三度目までは待てないので 番外冒頭 僅かにエアコンが送風する音だけが響く夜のリビング。
ソロモンがこの部屋に引っ越すことになってから、たった二週間。慌ただしい引っ越し作業がようやく終わり、ソロモンはバラムから空き部屋を借りるという形で今日からここの正式な住人となった。
「はぁ……やっとだいたい片付いたな……」
そして、元々あった植物が減って見違えるように広くなったリビングをソファーから見渡していた。
なんでも、ここを植物の世話という条件付きでバラムに格安で貸してくれている家主が、人間が増えるなら植物が窮屈だろうという理由で部屋にある植物を人に譲り渡すことを許可したのだという。あと、その発言から人間よりも自然が好きなんだろうなと推し量れる家主から、バラムがここの様々な雑用を押し付けられていることを知った。部屋に居たかと思ったらふらっといなくなったりしていたのも、どうやら管理業務の一部を請け負っていたかららしい。その時間の多くは屋上の植物の水やりだったみたいだけれど。
部屋にあった観葉植物の多くは、あのパン屋が熱烈な客の要望に応えてイートインスペースを新たに設けるというので、そこに置くことになった。
バラムと共に運び込みを手伝ったら、お礼にいつもの食パンとクロワッサン、それに大きなバケットを貰ってしまった。あと、美味しいサンドイッチの作り方も教えてくれた。
残りの植物は主にソロモンの学校での知り合いに引き取ってもらった。この機に乗じてバラムがこっそり全部処分しないように目を光らせつつ、残ったのはリビングに自分たちと同じくらいの背丈のひょろっとした木を一本と、キッチンの窓際に小さなサボテンを一つだけ。
ソロモンも数か月共に過ごした植物たちに愛着はあったが、やっぱり一つ一つしっかり手塩にかけて育ててもらえるほうがいい。それに屋上の植物が管理対象として増えたので、ソロモンの仕事量は変わらなさそうだ。植物が減った分玉突きのようにバラムも管理の仕事を増やされたので不平不満を垂れていたが。そんなバラムが後ろからやってきて声をかけてきた。
「おい、結局オマエのベッドはいつ届くんだ」
「ええと、確か……三日後……」
「はぁ? 早く注文しとけっつったのにそれかよ」
「だって着日を指定すると最短でこの日なんだって言っただろ。それに明日は居ない予定だし」
「そういうのを加味しろっつーの」
やれやれ、とわざとらしく呟きながらバラムがリビングのカーテンの隙間を締める。さっきゴミを出しにいったら外の空気は少ししとついていたのに気付いた。明日は出かけるんだし、季節的に寒いのは仕方ないけどせめて晴れてほしいのに。行き先は郊外の大きなショッピングモールだから、だいたい屋根はあるものの行きと帰りに降られては困る。
「つぅかオマエ……まさか今夜ここで寝る気じゃないだろうな」
まさかのその気でソファーに持ってきていた毛布を、バラムが目敏く見つける。
「だってベッド無いんだしそうなるだろ」
「…………」
いかにも不服だという顔をしてから、バラムはソロモンの腕を自室へと引っ張っていく。もう何度目かの流れだ。
「ちょ、っと!毛布あるのに!」
「それだけだと防寒として足りねーだろ、それに出かける前日に風邪ひくかもしれねぇことわざわざさせるかよバーカ」
確かにそうなればバラムに迷惑をかけてしまうかもしれない、とソロモンが迷っているうちにベッドへと押し込められる。逃げようとしたところで、バラムが上から覆い被さってきた。すぐに横にどいてくれたけど、腕はずっしりとソロモンの肩にかかったままだ。
「あー疲れた……誰かが古い机なんて持ってくるっつーからさぁ」
「あれを運んでくれたのはありがたかったけど……っていうか今更だけど、オマエ車の免許とか持ってたんだな」
「そりゃこうしていつ使うかわからんからな、とれるようになったら試しって意味でもとっとくだろ」
この二週間目まぐるしく動き回っていたのはバラムも同じなので一応労いの言葉は入れつつ、素直に驚いたことを伝える。
引っ越しなんて生まれて初めてだったソロモンが、相談がてらに特別大きな家電や家具を持ってくる予定がないことを教えたら、バラムがレンタカーを借りてきたのだ。それでかなり費用も抑えられたので助かった。
そういえばここの冷蔵庫にはいつも缶ビールが買い置きしてあるし、棚には結構高そうな瓶の酒もあることをソロモンも知ってはいたが、バラムはソロモンの前では呑まなかったのであまり気にしたことがなかった。来月には同じ学校にも復学するというこの男が、自分とはいくらか年の離れた大人だっていうことを。学校はこの地域ではかなり大きく、多分バラムより年上でも生徒として来ている人も結構いるので、そういう意味では珍しくないのだけれど。
「たまには運転してる風だったけど、車でどこか行くのか?」
「今回みたいな雑用で物運ぶためってのが殆どだな。パン屋のカノジョだって当たり前のように植物運ぶの俺に頼んできたし。まぁそのうちちょっと足伸ばして旅行とかに行けたらいいよな。どこ行きたい?」
「どこ……って、うーん。俺あんまり遠出したことないんだよな」
「てことは、行ったことないとこだらけってことだろ。しょうがねぇなぁ、連れてってやるって」
しょうがなくはないだろと言いかけたが、視線の先で静かに笑うバラムの顔にソロモンは言葉を飲み込んだ。
彼が普段のなんてない会話の先々に時折見せるその表情に、自分はどうにも弱いと自覚したのはつい最近。
見計らっていたように、バラムの手がソロモンの頬に触れてくる。リビングが少し冷えていたので、風呂上りのバラムの手のほうが暖かい。
指先が耳元を辿って、髪の根本をほんの少し掻き分けてソロモンは反射的に目を閉じた。間もなく、唇に彼の体温が降りてくる。
「……ん……っ……」
何度も角度を変えながら、薄い唇の皮膚を撫でるように、掠めるようにキスをする。
ささやかな触れあいなのに、これが信じられないくらい気持ちいい。きゅうきゅう心臓が締め付けられて、眩暈がしそうなほど。
突然バラムがキスしてきた後に「嫌じゃないか」なんて聞かれて怒ったのが最初だったけれど、結局本気で拒むなんて選択肢が現れもしないまま、今だ。
「ん、っつ……ふ、ふっ」
こうしてベッドでキスをするのは、実を言うと少し怖い。身体が沈み込んで力が入らなくなる感じが、後戻りできなくなりそうで。
やがて熱い舌にねだられて唇が薄く開いて、繋がる。
不慣れですぐに呼吸を浅くするソロモンの様子は常に伺われているのか、苦しくなるよりは先に離してくれる。同時に、宥めるようにゆるく背に回っていたバラムのてのひらが少しずつ腰に落ちてくる。布越しの感触でも、それが堪らなかった。
「ふぅ、あ、あ……」
吐息が混じった声がどんどん甘くなる。自分の耳を塞ぎたい。けれどこのままより深く感じていたい。
ここから先に進んだことはまだないけど、それが今日じゃない可能性も無いんだ。
バラムが着ているスウェットの、襟のあたりを握った手に無意識に力が篭る。
すると軽く下唇を吸われ、湿った音に我に返ると額がくっつけられた。
「明日、早めに家出るんだろ?」
「え……あ、うん」
「朝飯、外で食おうぜ。行ってみたい店あるんだよ」
そう言いながらバラムは一旦起き上がり、枕元のリモコンから部屋の明かりを消した。ソロモンの横に寝転がり、携帯でタイマーをかけている。
それっぽい空気は無くなって惜しい気もするけれど、下半身が反応しかけてどうしたものかとも思っていたソロモンとしては助かった。二言、三言と会話をしているうちに身体も瞼も重くなってくる。元々引っ越し作業で疲れていた身体は睡眠を欲していたんだろう。
『この部屋に住めばいい』とバラムが言った日から、会うたびにこんな風な触れあいは続いていた。悪戯のように仕掛けられたりやや強引に奪われたり色々だけれど、流されるまま。
嫌どころか気持ちいいからって、毎回流されてしまう自分のほうが問題なんじゃないかとも思う。
どうやら遊ばれているんじゃない、と分かってからはもどかしくすら感じる。かといって自分からどうしたらいいのかも分からないままだ。すっかり甘やかされている。それも楽しげに。