやわや言っていたがラグ濡れちまうしと返すと大人しく着替え始めた。実際はラグなんでどうでもよくて、風邪をひくのが心配だったのだけれど。
俺も足を拭いて適当なスウェットに着替えた。
少しするとファウストは、おずおずと洗面所からでてきた。乾いていない髪がぺったりとしている。
俺からの借り物の服を着ただけで、緊張した面持ちになっているのがおもしろい。俺の家なんてそれなりに来ているし、いるのも俺だけなのに。
俺の方が気持ち体格がいいからか、ちょっとだけ服の布を持て余している。
濡れた服をストーブの温かさが届くところにかけて、いつまでも所在なさげにしているファウストをローテーブルにつくよう促す。いつにないぎこちなさで座るものだから思わず笑ってしまった。
「ココア入れたからさ、飲みながらやろうぜ」
「ありがとう、何から何まですまないな……今日は何から手をつける?」
「……数学のミニテストで0点取りまして」
「……見せなさい」
「はい……」
今日の授業内容はあっさりと数学に決まった。
ローテーブルには、2人分のノートと教科書が拡がっている。
微分とか積分とか正直未だにちんぷんかんぷんではあるが、ひとしきりファウストから解説してもらった内容を頼りに実践することになった。
ファウストはファウストで、自分の勉強に取り組んでいた。
受験生だろうに、勉強の傍ら後輩の面倒まで見ることが出来るのは、日頃の自主学習の成果だろう。
時計と、窓を叩く雨と、紙を擦るシャー芯と。今日だけの臨時教室には、心地よい音だけが響いていた。
学校で一度やったはずの問題が、その時よりもするすると入ってくるのは直前のファウスト先生の授業のおかげだろう。
まるで歯が立たなかった教科書の数ページを、何とか攻略することができた。
「先生!でき…………た……」
成果を報告したくて顔を上げたが、俺の言葉尻は萎んだ。
ファウストが、寝てる。
栗色の髪がカーテンになって顔にかかっていて、力の抜けた右手からは今にもペンが転げ落ちそうだ。
起こさないようにそうっと、指の間からペンを抜きテーブルに置く。
眼鏡も取ろうかと思ったけれど、起こしてしまいそうでそちらは断念した。
ただでさえ引きこもりがちで体力が少ないだろうに、雨に体力を奪われたのだろう。
加えて冷え切っていた体が温まって、眠くなってしまったのかもしれない。
どんな理由だろうと、いつもしゃんとしているこの人が俺の前で、俺の部屋で、安心してうたた寝してくれることがなんだか嬉しい。
髪の隙間からファウストの顔を覗き見る。
俯きがちになっているからか、まつ毛が長いことがよくわかる。
ほんの少し開いた薄い唇から、すうすうと規則的な呼吸音が聞こえてきた。
ファウストのこんな顔、なかなか見れないと思うとついまじまじと見てしまう。
この顔を見れる人って、どのくらいいるんだろう。
そんなにいねぇといいな。
「……もうちょっとがんばろ」
そう思った途端気恥ずかしくなってきて、誰も見てないのに1人で口をもごもごさせた。
誤魔化すようにシャー芯をカチカチ鳴らして、また教科書に向かうことにした。
数学のワークにある同じ単元の所を開いて、教科書と並べて解いていく。
まず問1。きっと他の人より時間はかかってるだろうけれど、解けるようになっただけいい。
ちらりと視線を上にあげてファウストを見る。まだ寝ている。
問2。ちょっとコツを掴めてきた。引っ掛けとかじゃなければいけそう。
もう1回顔をあげてファウストを見る。やっぱり寝ている。
正直少し寂しい。ファウストの解説のおかげで解けた教科書の例題と、ワークの2問を見せたい。
それで、すごいじゃないか、頑張ったなって褒めてもらいたい。
「ガキかよ……」
まるで親の似顔絵を描いた子供みたいだ。高校2年生が、1個上の先輩に思うことじゃない。
でも仕方ないだろ。だってファウストが、あんまりにも優しい声で褒めてくれるから。
よく出来たねって、目を細めて笑ってくれると、くすぐったいけど暖かい気持ちになる。
あんな声も顔も、見れるのは俺か猫くらいなんじゃないかと思ってしまう。
俺が子供っぽいんじゃなくて、きっとファウストが甘やかすのが上手いんだ。
誰も聞いていない言い訳を、自分で自分に聞かせると、俺はもう一度ファウストを見つめた。
寝かしといてやりたいな、でも起きて欲しいな。
「せんせー……」
返ってくるのは寝息だけ。
雨粒は、未だぽつぽつ窓を叩いている。
時計が、こつこつ秒針を鳴らしている。
相合傘をしている訳でもないのに、世界に2人だけになったみたいだ。
そう思ったらなぜだか、心臓までどくどくと音を鳴らし始める。
ついさっきまでファウストが起きない寂しさと、穏やかな空気で心底凪いでいたはず心臓が、落ち着かなくなってきた。
「せ、先生、起きて」
これ以上ダメかもしれない。寝かしてやりたかったけど、先生に起きてもらわないと俺がどうにかなりそうだった。
控えめに声をかけてもファウストは起きない。結構眠りが深いタイプなのだろうか。
「……先生……ファウスト、起きてってば…」
今度は軽く肩を叩いてみる。
そうやってようやっとファウストが身じろいだ。
「ん……ぅ……」
くぐもった小さい声が聞こえたかと思うと、眉と瞼がひくりと震える。
緩慢な動作で目を擦って、ようやくファウストは起き始めた。
薄く開いた目が眠たげに数度瞬いてから、はっとしたように俺を見た。
「す、すまない、僕、どのくらい……」
「いいよ、雨ん中来てくれたわけだし……疲れてたんだろ?むしろ起こしちまってごめんな」
「良くないだろう……きみが頑張ってる目の前で居眠りなんて……本当にすまない……」
失態で頭が覚醒したのか、ファウストは寝起きと思えないほどはきはきと喋った。
「謝ることねぇって。それよりさ、これ見てよ」
休みの、雨ん中、俺の家まで来て、俺に勉強を教えてくれてるファウストに、これ以上気負わせたくなくて、俺はさっき格闘していた教科書とワークを見せた。
2割くらい早く見てもらいたい気持ちもあったけど。
「教科書の例題、ここのページは全部……あとワークの方も2問終わった」
「へぇ……例題、それなりの数あっただろう。すごいな、解くのが早い」
早速褒めてくれた。まだ答え合わせもしてないのに。
早くも嬉しさで破顔しそうになった俺は、誤魔化すように口をぎゅっと結んだ。
ファウストは俺がノートに書いた数式と、教科書やワークと、それらの答えを見比べてから、赤いボールペンをカチッと鳴らした。
ボールペンをノートに滑らせると、大きく丸を描いていった。
「全問正解。ワークの2問も合ってる」
「やった!」
「結構難しかっただろうに」
「うん、少し苦戦したけど、応用問題とかじゃなければできるようになったんじゃねぇかな」
ほんの少し照れくさくなって、頬をかく俺にファウストは目を細めた。
眉の端がいつもよりも下がって、反対に口の端が上がっている。
次いで発された声は、陽だまりみたいに柔らかくて暖かかった。
「よく頑張ったね」
ぎゅう、と、心臓から音が鳴った気がした。
これだ。俺はこの顔と声に弱い。
俺は、さっきよりもずっと嬉しくて、照れくさくなって、結んだ口をもごもごさせた。
「あんたが教えるの上手いおかげだって」
「僕が教えたって、きみの頑張り次第なんだからきみが頑張った成果だよ。誇っていい」
「誇るって、例題とワーク2問で大袈裟だろ」
ファウストは冗談めかして言っていたが、誇る云々まできっと本心だ。
そういうところが好きだ。
時々悪ぶろうとするけど、裏表がなくて、変な世辞も言わない。この人に褒められたら、それは根っこからの本心だ。
「なぁ、ファウスト今日何時までいれる?」
「きみが大丈夫なら夕飯前までかな、あまり長居しても悪いし」
「俺は全然大丈夫……てかさ……あ〜……」
「どうした?」
俺が言い淀むと、ファウストは不思議そうに首を傾げた。
ファウストは俺と1個しか変わらないのに、落ち着いてて大人っぽい。
なのに時折今みたいに少し幼げな、首を傾げる仕草をする時がある。かわいい。
でも言ったら怒られそうだから言わない。
「あのさ……明日も学校休みじゃん?だからさ……」
「あぁ」
「……うちで夕飯食べてきませんか……?」
上目で様子を伺いながらぼそぼそと言うと、ファウストは目を瞬かせた。
きょとんとしている。
その間に俺は耐えられなくなって、速攻で逃げを打った。
「あ、いや、ごめん……別になんか予定とかあったらいいんだけどさ……」
「どうして謝るんだ。予定もないし、嬉しい誘いだけど……いいのか?」
「良くないならそもそも誘わないって」
「なら、お言葉に甘えようかな」
「ほんと?やった」
俺は密かにガッツポーズをした。
1人暮らしは何かと苦労も多いが、今は1人で良かったかもしれないと思う。
何はともあれ、これで夜まで一緒にいられる。
まだ、後数時間は。
「さて……僕は寝てた分取り返さないと…」
「俺もやるよ」
「きみは少し休憩してもいいんじゃないか?」
「いや、なんか今調子いいからこのまま頑張る」
勢いをつけてペンを握ると、ファウストが微笑ましそうに笑った。
そしてまた俺たちは机に向き合って教科書とノートを広げていく。
夜まではこの人と一緒だ。
本当は朝まで一緒にいたい。
明日も一緒にいたい。
でも、泊まって行ったら、とは訊けなかった。
ーーーーーーー
ファウストがうちに来た日から、数日が経った。
玄関の傘立てからは、黒い傘が一本減っている。
あの日は結局、夜まで雨が上がらず、濡れて帰ろうとするファウストに押し付けたのだ。
「すまない、次会う時に返す」
「そんな急がなくていいよ、また俺んち来る時に持ってきて」
「だが……」
「いいからいいから。約束な」
そうやって半ば無理矢理、傘を持たせて帰した。
幼なじみが置いてったやら、出先で振られて買ったやらで、うちの玄関先にある傘は一人暮らしにしては多かった。
一本あげたって構わないのだが、律儀なあの人のことだ。そう言えばきっと傘を持ってまた俺の家に来てくれると思って。
勝手でも、約束まで取り付けてしまえば受け取ってもらえるだろうと、ずるいことをした自覚もある。
そこまでしてでも、ファウストがうちに来る動機を作りたかった。
俺より1年早く学校を卒業してしまうファウストと、勉強だけじゃなくてもっと会うための口実が欲しかった。
なのに。
ーーーーーーー
「全然会えなくなっちまったな…」
ファウストとすれ違うことが増えてしまった。
そもそも受験生なのだから、忙しいに決まっている。
共通テストは年が明けてすぐだ。
その上ファウストは、進学に合わせて一人暮らしを始めるとも言っていたからその準備も大変だろう。
スマホのメッセージアプリで時折連絡は取っている。どうやら年末年始は、親御さんの実家に行くらしい。
年末年始もしばらくは会えないだろうな。
ファウストは忙しいながらも、俺を気にかけてくれていた。
勉強はどうだ、わからないことはないか、と。
俺は会って直接教えてもらいたい気持ちをこらえて、わからないところをどうにか文章と写真で伝えた。
ファウストは毎回丁寧に解説と、図解なんかを書き加えた写真に、頑張ってとスタンプを添えて返してくれた。
だから俺はめげずに勉強したし、わからないところは時間をかけても自分で調べるようにもなった。
そうやって細々と連絡を取り合っているうちに、結局ファウストと会えぬまま年を越したのだった。
ーーーーーーー
ファウストに会えない寂しさはあれど、正月は賑やかだった。
神様なんてまるで興味ないだろうに、祭りみたいな空気感と屋台の食い物目当ての幼馴染や、その舎弟みたいな連中と初詣には行った。
俺がスマホのトーク画面を見つめて、ため息をつくものだから有る事無い事言われたが。
「ネロさんどうしたんすかね。なんか調子悪いんすか?」
「どーせ、あれだ。愛しのファウストセンパイとやらにフラれたから傷心中なんだろ」
「うるせぇ!先輩とはそんなんじゃねぇよ!」
「そっか…フラれちまったんすねネロさん…」
「だからちげぇって!!てめぇふざけんなよブラッド!!」
「だはは!おっかねぇな!」
いくら怒鳴ってもブラッドは、まるで反省しないし、舎弟たちの何人かには同情しているような目を向けられている。冗談じゃない。
そもそもファウストはそういう相手じゃない。
一緒にいたいけど、恋とかそういうんじゃない。……はず、たぶん。
たとえこれが恋なんだとしても負け戦なのは目に見えている。あの人はきっと俺をそういう目で見ない。
そう思うと心臓が変な音を立てた気がした。
と、同時にスマホもころりんっと、木琴みたいな音を立てた。
画面に目を落とすと、ファウストからメッセージが届いていた。
「っ!??!?」
スマホを落としそうになりながら慌ててロックを解除すると、短いながらも新年の挨拶が送られてきていた。
ネロ、あけましておめでとう。今年もよろしくね。それから、干支の着ぐるみを着た猫のスタンプ。
わずかそれだけなのに、俺は舞い上がるほど嬉しくなって、にやける口元を抑えた。
「あの反応どうみたってそうだろ」
「そうっすね……」
「でもあいつ違うって言い張るんだよな」
「ネロさん、あんなに嬉しそうなのに……」
後ろから何か言われているが、俺は無視して同じようにメッセージを返した。同じスタンプ、それから今年も世話になります、と。
短いメッセージを送り返すだけでも、妙に緊張してしまう。
顔が熱いし心臓がうるさい。
たかがメッセージで何を浮かれているんだか、とも思うが嬉しくなってしまうものは仕方がない。
だが、同時に寂しさは助長された。
声を聞きたい、会いたい、顔が見たい。
でも、それを言い出せるほどの勇気はなかった。だって、ファウストにとって俺は、きっと時折面倒見ている後輩の1人に過ぎないだろうから。
俺がファウストの何になりたいのかは、よく分からない。
だが少なくとも今は、会いたい時に相手の迷惑なんて気にせずに、会いたいと言って会いに行っていい間柄ではないと思った。
メッセージを貰ったというのに、またため息をついた俺に、ついにブラッドリーが我慢ならなくなったのか遠慮なく背を叩かれた。
「いってぇな!なにすんだよ!」
「てめぇがいつまでもうじうじしてるから喝入れてやったんだよ!」
「はぁ!?別にうじうじしてねぇし!!」
「新年早々湿気たツラしやがって。会いたいけど、言えない〜って何純情ぶってんだ」
「なんでわか……いや、別に会いたいわけじゃねぇし……」
「どうだか、理由がねぇと会えねぇなら作れよ。俺ら、焼きそば買ってくるけどお前は?」
「作るって……。……いいかな、さっき食ったたこ焼きがわりと残ってる」
わいわいと騒ぎながら屋台の方へ向かっていったブラッドリー達を横目に、俺は適当に境内をうろついた。
すると参道の傍に、お守りや札が並んだ授与所が見えた。
その中の一つに、真ん中に学業成就の刺繍が入った赤いお守りがある。
頭をよぎったのは自分だって勉強大変だろうに、出来の悪い後輩の面倒を見てくれる、ファウストの事だった。
俺は赤いお守りをひとつ買うと、大事に鞄にしまった。
ファウストに渡したいから無くさないように、落とさないように。
ーーーーーー
だと言うのに。
初詣から数日経ち、三学期が始まった今でも、別の理由で鞄にしまわれていた。
渡したい、でも重くないだろうか、迷惑じゃないだろうか、これだけに時間を貰ってもいいのだろうか。
そんなことばかり考えて、渡せずじまいだったのだ。
ファウストからも連絡はくれていた。俺の勉強のこととか、分からないところがあるなら会って直接教えようかと提案までしてくれた。優しさに漬け込むようではあるけれど、勉強を口実に会いたい気持ちもあった。
だけど受験を目前に控えてるファウストに、俺のために時間を割かせてしまうことが申し訳なくて、結局遠慮してしまった。
そもそも、思いついたのが遅かったのだ。
もっと早く思いついていれば、渡せるチャンスも覚悟を決める時間もあったのに。
後悔しても時間は過ぎていく。
そうして、ついに受験の日になってしまった。
13日の土曜日。
その日がファウストの誕生日だったと思い出したのは、週が開けてからだった。
目前の受験だのなんだのに気を取られていてすっかり忘れていた。
昨年9月、頭にクラッカーの紙くずをつけていた俺を見て、俺の誕生日だと知ったファウストは帰りに普段はしない寄り道をして、喫茶店で奢ってくれたのに。
ファウストの誕生日だってその時聞いたのに。
ファウストは見返りなんて求めてないだろうし、祝われることを当たり前だとも思っていないだろうけれど。
すっかり忘れていた自分に腹が立つし、祝えなかったことが悔しくて悲しい。
勝手に後ろめたい気持ちにまでになって、より一層ファウストに会う勇気がなくなっていった。
共通テストが終わっても、受験は終わっていない。
その上、卒業を控えて元進学校の三年生代表になったファウストは忙しそうだった。
同学年の他の生徒も、後輩たちもみんなファウストを頼った。
学校で見かけるファウストは大抵誰かと話していて、そこに俺が入っていける余地はなかった。
眉間に皺を寄せて軽口をいなしている。怒っているような顔だけど、本気で怒っているわけじゃない。
俺がふざけた時にも同じ顔をしていた。
問題を抱えている後輩の話をひとつずつ聞いて、解決策を共に考えている見守るような優しい顔。
俺が教科書と睨めっこして、分からないことを一生懸命理解しようとしていた時と同じ顔だ。
ファウストのことをよく見ていたつもりだ、だから知ってる顔を他の誰かにも見せている。
分かってた、俺だけの先輩じゃないって。
ファウストにとって俺は勉強を見ている後輩の1人に過ぎなくて、こんな風に変な嫉妬心を抱く関係性なんかじゃない。
分かっていたのに、目の前に突き付けらた途端胸が苦しくなる。
俺は逃げ出すようにその場を後にした。
ーーーーーーーー
2月になって、ファウストは学校に来なくなった。
家庭学習期間に入ったのだ。
以前のように学校で姿を見ることもない。
寂しいけれど、胸が苦しくなることも無い。
この数週間は酷く凪いでいるけど、酷く空虚なものだった。
ファウストから依然メールは届いている。
当たり障りない内容だったが俺の事を気にかけてくれていた。
だと言うのに学校で見た光景がチラついて、短い文章かスタンプで返事をしてしまう。
その事がファウストを傷つけていないかは気になったが、どうにもできなかった。
ファウストのことは大好きなのに、ファウストのことを考えていると苦しくも、寂しくも、虚しくもなる。
一緒に過ごした暖かい時間の思い出が、今はもう失って二度と手に入らない宝石のようだった。
きっと忘れてしまえばいいだけなんだ。ファウストにとって、俺がたまたま勉強を見ていた後輩ってだけだったように、忘れてしまえばいつか、高校時代優しくしてくれたいい先輩って思い返せる時が来るんだ。
なのに鞄のそこに眠ったまま春を迎えるだろうお守りも、言えなかった誕生日おめでとうも、忘れてしまえばいいのに大切に抱えて手放せる気がしなかった。
それが何を示すのか、初詣の時は否定したがもう認めざるを得ないレベルまで来ている。
ファウストのことが好きだ。
先輩としてじゃなく、1人の人間として。
ファウストが卒業してしまえば、接点はどんどん消えていく。会える機会も連絡を取る頻度も下がっていく一方だろう。
もうこのまま消えてしまうのだろうか、そう思っていたある日のことだった。
いつも通り当たり障りなく一日を終えて、部屋でだらだらしているとスマートフォンの呼出音が鳴った。
待ち受けに表示されたファウストの名前に、俺は慌てて電話に出た。
「もしもし!」
『わ、びっくりした』
自分でも思っていた以上に大きい声が出て、電話の向こうでファウストが驚いていた。
「あ、わりぃ……」
『いや、大丈夫だ。遅くにすまないな』
「いや、それは全然……何かあった?」
『何かっていうほどでは……』
いつも物事をはきはき言うファウストの割には歯切れが悪い。
黙って待っていると、少しの沈黙の後ファウストが口を開いた。
『……第一志望、受かった』
「は!?全然何かって言うほどじゃん!!おめでとう!!」
『……ありがとう』
めちゃくちゃな日本語を並べて祝うと、ファウストが照れたように笑った気配がする。電話越しにでも分かるほど、本当に嬉しそうな声だった。
だがすぐに声のトーンが落ちてしまった。ぽつぽつといつかの雨音みたいに、ファウストは言葉を紡ぐ。
『……言われても困るかと思ったんだ』
「へ?」
『……1月末頃かな……学校で見かけた時、君はすぐ去っていってしまったから……避けられているのかと』
「え、いや、それは……」
俺が自分の胸の痛みに耐えきれずにとった行動を、ファウストはしっかり見ていたのだ。それできっと少なからず傷ついていた。恥ずかしいやら、申し訳ないやらで俺は言葉を失った。
『だから、報告したって困らせてしまうかと思ったんだが……どうしてもきみには伝えたくなってしまって』
「あ、や、その……」
『迷惑ならすまなかった』
「そ、そんなことねぇって!めちゃくちゃ嬉しいし!おめでとう!」
慌てて俺は言葉を返す。ファウストは安心したようなため息をもらすと、ありがとうと小さく囁いた。
『……この1年、一番近くにいたのはきっときみだから、きみにはちゃんと口で伝えたかったんだ』
「……そ、そう?」
『そうだよ、放課後は大抵きみと過ごしてたじゃないか。最近は会えていなかったけど……』
ファウストの言葉は予想外だった。
だが確かに思い返してみれば、年末に差し掛かるまでは予定さえ会えば放課後は勉強を見てもらっていた。
『勉強を教えて欲しいと会いに来る子はいても、きみみたいに放課後丸々使う子はいなかったよ』
「ご、ごめん……」
『いや、違うんだ。嫌だったわけじゃない。きみが頑張っているのを間近で見れるのは嬉しかったから』
ファウストの声は優しい。穏やかで、いつも俺を褒めてくれる時の声だ。
こんなの、自惚れてしまいそうになる。俺ってもしかしてファウストにとって、何人もいる後輩のうちの一人ってだけじゃないんじゃないかと。
これじゃ諦めよう忘れようと思った気持ちに、まだ縋っていたくなってしまう。
『……合格出来たら言おうと思っていたんだけど』
「ん…?」
『……引越し先、遊びに来ないか?』
「へ」
思わず俺は間抜けな声を出してしまった。だって聞き間違えでなければ凄く嬉しいお誘いを受けた気がする。
俺の反応に不安を感じたのか、ファウストは言い訳のように言葉を続けた。
『引越し先、本当は少し前から決まっていたんだが、第一志望に落ちたら選び直しになるから…そこに決まるまでは下手に誘うのはよそうと思っていて…でもちゃんと受かれたから』
「あ、あぁ」
『……僕は実家暮らしで、きみをうちに呼んだことがなかっただろう。だから……どうかと……』
尻すぼみになっていくファウストの声とは反対に、俺の心はどんどん舞い上がっていく。
『迷惑なら、無理にとは』
「行く!行きたい!!」
前のめりに返答してしまい、電話の向こうのファウストがまた驚いた気配がする。
あんなに叶わないと落ち込んでいた気持ちが嘘みたいに、今は胸が高鳴っていた。
『じゃあ、また後で春休みの空いてる日を教えて』
「うん、わかり次第連絡する」
それからもう2、3言葉を交わして電話を切った。
通話を終えた後も俺はスマートフォンに額を当て、嬉しさを噛み締めていた。
ここ数ヶ月ファウストとの関係に悩んでいたのに、たかだか電話一本で救われた気になってしまうのだから我ながら単純だとは思う。
けれど勉強でしか繋がれないと思っていた俺に、ファウストは口実もなくただ遊びに来ないかと家に招いてくれた。
それが、泣きそうなほど嬉しかった。
まだ、諦めなくていいかもしれない。
ファウストの家に行ったら、渡せなかったお守りを渡そう。受験には間に合わなかったけど、これから進学するのならきっと無駄にはならない。
それから遅くなってしまったけれど、誕生日もちゃんと祝おう。プレゼントは何がいいかな、合格祝いもしたい。
「春休み早くこねぇかな」
別れの季節のように思っていた春が、今は待ち遠しかった。
ーーーーーーー
窓の外に桜の枝が見える。まだ開いていない蕾が、いくつも連なっていた。
ファウストが越してきたばかりの部屋は、まだ少し生活感に乏しかった。
お茶にしようとやかんでお湯を沸かしながら、ファウストはお菓子を皿に出していた。
「マグカップ出してなかったな。すまない、客人はきみが最初なんだ」
俺が最初だって。この人はつくづく俺を喜ばせるのが上手い。そんなつもりは無いんだろうけど。
「うわっ」
小さい悲鳴が聞こえて、ファウストに目を向けるとやかんから出た湯気で眼鏡が真っ白に曇っていた。それを見た俺は思わず、吹き出した。
「ははっ、先生眼鏡真っ白」
「う、うるさいな」
恥ずかしいのか、ファウストの頬はほんの少し赤くなっていて急いで眼鏡を拭いている。
それがなんだか可愛くて俺の顔は緩むばかりだ。
結局俺は、ファウストへの恋心を諦めるのは先送りにした。というより諦められなかった。
もしかしたら望みがない恋なのかもしれないけれど、今はこの暖かくて柔らかい感情を大事にしていたい。
ファウストとの関係はきっとこれからも続くだろうから。
「ねぇ、きみの家にも行きたいな」
眼鏡を曇らせながら淹れたお茶を飲みながらファウストが言う。
「俺の家?」
「そう、まだ傘返せてないだろう」
「あぁ……いいよ、今日持って帰る」
繋がり欲しさに渡した傘が手元に戻ってくることは、まだほんの少し不安があったがここで持って帰らないのも不自然だろう。
俺は渋々、というのをなるべく顔に出さないよう告げたがそれは杞憂に終わった。
「ないと困る?」
「ん?いや、困りはしねぇよ」
「そう、よかった。なら、やっぱり僕が持っていくよ」
「いいけど……なんで?」
「そういう約束だろ」
「律儀だなぁ」
「そういうことにしておいて」
ファウストは眉を下げて笑っていた。
口ぶりからして単に約束を守りたいだけではないようだった。
俺からしてみれば、ファウストがまだ俺の傘を持っているというのは嬉しいので、深くは聞かず''そういうこと''にしておくことにした。
「あ、そうだ先生」
「なに?」
「渡したい物があんの。忘れる前に渡させて」
あんなに渡すことを躊躇っていたもの達を、今は迷うことなく鞄の中から取り出すことができた。
「遅くなっちまってごめん」
こんなにも時間が経って、今更になっても、笑って受け取ってくれる。
それが容易に想像できたから。
きっとまだ、しばらくはこの家の玄関に黒い傘がかかっているだろう。
わざわざ先延ばしにされた約束も、俺にとっては愛おしかった。