ヒトカゲのマスコットを買ってきた日の賀謝の話 その晩、賀予は謝清呈の教員寮に訪れていた。最近の謝清呈は若者にとても優しい。通い妻のごとく彼の家にやってきても謝清呈は決して少年を閉め出そうとはしなかった。
謝清呈が変わったのは、自分への『愛情』ではなく、孤独なドラゴンへの『同情』であることを賀予は理解していた。
でもそれがなんだっていうんだろう?
完全にいないものにされていたあの頃に比べれば、賀予にとって今の待遇は天国に近い。
最近は心なしか自分の好きなものばかりが食卓に並ぶ気がする。
就寝前、いつも通り読書をしながら彼がソファでくつろいでいる。
すぐ側のローテーブルで課題をしていた賀予は、あることを思い出してカバンを探った──昼間に買ったポケモンのブラインドボックスだ。
「あっ」
室内から興奮した少年の声が上がる。ちらりと謝清呈が賀予に視線を送った。
小さな箱から取り出されたのは、二足歩行で立つオレンジ色のドラゴンで、しっぽには小さな炎が灯っている。
謝清呈は小さい頃からゲームなどの娯楽をした経験がほとんどない。しかしこの生き物はどこかで見たような気がした。相当有名なのだろう。
「謝哥、今日書店に行った時にたまたま見つけて買ったんだ。僕の一番好きなポケモンだよ」
賀予は機嫌良さそうに、謝清呈の方にそのドラゴンを見せて、にこにこしている。特段興味はなかった謝清呈はとりあえず軽く頷いた。
「課題の後にしなさい」
賀予は分かったと言った。しかし全く分かっていなかった。読書がしたい謝清呈に、賀予はポケモンのヒトカゲについて熱心に語り始めたのだ。
「……」
熱く語る賀予はいつもよりずいぶん幼く見える。
謝清呈は早く会話を切り上げて読書がしたかった。しかし、最近の賀予は真心を込めて謝清呈に笑いかけてくれるのであまり傷つけたくない。彼の謝哥は少年の話を聞いてあげたくなったので、仕方なく耳を傾けた。
「ヒトカゲは進化するとリザードンになるんだ。一番かっこいい技はかえんほうしゃっていって、相手を一撃で倒せたりするんだよ!」
「そう……」
謝清呈に興味がないのは歴然だったが、少年は丁寧に自身のスマートフォンをタップして、リザードンの画像を見せてくれる。
逃げる理由を考えていると、賀予は手を伸ばし、今度は謝清呈の方にヒトカゲのマスコットを見せた。
「ねえ、謝哥。コイツを君の部屋に置いてもいい? 君が愛情を注いでくれたらある朝リザードンに進化してるかも。どうかな?」
若者は子犬が飼い主にねだる様に、きゅるんとした瞳で謝清呈を見つめる。意味不明な賀予の言い分に男は困って頭を傾けた。
「置物にどうやって愛情を注ぐ?」
少年は真剣に考えた後、良い案が浮かんだようでにっこり微笑んだ。
「毎日、朝と晩におはようとおやすみのキスをするとか」
「……」
謝清呈は言葉を失った。ふてぶてしい少年は上手に彼にウィンクをして、お手本だと言うように、片手に持った小さなドラゴンにキスをした。
聞いてるこっちが恥ずかしい。
謝清呈は、ため息を吐く。いい加減しろと、細長い人差し指と中指で賀予のおでこを軽く小突いた。
謝清呈は快諾しなかったが賀予も彼が受け入れるとは思っていない。ただ彼の兄と戯れたいだけなので、少年はずっと機嫌が良かった。
その晩も賀予は謝清呈の教員宅に泊まった。少年が泊まるのは今日が初めてではなく、ここ最近、謝清呈が忙しくない日を選んでは度々泊まっていく。
賀予はいつも通り彼の部屋から毛布を借りてソファで長い脚をはみ出している。寝転がりながら、毛布の……彼の謝哥のにおいを身体いっぱいに吸い込んだ──本当にいい匂いだ。
その時、寝室の方からこちらに向かう足音が聞こえ、暗くなった部屋がぱちんと明るくなった。
賀予は毛布から顔だけ出した。もちろんやってきた相手は謝清呈しかいない。謝清呈は寝る前なのでいつもの白シャツに黒のスラックス姿ではなく、白いバスローブに包まれていた。いつもは見ることが出来ない首筋や細い脚が露出されているだけで賀予には激薬だ。
若者は視線を逸らす。少年はもう彼を傷つけたくないので、自身をコントロールしなければならない。
「これは何」
謝清呈がずい、っと賀予の前に出したのは数時間前に少年が熱弁したマスコットだった。
謝清呈は自分の寝室にソレを置くことを許可しなかったが、賀予は彼がお風呂に入ってる間にこっそり彼のベッドボードにそマスコットを置いたのだ。すぐに見つかるのは分かっていたので、賀予は先生にいたずらが見つかった小学生のように笑う。
「バレた?」
「お前は……自分が欲しくて買ってきたんじゃないの?」
しばらく謝清呈から目を逸らしていた賀予が視線を彼の方に向ける。
「言ったでしょ? 気が変わったんだ。君の寝室に起きたくなったんだよ」
あっけらかんとした賀予に謝清呈はため息をつく。
「お前が寝泊まりするようになってからお前の私物がうちに確実に増えている」
賀予はいつか言われると分かっていたので、声に出して笑って、頷いた。
「でもそいつは炎ポケモンだからそばに置いておくと暖が取れるよ謝哥。君は寒がりでしょ?」
非化学的なことを喋る少年に謝清呈は目を細め、首を横に振る。
「偽物だ」
断固としており、普通の人なら威圧感すらある声音だった。しかし少年はもう気にしない。
賀予はソファから起き上がると立ち上がり、謝清呈の手を取った。その足は彼の兄を引っ張って、彼の寝室に向かう。自分の家のように慣れた手つきでドアノブを押し、謝清呈の自室に入り、ベッドに座らせた。男性二人の重みにマットレスがぐんと沈む。
「賀予?」
桃花眼が杏眼をじっと見つめる。ふたりの空気は前ほど張り詰めたものはなく、むしろ柔らかい。
熱い視線で少年はかつての謝先生を見つめた。あの頃、無情で血が通っていないと思っていたその人は自分に誰よりも愛情深かったことを今は知っている。賀予は謝清呈を見つめたまま、骨ばった男らしい手を、彼の手のひらにある小さなヒトカゲごと包む。そして、もう片方の手で彼の腰に触れ、自分の方に引き寄せた。熱い季節だというのに彼はひんやりとしている。
「謝清呈……そいつは偽物かもしれないけど、僕は本物だよ。………ほら、温かいでしょ? もしそいつが不満なら僕が君を温めてあげる……電気代はかからないし、年間無料だ。いいと思わない?」
そういって、賀予は強く強く彼を抱きしめた。彼の首筋に顔をうずめ、ちゅ、と透明の肌にキスを落とす。黙っていた謝清呈が微かに身体をふるわせた。
低体温の身体は若者の言葉と抱擁で徐々に熱くなる。賀予の強い鼓動が密着した肌から伝わって、伝染したように彼を震わせる。謝清呈の空いた片方の手がシーツの上を切なげに滑る。あの頃より随分大きくなった少年を抱き返したくなった。
しばらく彷徨い──しかし、ボロボロのクマは小さなドラゴンを抱き返すことはない。代わりに背中をポンポンと二回叩いた。子供をたしなめるように。
「……分かったから離れて」
「……」
賀予は彼に従わず抱きしめままでいた。……一分ほど。しかし分かっていたことだ。なので、非常にゆっくり、彼を解放した。
諦めてくれたことに謝清呈は安堵した。しばらく手の中にあるマスコットを見つめ、最終的にベッドボードにヒトカゲを置いた。
少年はぱちぱちと瞳を瞬かす。
「……置いてくれるの?」
「…………うん」
賀予はヒトカゲは押しつけて返されるものだと思っていた。しかし意外にも彼の分身は謝清呈に受け入れられた。火事の一件から謝清呈が甘やかしてくれることを賀予は知っていた。それが何を意味するのか。本当に同情しているだけなのか。聞きたかったが反面、聞くのがこわかった。でも……。
「謝清呈……僕……僕……」
「いいから早く寝ろ」
遮って、謝清呈は賀予に喋らせない。少年は一瞬固まると、唇をきゅっと噛み締める。しばらく俯き、ゆっくり頷いた。
賀予はこう思うことにした。時間はあるのだから焦ってはいけない。またチャンスが巡ってくるはずだ。
「うん」
賀予は従順に彼の謝哥に微笑むと、美しい人の頬に軽くキスを落とす。
「おやすみ、謝清呈」
「……おやすみ、賀予」