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    リーマンパロrnis(現在投稿部分までのまとめ)
    元のTwitter投稿があまりに長くて追いかけにくくなってしまっているため、一旦まとめました。

    リーマンパロrnis(現在投稿部分までのまとめ)※平日Twitterにて投稿しているリーマンパロrnisの幻覚です
    ※このまとめは初回1/18から最新4/5までをまとめたものです
    ※まだ誤字などをちゃん見直していないので、色々間違ってるところがあると思います

    ※人物概要(物語開始時点)
    isg(25)
    itsrnさんのいる会社に転職してきた。総務課。
    電灯変えたり備品の管理をしたりしている。

    itsrnさん(24)
    営業部所属。

    -------------------------------------------

    「うちの会社、伝説の営業がいるんだよね」
     新卒で入社した会社が倒産し早々に職を離れることになってしまった潔は、苦労してホワイトな大きめの企業にて中途採用を勝ち取った。そして歓迎会にて突然先輩社員からそんな話を聞いたので、よくある社内の噂だと話半分に聞いていた。
    「入社一年目で過去最高の契約件数」
    「商談に漕ぎ着けて会いさえすれば契約確約男」
    「すごすぎて社内で禁止カードになり今は営業アシスタントとしてほぼずっと在宅勤務を許されてる」
    「今でも必勝カードとして温存されている」
     思っていたよりも遥かにすごそうな「伝説」を聞き驚いた潔は、それは一体いつの話なのかと尋ねた。そんな偉業が伝わっているのなら、今は高齢の老兵なのではと推測したのだ。
    「いや去年の話だよ。彼まだ入社2年目だし」
     それを聞いて潔は戦慄した。しかし驚いている潔をよそに、話を聞きつけた他の社員が次々と自分の知り得る「伝説」を話し始めた。
    「とにかく…顔がいいの」
    「本当に…顔が良い。スタイルも最高。背めっちゃ高くて!」
    「役員も自分の娘にってアプローチかけるレベル」
    「出勤すると女性社員が群がるから在宅勤務許可されてるっぽいんだよね。実際すごかった」
    「部長はガンガン彼を使いたかったみたいなんだけど、ちょっと…なんていうかお偉いさんの男性まで惚れられちゃってトラブルになりかけて…」
    「なんか辞めたがってるって噂もあるから、潔くんも会える内に会っといた方がいいよ!まぁほぼ出社しないし彼の出社スケジュールは秘匿されてるんだけど…」
     今までに聞いたことがないタイプの噂を浴びるように聞かされ、興味はあったが「まぁ自分には関係者ない人の話だな」というのが潔の率直な感想になった。本人からすれば冗談では済まないだろうし、外野…特に自分のような関係が薄い人間がとやかく言うことではない。そう思ってすぐ目の前の焼き鳥に目を向けた。


    (この人、多分伝説の人だ…)
     ある日の昼、代車と共にエレベーターに乗り込んだ潔は先に乗っていたある社員を見るなりすぐに目を逸らし手元の名簿を見ているふりをした。
     「整っている」の一言では到底片付けられない、理不尽なまでの美青年。顔は一瞬しか見えなかったが、その一瞬でも十分すぎるほどのインパクトが残ってしまっている。その顔をもう一度見てみたいと迷惑にも頭に過ぎってしまうほどの破壊力。その上175cmある潔より更に高い身長と、スーツに負けない体つき。長過ぎる足。なるほど「伝説」にもなるはずだと関心していると目的の階に着いてしまった。
    「ありがとうございます…」
     扉を開けてくれている「伝説」に礼を言って台車と共にエレベーターを降りると、やはり彼もエレベーターを後にした。階数が同じだとは乗り込んだ時に察していたが、なんだか妙に緊張してしまう。まぁ流石にここからは分かれるだろうと台車を押していると、なぜか後ろから彼が着いてきている気配がした。
    (そうか、ここ営業の…!偶然出社日と被ったんだ…)
     秘匿されているという彼の出社日と、潔が雑用で届いた備品を営業部に届けるタイミングが重なってしまった。仕方がないのでそのまま台車を押していると、彼が営業部の扉を先に開けてくれた。
    「すいません、ありがとうございます」
     顔を上げると、伝説級の顔面をしっかり目撃してしまい、潔はうっかりうめき声を漏らすところだった。
    (さすが伝説…出社日を秘匿されるだけのことはある…!)
     こんな顔面・スタイルの持ち主が社内にいたら、あの手この手で彼に近づきたいと目論む人々がいても仕方ないと思った。同性の潔でさえそう思うのだから、女性陣からしたらひとたまりもないだろう。様々な意味で、彼には太刀打ちできそうにない。
     営業部の扉を抜けフロアにたどり着いたところで、一気に視線が集まった。何事かと思ったが、背後に「伝説」がいるからだと思い至った。
    「久しぶり〜!在宅勤務どう?」
    「何か困ってることない?言ってくれれば全然助けるし!」
    「そろそろ飲み会どう?経理の人達が呼んでくれってうるさくて!もちろん奢るし!」
     社員一人が出勤しただけなのにこの有様。潔は即座に台車を滑らせ、群がる人々を避けて備品の手渡しを始めた。
    「お疲れ様です。総務の潔です。ア○クルから届いた荷物をお持ちしました」
    「あーありがと!あれ、君初めて見る人だね。新人さん?」
    「はい。中途で入社した潔です」
    「潔君ね!ありがとう確かに受け取りました!」
     そんなやり取りを何度か繰り返し、台車は軽くなっていった。そして最後の荷物を手に取って名簿を見ると、そこには「糸師」と書かれていた。しかし総務で作成された席表には名前がなく、もしや退職者だったりするのだろうかと不安になった。
    「あのすいません、糸師さんの席を探してるんですが…」
     近くにいた女性社員に声をかけると、ぱっと表情を明るくして彼女は立ち上がった。
    「糸師くん!荷物届いてるみたいだよ!」
     わざわざ本人を呼ばなくても…そう思って女性が手を振った方向を目で追うと、そこには「伝説」の彼がいた。
    「お話し中すいません。注文してた文房具が届いてますので…」
     潔が持って来た荷物の中から文房具を取り出していると、糸師というらしい伝説の彼は潔の方へと歩いて来た。
    (ていうかなんでこんな文房具…?新入社員でもないのに…他の人の分もまとめてるのかな?)
     ボールペンや修正テープなど、基本的な文房具を数人分注文しているようだったが、聞けば彼はまだ入社2年目だというから文房具など必要ないように見えた。しかし潔は総務課に備品を頼む練習がてら文房具を注文したのだと解釈し、向かってきた彼に文房具を差し出した。
    「あっ!?そのネクタイ、もしかしてレ・アールの…!?」
     彼のネクタイが海外サッカークラブのグッズに見えた潔は思わず前のめりになったが、すぐに「違う」と返され猛烈に恥ずかしくなった。
    「ご、ごめんなさい俺勘違いして…!」
     サッカー好きが悪さをして、つい何も知らない人にわからない話をしてしまった。羞恥に耐えられそうになかった潔は、彼に文房具を手渡して早く退散しようとした。
    「レ・アールのは黄色のライン入ってる」
     彼から発せられたその言葉に潔は思わず顔を上げたが、彼はすぐに自分の席へと戻っていった。
    (よかった、サッカー知ってる人だった…!)
     国内リーグならともかく、海外リーグまで見ているようなファンは潔の周りでは稀だったため、彼がレ・アールを知っているというだけで親近感が湧いた。
    (え、レ・アールのグッズまで把握してるってことは相当のレ・アールファン?それかスペインリーグファン…?どっちだ?ブンデスリーガは興味ないとか…?)
     一見するとレ・アールのグッズとは気づきにくいネクタイに対して反応できたということは、レ・アールにはかなり詳しいはず。潔は今度話すことがあったら贔屓のチームを聞いてみようと思いながら、そのフロアを後にした。

    「戻りました〜」
     備品を届け終えた潔は自分のフロアへと戻った。
    「お疲れ様!一人で大丈夫だった?」
    「席表あったので何とかなりました。そうそう、俺も見ましたよ伝説の人。確かにすごいですね!オーラがもう違うっていうか」
     台車を所定の位置に戻しながら言うと、周囲にいた人々が一斉に潔の方を向いた。
    「はっ!?ほんとに!?」
    「エレベーターで偶然一緒になって…多分まだ営業のフロアにいると思いますけど」
    「ッシャ!ちょっと拝んで来る!!」
    「“浴び”るわよ“美貌”をっ!!」
    「目の保養!目の保養!!」
     目の色を変えた総務課の女性陣が、小走りでフロアを去ってしまい潔はその場に立ち尽くした。
    「みんなほどほどにね〜!」
     温和な先輩が女性陣達の背中に呼びかけたが、もう扉は閉まっていた。
    「す、すごい人気ですね」
    「芸能人が社内にいる感覚かな?いつ出社するかわからないから、レアなんだよねぇ。聞くところによると、課内のチャットツールさえ彼にはDMが禁止されてるらしいし」
    「ええ!?」
    「入社当初に山程DMが届いて仕事にならなかったらしいって話は有名だよ。彼にメンションつける時は必ず全体チャンネルでってルールがあるみたい。あとメールも」
    「メールも!?」
    「彼にメールする時は、必ず課長以上の人をCC入れろってルールがあるんだよ。これは全社共通で」
    「会社全体でそんな抜け駆け禁止みたいなルールが…!?」
     桁違いの待遇に、最早何と反応していいのかわからない。しかしそうなってしまうくらい彼に人々が群がったのだろうという苦労は伺えた。潔にそんな苦労は同情できなかったが、大変なのだろうなとは思った。


     伝説の彼、もとい糸師の話題はそれからも課内で時折話されたが、本人を見ることはほとんどなかったため潔もそれから会うことなく数ヶ月を過ごしていた。
     ある日潔は昼休みに社外に出て近場の飲食店で食事をしていた。外の席が空いていたので食事をしつつノエル・ノアの試合を見返していると、ふと自分の横が暗くなった。
    「でんっ…じゃなくて…い、糸師、さん…!?」
     見上げればそこには会社を上げて保護するレベルの美形がトレイを持ったまま立っており、携帯の画面をじっと見つめていた。
    「ファンなのか。ノエル・ノア」
     糸師は許可もなく潔の向かいへ座り、食事を始めた。他にも席は空いていたのでなぜ自分の向かいに座ったのか潔にはわからなかったが、これはサッカーの話をするチャンスだと思った。
    「子供の頃からファンで…。糸師さんは、サッカー詳しい感じですか?」
    「まぁ多少は。ファンってほどの選手はいねーけど、スペインリーグは一通り見てる」
    「へー!」
     世界トップのサッカー強豪国のスペインとなれば、かなり通なサッカーファンなのかもしれない。態度は大きいが、それだけの結果を出しているようなので言葉遣いを指摘しようとも思わなかった。
     食事をしているだけなのに、それすらも美しく写って潔は少し落ち着かない気持ちになった。その間にも周辺の客は彼を視界に捉え、ある人は驚きある人は感嘆の声を漏らした。いつ「写真撮ってください!」と声をかけられるかと思いながらも、潔は先に食事を終え退席しようとした。
    「おい」
    「はい!?」
     何かやらかしただろうかと考えていると、糸師は潔と視線を合わせ、「名前は」と聞いてきた。
    「あ、俺?潔っていいます。総務課の…」
    「そうか」
     糸師はそれだけ言って食事を再開したので、潔は「お先に〜…」と控えめに声をかけて退散した。


     1年の終わりも近づいてきた12月、潔は忘年会を知らせるメールを確認していた。
    (へー、近くのホテルのホール借りて立食かぁ…いいな行こうかな)
     先輩の話によれば、会社のお偉いさん同士が仲が良く、昔から忘年会は同じ場所で行われているらしい。特に予定もなかったので、潔は参加する旨を返信しようとしたが本文の最後に添えられた文章に目を留めた。
    「特定の社員の参加・不参加の情報にはお答えできませんので問い合わせは御遠慮ください」
     潔は「わぁ…」と口から出そうになるのを抑えて返信を済ませた。
    「潔くん忘年会どうする?迷ってるなら行った方がいいよ〜!ご飯めっちゃ美味しいから!」
    「はい。参加で考えてます。やっぱ参加率高いんですか?」
    「そうだね結構高いね。大人数が嫌な人は課内の忘年会だけして終わりかもだけど、ご飯が美味しいからね〜!まぁ別のことに期待してる人もいるだろうけど」
    「それってもしかして、糸師さん…?」
    「もちろん社内で交流して良い人いないかな〜って考えてる人もいるだろうけど、まぁほとんどは彼目当てだろうね。去年不参加だったみたいだから、今年こそはって思ってるのかも」
    「去年来なかったなら今年も来ないんじゃ…?」
    「期待しちゃうんだろうね…忘年会のノリと勢いで隠し撮りする人絶対いるだろうなー…無許可でSNSに上げて問題になったら、社内全体で撮影禁止令が出るかも…」
     潔は話を聞きながら普通の生活を送ることさえ難しいであろうか彼のことを思い出していた。あれから会ってはいないが、いつでも脳裏に思い浮かべられるくらいには記憶に残っている。
    (なんか…見覚えある気がするんだよな…いやでもあんな顔見たら絶対忘れないと思うんだけど…いつ見たんだろ…?)
     記憶の奥底に、ぼんやりと、うっすらと彼に似ている人物が浮かぶのだが不鮮明で全くわからない。既視感を覚えているだけなのか、本当に彼と似ている、もしくは本人を見たことがあるのか。潔自身にもわからなかった。

    (いやいや待って、何で!?)
     会社全体の忘年会は予定通り開催され、潔は会場の隅で食事を楽しんでいた。同じ課の人や近くの人と談笑をし、飲酒をして気持ち良く酔っていたの。しかし途中ホールの扉が開いたかと思ったら入って来たのは糸師だった。潔より先に彼の登場に気づいた人々がざわつき始め、やっぱり忘年会の出席も秘匿されるのかと思っていたところにずんずんと彼が潔の元へとやって来たのだ。
    「エッ!?い、糸師さん…お疲れ様です…」
     なぜ営業のグループに寄らずこんな端にと内心慌てている間にも彼に視線は集まっていく。糸師は適当に食事を取り分けると、ふと潔の方を見て軽く指を指した。
    「ネクタイ。ブンデスリーガの」
    「あ、気づいてくれましたか!?誰も気づいてくれなくて…サッカー好きな人全然いないと思ってたんですよ!」
     普段あまり派手なネクタイはしないのだが、今日は忘年会ということで特別にブンデスリーガの公式グッズであるネクタイを選んでいた。しかし周囲の人々には「派手なネクタイだね!」くらいしか声をかけられなかったので、やっとわかってくれる人が現れたと潔は喜んだ。
    「よく見ればネクタイピンもか」
    「えへへ…」
     ノエル・ノアの所属するクラブのロゴマークが付いたネクタイピンも、せっかくだからと開封したものだった。気づいてもらえて嬉しくなった潔は、ぽつぽつと最近見た海外リーグについて話したのだが、彼は全ての話にしっかりついて来た。
    (え、やばいなんかいつの間にかすごい見られてる…女性陣の視線が痛い…誰か飛びかかってくるかも…!まだ死にたくない…!)
     その場をしのぐかのように酒を飲み、何度か営業部の方に行かなくてもいいのか、上司への挨拶は済ませたのかと聞いてみたのだが「必要ない」の一点張りで潔はますます困った。途中何人もの女性が我慢できなかったのか二人に近づこうとしたが、糸師が睨んだせいで誰も接近できなくなってしまった。
    (もうこうなったら楽しく飲むだけ飲んで帰ろう!)
     潔は遠巻きにこちらを凝視している数多の視線に怯えるのを止め、ひたすら糸師にサッカーの話題を振りながら酒を勧めた。潔が注いだ酒は全て飲み干しているはずなのに、彼の顔色は一向に変わらず水でも飲んでいるかのようだった。
     自分が酷く酔っているとわかっていながら、その場を乗り切るためには酔う以外に方法がわからずつい無茶な飲み方をしてしまった。

     そして気づけば、潔は見覚えのないベッドの上で目を覚ました。

    「えっ!?」
     驚いたのは、自分に眠った記憶が全くなかったからだった。忘年会にいたことだけは確かなのだが、解散や帰宅の記憶がない。
    (自分の部屋じゃない!!)
     知らない間に知らない部屋で寝ていた。それだけで十分恐怖し危機感を覚えるべき状況であるというのに、二日酔いのせいで頭が痛み思考に集中できない。
    (帰れなかった…ってことだよな!?ホテルって感じじゃないし、人の部屋…?)
     潔のいる部屋はとても清潔で片付いた部屋ではあったが、生活感があったため誰かの家と考えるのが妥当と判断した。しかし一体誰の部屋なのか検討もつかず、もしや知らない間に上司や先輩に取り返しのつかない粗相をしたのではとベッドの上で青ざめた。ここがどこか、そして誰か介抱してくれたのかを確かめる必要があるが、真実を知るのが怖すぎるあまり動けずにいた。
    (誰か来る…!)
     足音が近づき、部屋の扉が開いた。即座に可能な限り頭を下げなければと飛び起きる寸前だった潔だが、部屋に入ってきたのが糸師であったため固まってしまった。
    「起きたか」
    「い!?なんっ!?えっ!?」
     驚きすぎて言うべき感謝の言葉も出てこなかった。
    「忘年会でお前が潰れたから連れ帰った」
    「どこにっ!?」
    「おれの家に決まってるだろ」
     感謝をすべきなのに、迷惑をかけたことをまず詫びるべきなのに、潔の口から出てきた言葉はそのどちらでもなかった。
    「そんな機密情報を俺に教えないでくれ…!!」


    「この度は大変ご迷惑をおかけしました…」
     取り乱しはしたが、その後潔はリビングにてきっちり糸師に頭を下げた。忘年会が金曜日で、糸師の家が職場に近かったらしいのが不幸中の幸いではあったが、多大な迷惑をかけたことは弁明のしようもない。
    「ほんとに何てお礼言えば…すいません本当に…」
     酔って自力で帰れなくなった自分を連れ帰るなど、相当大変だったはずだ。どこかに吐いてしまったかもしれないし、失礼な言動をしたかもしれない。同じ会社の人間に住所が知られるなどという彼にとって看過できないはずのリスクを冒してまで連れ帰りベッドに寝かせるところまで世話をしてくれたのだと潔は申し訳なさに顔を上げられなかった。
    「いや、俺も途中で止めるべきだった」
    「いえ!俺が100%悪いんです!本当にすいません…!!この御恩は必ず…!!」
     一体どうすればこの恩が返せるのか検討もつかなかったが、とにかく糸師には感謝していた。道端に放置されても仕方のない状況だったというのに、対して仲良くもなく同じ会社の人間というだけで連れ帰ってくれたのだ。
    「敬語いらねぇ」
    「え?」
    「総務の奴が言ってた。お前俺の1つ上だろ」
    「はぁ…でも部署も違いますし、俺は途中入社で実績とかもないですし…」
    「いいから」
     糸師に対してNOと言えるはずもない立場の潔は、少しだけ迷って「わかった…」と了承した。
     その後潔は自分の荷物を受け取り、凛に頭を下げてから家をあとにした。
    (あー、糸師さんの家上がっちゃった…こんな重要機密抱えてるの怖すぎる…!)
     糸師の親切には感謝していた潔だったが、相手が「あの」糸師であったために感謝よりも自分が今後彼のプライベートを漏らさずにいられるかというプレッシャーの方が強かった。
    (あの場にいた人達も俺が糸師さんに介抱されてんの見てる…よな多分…尋問される未来が…)
     げんなりしながら教えてもらった最寄り駅への道のりを歩き、電車の時間を確認しようとして携帯を見た途端潔は凍りついた。
    〈ネクタイピン落ちてたぞ〉
     チャットアプリにメッセージが表示されている。差出人は「糸師」。見覚えのある、恐らく社内で潔だけが持っているノエル・ノア所属チームのロゴが刻印されたネクタイピンの画像。しかし潔には連絡先を交換した記憶などない。
    「俺に…!こんな機密情報を与えないでくれ…!!」
     思わず膝から崩れ落ちそうになりながら、潔は深刻なダメージを受けつつ帰路に就いた。

    「質問がありまーす」
     週明け出勤した潔は、席に着くなり数人の先輩に囲まれ恐怖しながら目線を上げた。
    「潔くんいつの間に彼と仲良くなってたの!?」
    「潰れた潔くんが糸師君に連れて行かれたのって私の夢!?」
    「家行ったんでしょ!?どうだった!?」
     次々と質問され「いや、それは…!」とどう情報を秘匿したまま先輩達の要求に答えるか必死に頭を動かしていた。
    「その、糸師さんにはお世話になりましたけどすぐ帰りましたし…!情報漏洩怖いので迂闊なことは俺から言えないと言いますか…!!」
     うっかり彼の自宅周辺情報でも漏らそうものなら、彼に多大な迷惑をかけて恩を仇で返すことになってしまう。それだけは避けなければと言い淀んでいると、フロアの入口の辺りで「きゃあっ!?」という声が聞こえフロアの視線が集まった。
    (わぁあああ!!なんで今来ちゃったの!?)
     女性より頭1つどころか2つか3つは背の高い、壁のようながっしりといた体格の上に顔までいい伝説の男。その場にいるだけで女性社員に悲鳴を上げさせてしまうレベルの存在がそこにいた。
    「い、糸師さん…!」
     糸師は潔に気づくと無表情、無言のまま近づいてきた。一歩が大きい上に優れた体格のせいで歩いているだけでも迫力が出てしまっている。
    「部屋に落としてたやつ持って来た」
     糸師がそう言って握った拳を潔の方に向けたので、潔は慌てて糸師の拳の下に自分の手を差し出した。
    「わざわざすいません…ありがとうございました」
     出勤した時に渡すとは聞いていたが、それが週明けとは聞いていなかったので潔は驚いた。しかしもう用は済んだだろうと思っていると、糸師が不機嫌そうに顔を歪めた。
    「こ、このお礼は必ずするので…!」
     自分の謝意が足りずに不機嫌にさせてしまったと思った潔がそう言うと、糸師は「いらねぇ」と口にした。
    「敬語、やめろって言ったろ」
    「でも職場ですから…!」
     これ以上会話を聞かれたらまた面倒なことになる。申し訳ないが一刻も早く糸師に退室して欲しい潔は、糸師に屈むようジェスチャーした。
    「今日夜空いてたらご飯行こ。この間のお礼に奢るから!」
     潔がそう耳打ちすると、糸師は少し目を見開いた後潔の目を正面から捉えて静かに頷いた。
    「後でまた連絡するから」
     小声で付け足すと、糸師は姿勢を正しフロアを去っていった。その後予想通り先輩達から糸師との仲を聞かれたものの、「恩があるので…ちょっと…」などと言って誤魔化した。
     昼休みの間に手頃な飲食店を調べ、夕方には定時で上がれそうな旨と検討中の店を挙げて了承を得た。
    (大丈夫かな…返事が全部「わかった」だけなんだけど…まぁ同じ会社の知らない人間と付き合うのダルいだろうし、今日ちゃんと謝ってもうこれっきりですってちゃんと言おう)
     潔には糸師の平穏を乱すつもりはなく、当然利用しようとも思っていない。何かと秘匿され保護が必要なレベルの糸師に不安の種を植え付けたくはなかった。
    (今日は飲まずに謝罪!)
     退勤後に会社出口で待ち合わせという約束をしたので、糸師を待たせずに済むように潔はその後もせっせと自分の仕事をこなしていった。

    「お先に失礼しまーす」
     無事定時で仕事を終えた潔は、急いで帰り支度を済ませてフロアから退室した。するとフロアを出てすぐのところに糸師が待機していたので、思わず声が出そうになった。
    「出口で待っててってここじゃなくて1階のことで…!」
    「んなことわかってる。1階の方が人が多いからこっちに来ただけだ」
    「そ、それもそうですね…じゃあ行きましょうか…」
     潔はなるべく早足で、糸師と近づきすぎないようエレベーターホールへと歩いた。糸師はすぐ後ろをついてきており、同じように退勤している人々と一緒になり糸師に注目が集まったものの特に捕まることもなくビルから出ることができた。
    (はーよかった。誰かに捕まるかと思った)
     職場の人々があまり行かないエリアの店をあえて選んだ潔は、店内に通されるなり荷物を置いて一息ついた。
    「俺も初めて来る店だからどんなとこかわかんないけど、今日はこの間のお礼だから気にせず注文して」
     潔はメニュー表を糸師に差し出し、その間にまず何を話すべきかと考えた。
    (まずは謝罪だよな…あと今後はもう関わりませんってちゃんと言って安心させて…)
     飲み会の翌朝は気が動転していたことと、一刻も早く糸師の居住空間から離れたかったため逃げるような慌ただしさだった。家に帰ってから自分がかけた迷惑を振り返り、罪悪感でもやもやしていたため自分の感情を精算するためにもここできっちりしておかなくてはと潔はメニュー表を見ている糸師をじっと眺めた。
    (やっぱすっげぇかっこいいよな…なんか店中の人がチラチラ見てるし…スーツじゃなかったら芸能人だと思われてただろうな)
     糸師が視線を上げたので、正面から目が合った。それだけで大抵の人間なら落ちてしまいそうだと感想を抱くくらいの破壊力だった。完璧なパーツが完璧な位置に収まっているだけでなく、色までも美しい。カラーコンタクトだと言ってくれた方がまだ安心できるというのに、糸師は裸眼だった。
    「!」
    「お前はどうすんだ」
    「あ、えーと、糸師はどれにすんの?」
    「これと、これ」
    「じゃあ俺これ頼もうかな。2人で食えるし」
    「ん」
     潔が店員を呼ぶと、女性スタッフがほぼ全速力でやってきた。やりすぎなほど丁寧に注文を聞いたスタッフは、明らかに糸師を意識していた。
    「糸師、改めてこの間はありがとう。めちゃくちゃ迷惑かけたし、大変だったよな。もう今後は糸師に関わらないし、迷惑もかけないから心配しないでくれ」
     潔は誠意を込めてそう言ったのだが、糸師は思い切り顔をしかめた。
    「んな話どうでもいいんだよ。俺が迷惑だと思ったら自分から言う。お前が勝手に決めていらねぇ配慮するのはムカつくだけだ」
    「い、いやでも…俺といたら俺から情報漏れるかもじゃん!そんなリスク高いこと…俺の方が怖いんだよ」
     他の社員に詰められたり、うっかり無意識に糸師の情報を漏らしてしまったら。そう考えるだけで怖かった。
    「別に連絡先でも住所でも、何を話したって構わねぇ。相手が同じ会社の人間である限り、守るべき節度と立場があるだろ。そこを越えたら遠慮なく上なり警察なりに報告すれば済む話だ。お前が一人でビビる必要はどこにもねぇ」
    「えぇ…?」
     想定外の返事に潔の方が驚いてしまった。糸師と会話をする仲であることさえ隠しておくべきだと思っていた潔にとっては衝撃の回答だった。
    「その辺のモブならともかく、お前とつるむことを誰かに邪魔させるわけねぇだろ」
    「んん…?」
     潔には糸師が何を考えているのかを正確に理解できたとは思えなかったが、少し自惚れていいのであればそこそこ糸師に認められているのかもしれないという考えに至った。
    「それよりこの間の試合の方が大事だろ。ノエル・ノア」
    「そう!ノア様悪質なファウル受けて!!もう信じらんねぇ相手イエローだぜ!?あんなの一発レッドだろ!ノア様途中交代になったのに!」
     サッカーの、それもノエル・ノアの話を持ち出され、そこからはサッカー談義に花が咲いた。糸師はサッカー経験がないとのことだったが、本当だろうかと疑いたくなるほどのサッカー通だった。一般的な戦術だけでなく、選手の得手不得手を加味した上での采配評価など、ただのサッカー好きとは思えない解像度で潔も話していて楽しかった。普段潔が出会う「自称サッカー通」は国内のリーグを多少見ている程度で、代表戦の度に的外れな評価をして周りに詳しいとアピールしているだけの人が多かった。
    「サッカーの話こんなにできて嬉しいよ!話せる人ほんといなかったから…」
     潔は糸師との談笑を楽しみ、そしてふとその顔を見て既視感が過ぎった。
    「あのさ…気のせいだと思うんだけど、糸師の顔…なんか見たことある気がするんだよな…でも全然思い出せなくてさ。この顔見たら絶対忘れないと思うんだけど…どっかで会ったことある…?それかテレビに出てたとか…」
     腕組をして唸りながら記憶を辿っても、全く思い出せない。どうにか思い出せないかと考えていると、糸師が自分の携帯を潔に差し出した。
    「お前が見たのはこっちだろうな」
     小豆色の髪を上げ、印象的なグリーンの目をした男性がそこにいた。画面に映る人物の、特に目元は目の前にいる黒髪の青年と瓜二つだった。
    「あ!?」
    「俺の兄貴だ。レ・アールでMFやってる。日本じゃあまり取り上げられねぇからな」
     ようやく既視感の正体を掴んだ潔は、「そうだこの人!」と声を上げた。
    「え、すご!?よりによってレ・アール!?わースペインリーグ見とけばよかった…」
     潔が残念がっていると、糸師は携帯を引っ込め潔を伺うように見た。
    「…次の日曜日、兄貴が出るだろうって試合がある」
    「え、ほんと!?見たい見たい!あ、待って俺の契約してるとこで見れるかな…なかった気がする…」
    「スペインリーグは日本だと配信してるとこ少ねぇし、時差もある」
    「そう、毎回海外リーグ見ると次の日に響く…」
    「俺の家で見ればいい。会社近いから出勤も楽だろ」
    「え、泊まっていいってこと!?」
     ついさっきまで糸師と関わるのは止めようと思っていたというのに、本人が意外なほど友好的だったため、つい潔は再度糸師の家を訪れる約束をしてしまった。
    「あの、ほんと迷惑だったらハッキリ言ってくれていいからな?社交辞令真に受けちゃうから…」
    「社交辞令で泊めるなんて言うわけねぇだろ。それよりちゃんと予定空けとけよ」
    「もちろん!わーめっちゃ楽しみ!」
     その後も楽しくサッカーの話をした潔は、食事だけしてすぐ帰るつもりがついつい話し込んでしまい食事の後にファストフード店で会話を延長してから解散になった。
    「なんかごめん、遅くまで付き合わせて」
    「付き合わされたわけじゃねぇ。…またな」
    「うん、また!」
     潔は駅で手を降って糸師と別れ、楽しい気分のまま帰宅した。帰宅しながらもチャットで日曜日の予定を相談し、潔は久しぶりに心が弾んでいた。学生のようで気恥ずかしくもあったが、サッカーの話題は他の何よりも潔の気分を高揚させた。

     そして日曜日、潔は昼過ぎに泊まりの荷物と翌日の出勤に備えてスーツも持って糸師の家に到着した。
    「来たか」
    「お邪魔しまーす!あ、これ手土産。何がいいのかわからなくて俺の好きなやつにしちゃったけど」
     潔は持参した和菓子を糸師に手渡し、ゲストルームを案内され荷物を置かせてもらった。
    「ていうかゲストルームあるのすごくない?」
    「すごくねぇ。兄貴が帰国した時泊まるからってだけだ」
    「ああなるほど」
     スペインリーグで活躍中という糸師の兄、糸師冴。ブンデスリーガばかり追いかけていたことと日本では海外リーグに関する話題が出にくいこと、更には糸師冴が代表戦に全く興味を示さないことが重なり失念していた。しかし日本で話題になりにくいだけで、その活躍がワールドクラスであることは間違いない。なにせスペインは世界的なサッカー強豪国で、日本人がスペインリーグで活躍するというのはこれまでになかなか例のないことだった。
    「昼過ぎ集合早かったかな?夕飯とかどうする?外出る?」
    「適当に宅配頼めばいいだろ」
    「じゃあピザは?久しぶりに食いたいんだけどいい!?」
    「好きにしろ」
     糸師の言葉に甘え、潔は宅配ピザのメニューページを見て早くもどれにしようか考えていた。
     それから糸師に部屋の中を軽く案内され、自由に使っていいと説明を受けた。クールなイメージのあった糸師だが、潔が先輩だからかかなりの自由を許され潔は意外に思っていた。
    「糸師、もっとクールでキツい性格かと思ってた。めっちゃ寛大だし俺の誤解だったよごめんな。俺になんかされて嫌だと思ったらすぐに言ってくれよ?」
    「わかったから買い出し行くぞ」
     糸師は潔の言葉を適当に流し、二人は最高のサッカー観戦をするために買い出しに出かけることにした。近くのスーパーで飲み物やつまみ、菓子類、用意し忘れていた歯ブラシなど、必要なものを買い揃えていった。
    「なんか学生時代に戻ったみたいで楽しい。ありがとな糸師、誘ってくれて」
    「…まだ観戦前だろ」
     学生時代、サッカーサークルに所属はしていたものの友人達と集まってサッカー観戦をすることは少なかった。サッカーが好きでサークルに入っているというよりは、サッカーを女の子とお近づきになる理由にしているだけ…そんな生徒が大半だった。なので同じような目線でサッカーを語れる糸師は、潔にとって貴重な存在だった。
     買い出しを終えて糸師の部屋に戻ってきた二人は、観戦に向けて万全の体制を整えるべく準備を始めた。
    「え冷蔵庫ほぼ空じゃん。外食派?」
    「自炊ダルい。手間ばっかかかる」
    「俺実家だから逆に自炊ちょっと憧れるんだよなー。台所は完全に母さんの管轄で手出せないし」
     潔は冷蔵庫の中に買ってきた食材を収めた。まだまだ時間があると携帯を覗くと、糸師がリビングにあるテレビのリモコンを操作した。
    「あ、録画?」
    「少し前の、兄貴が出たやつ」
    「見たい見たい!」
     冷蔵庫の前に立っていた潔は、すぐにリビングのソファに移動し糸師の隣に腰掛けた。
    「スペインの熱気ヤバ〜!歓声すごいな!」
     流石と言うべきか、人々がサッカーにかける熱意は相当のものに見えた。そして交代で糸師冴がピッチに上がると、人々の歓声が一層大きくなった。
    「すっげ…」
     糸師冴のプレーに圧倒され、潔はろくに声が出せなかった。経験者だからこそわかる視野の広さに、テクニカルなボールの扱い。彼がいれば何かが起こる、何かをしてくれると期待するのを止められなくなるほど、目が離せない。
     パス、ドリブル、シュート。
     一つ一つの動きが滑らかで、いとも簡単そうにやってのける。しかし潔にはわかっていた。こんな風にプレーできるのが決して普通ではないということを。きっと彼は頭の中にあるビジョンをそのままプレーに反映させている。それも反射レベルの速度で。どうしてこんなことができるのかと、本人に問いたいくらいのプレーだった。
    「日本でもっと話題にされるべきだよな…レベルが高すぎる…!」
    「まぁ兄貴は日本代表に全然興味がねぇからな。CL優勝以外は優先順位が低い。日本の低レベルなサッカーに嫌気が差してるらしい」
    「勿体ないけど…このレベルの選手ならそう思うのも無理ないかぁ…」
     糸師冴ほどの選手であれば、日本の枠に収まるより世界で活躍する方が正解に思える。代表招集に応じないというのはなかなか例のないことだが、それさえ糸師冴ならば仕方ないと思えてしまう。
    「すげーしか出てこない…かっけぇな〜」
    「…ああ」
     潔は目を輝かせながら録画を見つめ、見終わった後は今の内に少し休んでおこうと昼寝をすることにした。
    「ベッド使えばいいだろ」
    「ベッドに寝たら起きれなくなりそうだから、ここで寝かせて…」
     潔はリビングのソファで座ったまま寝かせてもらおうとしたのだが、糸師が「横になっていい」と言ったのとブランケットまで持って来てくれたのでふかふかのソファに身を預けた。
    「糸師はどーすんの…?」
     すでに眠くなりつつある頭で尋ねると、糸師は「部屋で適当に休む。夜になったら起こすから寝とけ」と言ってくれた。潔は「ありがとー…」とむにゃむにゃ言いながら、ブランケットで適度に暖かくなり心地良い眠りに就いた。

    「潔」
     肩を揺すられ、うとうとと気持ちいい眠りを引きずりながら目を開けると、そこには寝ぼけた状態で直視するには刺激の強すぎる男が自分を見下ろしていた。
    「わ、そうだ寝てたんだった!今何時!?」
     即座に自分が糸師の家で寝ていたということを思い出し尋ねると、2時間ほど寝ていたことが明らかになった。
    「めっちゃ気持ち良く寝てた…!起こしてくれてありがと!」
    「ピザ頼むんだろ」
    「頼む!あれにしよ4種類一緒になってるやつ!糸師どれがいい?サイドもうまそー」
     携帯を操作し2人でメニューを選び、ネット注文して届くまでの間リビングのテーブルに食器や食材の用意を始めた。準備を終えてピザが届くのを待つ間も、よく知らないバラエティを2人で眺めたりして友達のようだと潔は居心地の良さを感じていた。
     その後届いたピザを潔が受け取り、2人で食べなから他愛のないことを話した。
    「試合までまだあるんだからあんま飲むなよ。お前酒弱いだろ」
    「否定はできないけど、忘年会の時は空気に流されてつい飲みすぎちゃっただけだし…!」
     しかし酔いつぶれてしまっては計画が台無しになってしまうので、甘い缶チューハイを一本だけ飲んだ後はソフトドリンクに切り替えた。一方で糸師は平気な顔で缶を空けていったので、潔は目を丸くした。
    「え?糸師もしかしてザル…?」
    「今まで酔った記憶がねぇ」
    「マジ?めちゃくちゃ強いんだ!?いいなー!酒強かったら飲み会で理性飛ばさずにいられるじゃん!」
    「そもそも理性飛ばすほど飲むなよ」
     まだ試合開始までは時間があったので、潔は職場のことを話す流れで気になっていたことを持ちかけた。
    「糸師は自分の部署で上手くやれてる感じ?この間部署の人の分も文房具注文してたし」
    「は?…ああ。あれは俺一人の注文だ」
    「え?いやいや、糸師在宅多いんだろ?ならあんなにいらないんじゃ…」
    「俺が机の上に置き忘れた文房具は、次出社する頃にはなくなってんだよ。借りるのも持参すんのもダルいから多めに注文してるし、上司の許可もある」
    「ま……じか…大変だな…」
    「在宅になってからかなりマシにはなった。出社する度に付きまとってくる奴がいるからな」
     つまり根本的には解決していないのかと察し、潔はかわいそうにと思うことしかできなかった。
    「え、じゃあ糸師のこと良い意味で気にかけてくれる人とかいないの?」
    「一応課長が盾になってる。が、出張多くてずっと目を光らせるわけにもいかねーからな。俺を在宅にした方が都合がいい」
    「そっかぁ…今でもたまには営業行くんだろ?」
    「ああ。主に部長が俺を使おうとする。絶対成立させたい取引、客先への謝罪なんかに行かされる」
    「大変そうすぎる…じゃあ接待とかも?」
    「接待の飲みは余程のことがあればだな。入社したばっかの時はよく使われたが…だんだん社用の携帯に取引先の奴が個人的なメッセージ寄越して来るようになって収集つかなくなったから俺は社用携帯を持たないことになった」
    「エピソードがいちいち伝説的なんだよな…」
     中にはプライベートで会いたいという要求や度を越したセクハラメッセージも含まれていたようで、他にも容姿が原因で様々な苦労をしているのだろうと想像しようとしたが規格外すぎて失敗に終わった。
    「お前は」
    「え、俺?普通にやってるよ。特別なエピソードとかないけど」
    「一個上なんだろ?なら前のとこ辞めるの早いだろ」
    「ああそういう…いや新卒で入ったとこ倒産しちゃったからさ…上層部が真っ黒だったらしくて。でも中途で採用してもらえてよかったよ。普通の会社って上司が怒鳴らないもんなんだってわかったし」
    「どんなとこで働いてたんだよ…」
     潔が新卒で採用した企業は、埼玉にある小規模な商社だった。将来本格的な営業となるため先輩のサポートをするのが潔の役割だったのだが、怒鳴り声の絶えない職場で“上からの指示は絶対”“上に言われたらどんな予定も変更して最優先”“拒否権なし”という環境だったため、先輩も他の従業員も常に追い詰められているような職場だった。
     営業成績で評価が決まるため、成績が良ければ扱いもマシになるが悪ければ悪態をつかれ、まるで人として未熟で価値がないかのように扱われた。サポート業務しかしていなかった潔でさえ、「成績が悪かったのはお前のサポートが足りなかったせいだ」と詰められたことが多々あった。
    「無茶なスケジュールないし有給取りやすいし誰もキレてないし最高!」
    「新卒で最悪のとこ引いたなお前。…営業はやんねーのか」
    「営業はもう…成績とかノルマのこと考えたくないからいいかな…俺はサポートの方が向いてるって思ってるから、裏方やってるよ」
    「そうかよ」
     糸師と雑談しながら過ごし、いよいよ試合の時間が近づいてきた。
    「今日の相手かなり強いんだろ?予想は?」
    「んなもん知らねー。兄貴が出るなら勝つ」
    「すげー自信じゃん…確かにあの強さ見たらそう思うのも当然だけどな〜」
     糸師冴の実力が本物であることはもう疑いようがなかった。スペインでもスター選手扱いされ、国籍など関係なくチームに必要とされているのがわかる。糸師冴がピッチに上がる瞬間を、世界が待っているのだ。日本よりスペインでの方がよほど注目されているという事実が残念でならなかった。糸師冴自身は日本からの声援など必要としていないだろうというところが、彼の強さの一つなのだろうと潔は思った。
    「すっげぇ声援…」
     ピッチに糸師冴が現れた瞬間、大歓声が巻き起こった。スタジアムでは彼の番号を描いたボードを手に持ってるファンが見え、中には「だいすき」「ガンバッテ」と日本語で描かれたボードを持っている人もいた。
    「始まんぞ集中しろよ」
    「うん」
     試合には即座に引き込まれた。まるで糸師冴が敵味方をコントロールしているかのような、圧巻のプレーだった。相手チームに何人付かれようと、嘲笑うかのようにドリブルで崩しパスを繋ぎ、糸師冴が一人いるだけで味方チームには無数のビジョンと選択肢が生まれる。そのプレーの鮮やかさは、見ている人々を魅了し彼のプレーをもっと見たいと中毒性を生み出すほどだった。
    「うお気づいたらまた1点入ってた…え今3-0!?」
     結局試合は4-0で糸師冴のチームが勝ち、相手チームはほとんど糸師冴の手の平で踊らされている状態だった。
    「すげー…糸師選手、絶対日本でももっと注目されるべきだよな!?」
     すっかり試合に熱中し興奮状態で、手に持った酒を飲むことすら潔は忘れていた。隣で糸師は心なしか得意そうな顔をしており、自分の兄が評価されたことを喜んでいるようだった。
    「…名前」
    「ん?」
    「両方糸師じゃ紛らわしいだろ。俺は名前で呼べ」
    「え!?」
     正直に言えば特に必要性は感じていなかったが、糸師が自らそんなことを言ってくれたことに驚き嬉しくもあった。知り合ってから日が浅いことと、糸師の境遇を考えると馴れ馴れしくされるのは嫌いなのではと考えていたので予想外だった。
    「し、下の名前知らないんだけど…」
     会社では記名も呼び名も「糸師」で、チャットアプリの表示名さえ名字しか載せていないので今まで一度も目にすることがなかった。
    「凛だ」
    「凛…っていうんだ…じ、じゃあお兄さんと紛らわしくなった時は呼ばせてもらおうかな」
     名前までかっこいいなぁと思いながら、なんだか気恥ずかしくて話題を無理に切り替えてしまった。
    「もうこんな時間!?やばい寝ないと!糸師は在宅だよな?」
    「いや、俺も出社する」
    「え、そうなの?じゃあ余計早く寝た方がいいよな!」
     てっきり糸師は在宅で朝の心配は自分一人がしていればいいと思っていたが、二人とも出社するとなれば話は別だった。手早く片付けを済ませ、潔は糸師に「おやすみ!」と挨拶をしてから部屋で眠った。

     潔はノックの音とアラームの音両方で目を覚ました。
    「ごめん今起きた!」
     アラームを止めてベッドから飛び起き扉を開けると、そこには既にシャツに着替えた糸師が立っていた。
    「朝飯…パン焼くけど食うか」
    「いいの?昨日買っとけばよかったな。俺観戦に浮かれて忘れてた」
     糸師がパンを焼いてくれている間に身支度を済ませ、すぐ出社できるよう荷物を準備した。
    (うーん、これ会社に持っていくの邪魔になるし目立つよなぁ…)
     持ってくる際は気にならなかったスーツ用のハンガーとカバーも、通勤では邪魔になる。出張もない土日明けにこんなものを持っているのは、やましいことがないにせよ怪しく映るのは容易に想像できた。
    「糸師ごめん、これ通勤に持ってくの邪魔すぎるから帰りに回収していい?」
    「ああ。別に置いていきたいものがあったら置いてけばいい。いつでも取りに来られるだろ」
    「いやぁ悪いよ…ちゃんと夜回収する!今日何時に終わる?」
    「普通に定時で上がる予定」
    「じゃあ帰る時間合わせて寄らせてもらってもいい?」
     糸師が頷いたので、潔は安心していつも通りの荷物にまとめることができた。
    (1回だけ上がらせてもらえたと思ってたけど、もしかして結構許してくれる感じかな?意外と許容範囲広いんだな…)
     学生時代の友人とは違うのだから、礼儀はわきまえなければと思っていた潔には良い意味で予想外に感じた。
     その後糸師の用意してくれた朝食を食べ、最終的な準備を済ませた潔は糸師と一緒に部屋を後にした。睡眠時間が短く眠くても、試合についての余韻を語りながら出勤するのは潔にとってとても楽しい時間だった。
    「糸師ありがとな。泊めてくれなかったらほぼ寝れずに出勤するところだったわ」
    「言い出したのはこっちだろ」
    「でもい…凛、のおかげで糸師選手のスーパープレー見れてよかった!」
    「……別に、今後も見ればいいだろ。お前一人泊めるくらい、こっちはなんともねぇ」
    「いやいや悪いって!でもありがとな。また機会があれば!帰りまた連絡する!」
     潔は郵便物を回収する用事があったので、エレベーターホールの手前で糸師と別れた。
     糸師とは夕方頃に連絡を取ればいいと思っていたのだが、昼前に連絡があったので一緒に昼食を食べに外へ出かけ、また試合についての話題に花を咲かせた。
     夕方には定時で上がれそうという連絡を入れ、時間通りに業務を終えて総務のフロアを出た。
    「凛くん久しぶり〜!最近全然会えなくて寂しかったよ〜!」
     フロアを出てすぐの場所で糸師が待ってくれていると思ったら、見知らぬ美人が親しげに糸師と話していた。
    (やば、タイミング悪かった…!どうしよここは素通りして…連絡だけ入れて下の出入口で待つか…)
     様子からして営業部の人のようで、糸師の隣で機嫌良さそうに話しボディタッチまでしていた。
    (うおお積極的…!邪魔になるしやっぱここは通り抜け…)
     あえて糸師には目線を送らず、通行人のフリをして通り抜けようとすると糸師が「あの」と不機嫌そうな低い声で言った。
    「名前で呼ぶのやめてもらっていいすか。名字被ってる奴いないし、不快なんで」
     女性も潔も、糸師の言葉を理解できず固まってしまった。
    「行くぞ」
    「あ、ちょ!?お、お疲れ様です…」
     潔は形式だけの挨拶を残し、凛に腕を引かれるままエレベーターホールへとやって来た。
    「まずくない!?先輩とかだろ…!?」
    「先に入社してたってだけだ。教育係として入社当初からウザくて仕方なかった。俺だけ名前で呼びやがるし」
    「な、名前で呼ばれるの嫌だったなら言ってくれれば…!」
     先輩に呼ばれるのも嫌だというのなら、自分が呼ぶのもさぞ不快だろうと思って潔はエレベーターの中で糸師を見上げた。
    「俺にとってどうでもいい奴には呼ばれたくねぇってだけだ。お前に対してはなんとも思わねぇ」
    「そ、そう?ならよかった…」
     そう言いながら潔はこの調子で糸師が営業部で上手くやれているのだろうかと、お節介な心配をしてしまっていた。
     潔は糸師の部屋に荷物だけ取りに行くつもりだったが、糸師に誘われるまま一緒に夕食に出かけてから家に寄らせてもらった。潔は自分が会社の人間につけられていないか、糸師のプライベートを守れているかを警戒しながら帰路に就いた。
     それからは何事もない日常に…と思ったのだが、糸師と一緒にいたところを既に大勢の社員に目撃されていたようで「これまで誰とも絡まなかった糸師がなぜ」と一部で話題になってしまっているようだった。
    「サッカー繋がりってだけで…」
    「いえ僕も個人的なことは全然知りませんよ!」
    「糸師に彼女いるのか?いやいやサッカーの話しかしてませんって!」
     その場にいない糸師に代わり、潔の元に度々知らない人がやって来ては糸師の個人情報を聞き出そうとしてくる。潔はそれを迷惑に思う気持ちより、糸師はずっとこれが普通で日々を過ごしていたのかという同情が勝った。
    「明日出社する。昼空いてるか」
     糸師からのメッセージに、潔は少し考えてから返信した。
    「空いてるけど、店の前で待ち合わせにしない?」
    「なんで」
    「なんか社内で話題っていうか、俺のこと珍しがって色々聞いてくる人がちらほらいて…」
    「あ?」
    「糸師の個人情報は何も教えてないから安心してくれ!」
    「明日昼、お前んとこ行く」
     店の前で待ち合わせという案は採用されなかったようで、潔は「わかった」とだけ返信をした。
    「糸師、今日機嫌悪い?それとも体調悪い…?」
     翌日宣言通り潔のいる総務部へやってきた糸師は、明らかに不機嫌そうな顔をしていた。財布を持って一緒に外へ出ると、糸師がぼそりと口にした。
    「俺本人には直接言って来ねぇくせに、お前に絡みに行く奴がいるのはムカつく」
    「まぁ本人には行きにくいだろうから…でも何言われても知らないで通せてるし!」
     糸師は近場の飲食店で長過ぎる足を余らせながら座り、潔はその向かいに自分が座っていることに違和感を覚えなくなっていた。しかしいつ見ても整った顔立ちは見飽きることがなく、いつ見ても新しい発見があった。
    (目の色キレーすぎるな…)
     普段は下から見上げているので見えにくい部分もはっきりと見える。そして潔は大勢の、数え切れない人々がこうして間近で糸師を見たがっているのだろうと思った。だから自分の存在が珍しがられても仕方がないと考えていた。
    「お前が面倒を被るのはおかしいだろ。何か対策を考える」
    「みんな一時的に珍しがってるだけだから大丈夫だって」
     潔より糸師の方が現状を深刻に捉えているようで、潔は糸師がそれほど考えてくれるというだけで嬉しかった。
    「糸師君に彼女は!?」
    「僕は聞いたことないですね〜」
    「絶対彼女いるよ!」
    「いや〜でも顔が顔ですからね〜。あの顔を納得させられる人はそうそういないんじゃないですか〜?」
     それから潔は来る日も来る日も糸師の情報を聞かれ続け、慣れのあまり受け流しに磨きがかかってきた。
     潔は糸師の個人情報などほとんど知らないが、誰にとっても確かなのは糸師の容姿が人並外れて、神々しいまでに優れていることだ。ここを利用することで、人々は納得せざるを得なくなるのが好都合だった。
    (お兄さんがいて、お兄さんはプロのサッカー選手で…本人は会社の近くに一人暮らししてて…他人を拒絶してそうに見えて実は許容範囲広かったりするんだよな〜。でもされたくないことは先輩だろうと普通に言うし…)
     社内の人間に比べればまだ「糸師と付き合いがある」と言える潔でも、まだ糸師がどんな人間なのかは具体的に掴めていないのが現状だった。サッカー好き同士ということもあって多少は気を許してもらえているのではないかと思っているが、いつ自分が糸師の機嫌を損ねて他の人々と同じように「失格」扱いになるかはわからない。そして潔の気のせいでなければ、糸師は一度「失格」と判断した存在には二度と興味を示さない。
    (できるなら…まだ失格にはなりたくないなぁ…)
     せっかく糸師が気を許してくれているのなら、期待を裏切るようなことはしたくない。糸師のプライベートはなんとしても守らなければと、潔は決意を新たにした。
     それから数日後、総務のフロアが突然ざわついたかと思ったら、糸師がフロアに入って来るのが見えた。思わず視線を向けると目が合ったので、何か用があるのかもしれないと思い席を立った。
    「どした?約束…はしてないよな?」
    「紙切るやつ使いに来た」
    「あー、あれね。待ってて今片付けちゃってるから出すよ」
     よく見れば糸師は手にコピー用紙の束を持っていたので、ミスプリントをメモ帳にでもするのだろうと思った。わざわざ総務に来てまでカットする人は少ないが、糸師には何かと人が群がるので休憩がてら来たのだろうと考えた。
    「え、待って何これ」
     潔はスライドカッターだけ用意して席に戻ろうと思ったのだが、糸師が作業机に置いたコピー用紙がミスプリントに見えなかったので思わず尋ねた。
    「何って、アカウントID。チャットアプリの」
    「は!?え、まさか…糸師の…?」
     まさかと思って聞いてみると、糸師は頷いて「他にいねーだろ」と答えた。
    「いやいや待っ!?考え直せって…!こんな機密中の機密…!」
     潔が動揺している間にも、糸師はどんどん紙を切っていく。よく見るとIDの間に切り取り線がプリントされており、あっという間に名刺ほどのサイズの紙束が出来上がった。
    「ほら」
    「え?」
     出来上がった紙束を差し出され、潔は訳がわからず気の抜けた声を上げた。
    「お前のところに俺のこと聞きに来た奴らに渡せ。お前がわざわざ話をして相手してやる必要はねぇ」
    「いや…えっ!?」
     まさか糸師は自分のチャットアプリのIDを配るつもりなのかと、潔は紙束と糸師の顔を交互に見て困惑した。
    「俺が持ってる予備端末のIDだ。連絡してきた奴全員ブロックするためだけのな。だからこの連絡先は躊躇せず渡していい。つーかもうデスクに置いて勝手に取らせろ。あと昼はラーメンがいい」
     糸師は身を屈めて潔の耳元で囁いた。内容よりも糸師の低く柔らかい声に驚いてしまったが、ひとまず潔は糸師のやろうとしていることを理解して受け取った。
     糸師がフロアを去り、潔は自分のデスクに戻ってから少し考え、備品の卓上小物入れに受け取った紙束を入れて「糸師直通連絡先です。ご自由にお持ちください」と書いた紙を貼った。
     昼は糸師の希望通り一緒にラーメンを食べに行き、戻って来た頃にはデスクに置いていた紙束がごっそり減っていた。

    「お邪魔しまーす。あ、重版してんの?」
     とある休日、潔は糸師から「土日でサッカーの録画を見まくる」という心ときめく誘いを受け糸師の家を訪れていた。
    「……何枚持ってくんだよ馬鹿かよあいつら」
     糸師の個人情報を聞き出しに来る人々がいるなら、いっそ自ら個人情報を渡してしまえばいい…糸師考案の作戦は上手くいき、潔は初対面の社員に時間を奪われることが激減した。しかし想定以上にチャットアプリのIDを印字した紙が捌けたので、糸師は追加で印刷しているらしかった。
    「ところで…どう?実際連絡来てる?」
    「意味わからねぇほど来てる。社外の人間からも来てる」
    「情報漏洩じゃん…!!なんで!?」
    「○○の友達とか、起業・転職の誘いとか、芸能界がどうのとか…全員ブロックしてるがダルい」
     どうやら糸師の連絡先を入手した人々は、本人と一対一で関係を構築するだけでは飽き足らず、知人友人にまで話を広げ糸師にとって「おいしい話」を用意し乗るのを待っている者までいるようだった。
    「わ、悪〜!!そんなことになってるのに追加で刷っていいのか?」
    「ブロックすりゃ一応そのアカウントとの縁は切れるからな」
    「もしかして糸師が辞めたがってるって噂があるからかな?俺でさえ聞いたことあるくらいだから…実際辞めたいのか?」
    「少し前までは思ってたが、今は思ってねぇ。どうせ辞めても別のとこでこれと同じことを繰り返すことになる」
     それを聞いて潔は少し安心してしまった。もちろん糸師が本当に退職を希望しているなら引き止める権利などないが、せっかく仲良くなれたのだから今関係が切れてしまうのは惜しいと思ったのだ。
    「俺の作業はどうでもいい。それよりその持ってるもんをどうにかしろ」
    「そうだった!冷蔵庫借りるなー!」
     今回潔を誘ったのは糸師だが、潔は宿代代わりに食事を作ることを提案していた。料理に興味があったものの自宅の台所は母の領域であるため勝手に使うことに抵抗があった。しかし糸師は家での調理をあっさり許可してくれたため、これを機に料理を練習してみようと考えた。
    「まぁ料理初心者もいいとこだから、簡単そうなところからでカレーだけど…夜は自動的にカレーうどんになるけどいい?嫌だったら全然宅配頼んでもらってもいいし…」
    「別にそんなこと気にしねぇよ。やりたいようにやればいいだろ。手が必要なら言え」
    「わかった!じゃあ色々借りるからな!」
     潔は事前に調べておいたレシピを確認しながらせっせと準備を進めていった。
    「やばい…野菜切るだけでこんなに才能のなさを自覚する羽目になるなんて…」
     覚束ない手付きで作業を進めていたが、潔は自分の手際の悪さに失望していた。家庭科の調理実習などでは到底経験値は貯まっておらず、野菜はボロボロな上に切るだけで相当な時間を要した。そもそも皮むきなどの下準備のことを忘れていたため、その辺りの知識もなく玉ねぎで号泣していた。
     糸師がネットで「これならマシになるらしい」という方法を調べてくれたので大事には至らなかったものの、ろくな知識もなく調理に取り掛かるのは時間と材料の無駄になりかねない。
    「普通に美味い」
    「いや…なんか水っぽいし煮る時間足りなかったと思う…ちょっと待ってもう少しルー足して煮てみる…」
     糸師は文句一つ言わず食べてくれていたが、潔は自分の不甲斐なさにショックを受けていた。お世話になっている糸師への礼も兼ねていたつもりだというのに、これでは仇で返していると悲しくなった。
    「ごめん…!夜はもう少し調整してまともにするから…!」
    「別に気にしてねぇよ。それより何見るんだ」
     潔のことを気にしてくれたのか、糸師はブンデスリーガの録画を残してくれていた。見始めると夢中になってしまい、カレーの失敗もあまり気にならなくなっていった。
    「ノア様かっけぇ〜!まだまだ現役でいてほしー!」
    「もう40だろ。どうなってんだよこのおっさん…」
     ノエル・ノアの活躍を堪能した後はレ・アールの録画をいくつも見て、潔は特に糸師冴の活躍に釘付けだった。
    「糸師選手すげー…プレー技術もだけど、コンディションの調整すごいよな。調子崩してるとこまだ見たことない」
    「余程のことがねぇ限り、兄貴のコンディションは一定だな。中学からスペイン行ってたしそういう意識はそこらの日本人先取とは根本から違う」
    「すげぇ…!」
     夢中になって見ていると糸師はいつの間にか席を立っていたようで、リビングのテーブルにいくつかの箱を持って来た。
    「ん?何?」
    「もらった出張土産。いらねぇっつってんのに机の上に置かれてんだよ。お前も食え」
    「え、箱で!?こういうのって一個を配るんじゃ…?」
     職場に土産物を買い配るのはよく見る光景だが、大入りのものを買って来て中身を配るのが普通のはずだった。しかし糸師は“糸師用”に土産を用意されているようで、また一つ糸師がいかに特別扱いされているかを知った。
    「いや待って、お土産でこれならバレンタインとかどうすんの?」
    「受取拒否。全部捨てるって書いた紙をデスクに貼っとく」
    「おわぁ…」
     入社は4月だったのでその時はよかったが、その後様々な伝説を作った糸師はバレンタインを警戒し「バレンタインの贈答品は受け取りません。全て処分します」と書いた紙を翌2月にデスクの目立つ位置に貼った。それでも机に連日贈り物を置かれ、糸師はその全てを容赦なく皆が見ている前でゴミ袋に放り込んで捨てていった。当然その事実は広まり、バレンタインに贈り物をするのは逆効果だと周知されたようだった。
    「うざい贈り物は減ったが、出張土産は許容範囲だと思われてるのか置かれる。そんなに頻繁じゃねぇから渋々持ち帰ってるが…」
    「えー、凛へのお土産なのに申し訳ないな…でもめっちゃおいしい…」
     各地域の銘菓など、土産物でもらうか物産展でもなければ見かける機会は少ない。通販で買えるものもあるだろうが、偶然もらえることの喜びには替えがたい。
    「俺甘いもの好きだからお土産もらうと嬉しいんだよな。あ、通○もんあるじゃんこれ大好き!」
    「俺はいいからお前が食え。期限切れたら捨てることになる」
    「いいの?じゃあ申し訳ないけど遠慮なく…」
     潔は各地の銘菓をおやつ代わりにし、その後も楽しく糸師と観戦を続けた。

    「よし軌道修正成功した!勝った!」
    「何と戦ってんだよ」
     夕飯の頃合いになり、潔は昼間微妙に感じたカレーに手を加え、それなりに美味しく感じるカレーうどんを完成させた。
    「なんか…もっとレパートリー増やせればなぁ…まだカレーが精一杯だけど…」
    「台所、使いたければ好きに使えばいい」
    「まじで!?いや流石に申し訳ないよ」
    「練習しないと上手くなりようがねぇだろ」
    「それはそうだけど…」
     糸師の寛大な配慮により、潔は糸師の家で好きな時にキッチンを使う権利を得た。合鍵を渡すかと提案されたのだが、潔は全力で断った。
    「申し出は本当にありがたいんだけど!俺が今後尋問されたり紛失するリスク考えると怖すぎて無理!!」
     即座にそう口にしたものの、潔は嬉しかった。糸師の性格であれば、義理だの情けでそんなことは言い出さない。本当に潔になら預けていいと思ったからこその申し出だったのだと、食後入浴を済ませた潔はリビングで嬉しくなっていた。
    「凛ー、アイス食…おっ!?」
     潔の後に入浴を済ませた糸師がリビングに戻って来たので声をかけようと振り返ったが、そこにいる上半身裸の糸師を見て言葉を詰まらせてしまった。
    「お前アイス買いすぎだろ。どれにすんだ?」
     リビングで寛いでいる潔に代わり、糸師が冷蔵庫に向かっていき冷凍室を物色していた。しかし潔の意識はアイスよりも糸師の鍛え上げられた腹筋に向いていた。
    「腹筋すご!?え?どうなってんの?やっぱサッカーしてた?」
    「あ?サッカーはしてねぇ。ジム行ってるからだ」
    「ジムだけでこんなバキバキに!?いいなぁ…俺社会人になってみるみる筋肉落ちたからなぁ…」
     服の裾を持ち上げて自分の腹筋を確認してみたが、高校時代の全盛期に比べると腹筋の隆起もなだらかになってしまっており端的に言うと体が鈍っていた。
    「…いいからアイス早く選べ」
    「バニラのやつ!ビスケットで挟まってる青いパッケージの!」
     糸師にアイスを持って来てもらい、その後も眠くなるまでサッカー観戦を楽しんだ。


    「潔君って、ほんと糸師君と仲良いよね」
    「え、そうですかね…?」
     糸師の家に泊りがけでサッカー観戦をしたり、その度に潔が食事を作る。それが二人の間でも常習化し始めてきた頃、同じ課の先輩にそんなことを言われた。
    「いや仲良いでしょ!糸師君週1か2回しか出勤しないのに毎回潔君とご飯食べてるし、一緒に帰ったりしてるじゃん!」
    「共通の話題があるからつい話しちゃうんですよね。サッカーのことばっかですよ」
     自分で言いながら、潔は糸師のことをまだそれほど知らないことに気づいた。サッカーの知識量や食の好みは大方把握しているつもりだが、それ以外は糸師個人のことを知らない。だが糸師が潔にとって大切な友人になっているのは確かで、だからこそ興味本位で個人的なことを聞くのは失礼な気がした。
    「休みの日二人で出かけたりするの?」
    「基本サッカー見てますね。行くとしても買い出しにスーパーとか」
    「毎回?」
    「今のところ毎回…」
     潔は“もしかしなくともこれは一般的ではないのかもしれない”とようやく気付き、これまで糸師の要望を全く確認していなかったことを後悔した。
    「そんなわけで、なんかある?出かけたいとことか…俺全然付き合うし」
     サッカー観戦は確かに楽しいが、糸師の好意に甘えて家に入り浸り泊まらせてもらうばかりではまずい…そんな危機感を覚えた潔は早速糸師に要望を確認したのだが本人は眉間に皺を寄せていた。
    「別にねぇし、お前が家に来ることに不満もない」
    「でも最近隔週くらいの勢いでお邪魔してるからさ…流石に申し訳なくて」
    「飯はお前が作ってんだから別に気にする必要ねぇだろ」
    「親しき中にも礼儀ありって言うじゃん」
    「……仕事のシャツ…今度出張付いてくから新しい予備」
    「わかった!買い物行こ!いつ行く?」
     潔は糸師との約束を取り付けたが、この時考えが浅かったことをすぐに後悔した。
    (もうナンパされてる…!)
     当日駅前の待ち合わせ場所に向かうと、先に到着していた糸師の前には見知らぬ女性が二人いた。
    (えーどうしよ…終わるまで待つべき…?)
     近くまで寄って戸惑っていると糸師はすぐ潔に気付き、女性達を無視して潔の方へやって来た。
    「おい着いたなら声かけろ」
    「逆ナンされてるところに声かける勇気ないって…」
     そして改めて糸師を見たが、さすが職場で「伝説」と謳われていることはある…と潔は改めてその容姿に感心した。
    「凛、私服もすげーかっこいいな」
     自宅にいる時はラフな格好をしていたので糸師の私服を初めて目の当たりにした潔は、これなら逆ナンされても仕方がないと納得した。
    「……別に、普通の服だろ」
    「普通の服が特別に見えるくらい凛がかっこいいんだよ。とりあえずそこ入ろ」
     すぐ近くの大型ショッピングモールはスーツとシャツを取り扱っているテナントがあったため、二人はショッピングモールに入り店を目指した。
    「俺ちょっと奥のネクタイ見てくる」
    「ああ」
     店の中で別れ、しばらくネクタイを物色したが好みの商品はなさそうだったので糸師の元へ戻ろうとした。
    (あ、いた。でかいから目立って便利…)
     長身なのですぐに見つけられる…と思ったが、糸師の両脇を女性スタッフが固めているのを見て「あー…」と声が出そうになった。
    「こちらのシャツもお似合いになると思いますよ!」
    「この柄なんか今人気で…」
     更には店の奥から「こちらのサイズはいかがですか!?」と3人目のスタッフが駆け寄って来て、潔はまた怯んでしまった。
     結局糸師はスタッフの呼びかけは全て無視し、一人でシャツを選んで試着したものの合わなかったようで結局買わずに店を出た。
    「凛が何で出かけようって言わないのかわかった…」
    「サイズさえ合えば全部通販で済ませてぇんだよこっちは」
     店を出てレストラン街で食事をしながら潔は改めて糸師の苦労を垣間見た。こんな顔面では老若男女の視線を集め、立ち止まれば即座に人が群がる。聞けばスーツは既製品ではサイズが合わずオーダーメイドで作ったものらしく、せめてここまで長身で肉体的に優れていなければ服のサイズも苦労しなかっただろうにと同情した。
    潔がトイレに行ったり少し店先の商品を見ようと離れるだけで、糸師は「フリーのイケメン」と見なされ人々が声をかける。至極迷惑そうな糸師を見て、潔は外出があまり良い提案ではなかったとを後悔していた。
    「どうする?もっと探す?」
    「いや、俺の買い物はいい。既製品で合うのがあればと思ったが、時間の無駄になる。自分の買い物しろ」
     シャツ探しを諦めてしまったらしい糸師は、潔の買い物に付き合うつもりのようだった。
    「じゃあ鍋見たいんだけどいい?」
    「鍋?」
    「凛の家鍋一つしかないから、凛さえよければ増やしたくて。嫌なら自分で買って持参するし!」
    「必要なら買えばいい。金は出す」
    「自分で払うって!」
     どちらが支払うかで少し揉めたが、調理器具類は折半でとルールを決めた。潔としてはキッチンを使わせてもらっている上に調理器具まで置かせてもらうのだから当然自分が払うものと思っていたが、糸師は思った以上に潔が食事を作ることに価値を置いているらしかった。
     結局鍋だけでなくフライパンやらキッチン用品も買ってしまったが、潔はとても満足していた。好きにキッチンを使わせてくれて、自分の料理を喜んでくれるサッカー好きの友達。まさかそんな存在が社会人になってからできるとは思っていなかっただけに潔は内心とても喜んでいた。しかし何かともらうことが多いため、この恩はせめて料理を上達させて返していこうと決めた。
    「どーする?何か食べて帰る?買い出ししてなんか作る?」
    「……面倒じゃなければ、お前が作ったやつがいい」
    「俺のでいいの?何食べたいとかある?」
    「お前が作りたいもの」
     糸師は「なんでもいい」とは言わず、潔が作りたいもの、練習したい料理をリクエストする。潔はそう言われる度に、料理を歓迎されているようで嬉しかった。これまで決して少なくない回数「微妙」な料理を作ってしまったが、糸師は全て文句一つ言わず食べてくれていた。
    「何がいいかな〜」
     潔は頭の中でいくつものメニューを浮かべ、新しく買った調理器具を使うのを楽しみにしながら糸師と家に向かった。
    「明日から出張だっけ?帰りは金曜日?」
     二人で外出してから2週間ほど経った頃、糸師の出勤日の昼に向かい合って昼食を食べながら潔が尋ねた。
    「ああ。出張なんてダルいだけだが、今の勤務形態を維持するためにポイント稼ぎしてやる」
     どうやらかなりの得意先のようで、だからこそ糸師が抜擢されているらしかった。
    「じゃあ週末疲れてるだろうし、来週お邪魔していい?」
     隔週どころか平日まで一緒に夕食を食べることも増えており、いつもの調子であれば週末糸師の家に向かうところだった。
    「いや、俺のことは気にするな。つーか金曜日来い。鍵渡す」
    「え!?いや行くのはいいけど鍵は怖いっていうか…」
     糸師に関する情報及び物品を保有することに恐怖すら覚える潔は鍵の受け取りを拒否しようとしたが、「鍵のねぇと入れねぇだろ」という当然の言葉を受け渋々受け取った。
    「つかこれ受け取ったら凛が帰れなくね?」
    「万が一に備えて鍵の予備も持ち歩いてんだよ」
     その“万が一”がただの心配性から来るのか過去の経験故の防犯意識なのかは怖くて聞けなかったが、潔は金曜日の夜に糸師の自宅で食事を作ってそのまま泊まるという予定が固まった。
    「留守の間、いつも通り家の中は好きに使っていい。必要な物があったら俺の部屋でも構わず漁れ」
    「いや漁んないって…でもありがとな」
     鍵を渡される不安はあったが、糸師からの信頼はそれに勝るものがあった。決して無くさないよう胸ポケットに鍵を収め、デスクに戻ってからはすぐに通勤鞄の中にしまった。

     金曜日、潔は予定通り出張している糸師の自宅に合鍵を使ってやって来た。許可を得ているとはいえ少し落ち着かない気持ちで、ひとまずすぐに買って来た食材を冷蔵庫に収め、客室に置かせてもらっていた部屋着に着替えた。
    (凛は夜帰って来るから、今からご飯作れば余裕だな)
     早速調理に取り掛かり、手際良く調理を進め自分の上達ぶりを実感していた。
    (包丁捌きも結構良くなってきたんじゃないか!?前よりモタモタしてないし、凛にも手際良くなったって褒められたし!)
     上手くなりたいと思ったのは自分自身だったが、そう思うに至ったのは糸師の影響が大きかった。何でも食べて「美味い」と言ってくれる糸師に、本当に美味しいものを食べて欲しいという気持ちがあった。潔のやることに寛大で意思を尊重してくれるところにも大いに感謝しており、潔は糸師との関係に満足していた。
    (凛から連絡ないなー…帰りが近くなってからお風呂沸かそうと思ってたけど…)
     二人分の夕食を作り終えても糸師からの連絡はなく、「帰る前に連絡する」と言われていたので何かあったのだろうかと思い始めた。
    (あ、来た!)
     糸師から帰宅時間を知らせるメッセージが届いたかと思ったところ、そこには思わぬ文言が表示されていた。
    〈カス部長のやらかしで電車逃した上に終電にも間に合いそうにねぇ〉
    〈俺に構わず寝ろ〉
    〈始発で帰る〉
     大丈夫なのか、何かまずいことが起こったのかと確認すると、どうやら得意先との食事会で部長が無茶な飲酒で酷い酔い方をしてしまい救急車を呼ぶ事態になってしまったらしい。糸師と他の部下は付き添うしかなくなり、出張に参加した面々は全員帰宅スケジュールがめちゃくちゃになったとのことだった。
    〈今病院で処置終わるの待ってる〉
    〈あの野郎マジで覚えてろ〉
     文面だけでも苛立っているのがわかる糸師に、潔は慰めの言葉をかけ〈凛が無事でよかった〉と本心を打ち込み送った。
    〈帰ったら食うからメシは冷蔵庫入れとけ〉
    〈作らせたのに悪い〉
     潔は〈気にしなくていいから〉と送り、ひとまず自分の分だけ食べて糸師の分を冷蔵庫に入れておいた。
    (凛大変だったなぁ…部長も大変だろうけど今回は自業自得というか、付いていった営業の人達の方がかわいそう…)
     潔は一人でサッカーを観る気にもなれず、シャワーを貸してもらい早々に眠ることにした。朝何かあってもすぐに対応できるようにと、早めにアラームをセットして布団に潜り込んだ。
    (一人サッカー観戦、好きだったはずなのになぁ…凛がいないとつまんないや…)
     翌日糸師がとびきりの暴言を交え土産話をしてくれることを期待しながら、潔は眠りに就いた。
    「あのカスマジで殺す」
     翌朝無事帰宅した糸師は、スーツで向かったはずがなぜかラフな格好で帰って来た。
    「おかえり!マジ災難だったな…てかスーツは?」
    「部長にゲロ吐かれたから捨ててきた。あんなもんクリーニングに出してまで着たくねぇ」
    「お疲れ様すぎる…!昨日のご飯あるけど食べる?」
    「食う」
     糸師は潔が残しておいた食事を平らげ、潔に礼を言うと「これ」と言って紙袋を潔に差し出した。
    「え、これ俺がこの間言ってた…!」
     糸師が潔に手渡したのは、先日土産物の話をした際に潔が口にしていた菓子だった。
    「昨日会食前に時間あったから」
    「うれしー!ごめんな大変だったのに俺だけ喜んじゃって…」
    「別にお前のせいじゃねぇだろ。とりあえず少し寝る。昼に起きなかったら起こせ」
    「わかった」
     寝不足だったらしい糸師は荷物もそのままに自室に向かい、そのまま眠ったようだった。潔は糸師が家にいることに安心感を覚えながら、昼食はどうすべきかと考えていた。

    (そろそろ起こすか…)
     もうすぐ正午という頃、昼食のために買って来た鮭を焼き玉子焼きや味噌汁、昨日から作っておいた煮物なども用意した潔はまだ起きてこない糸師を起こすことにした。
    「りんー、昼作ったぞー!鮭いい感じに焼けたし、煮物も美味しいぞ〜!」
     部屋の扉をノックしたが、応答はなかった。寝かせておくべきかな起こすべきか迷ったが、起こせと言われたのでひとまず起こす方向でいこうと潔は初めて糸師の部屋のドアノブを握った。
    「りん〜、入るぞー?」
     そろりと中に入って、思わず部屋の中を見回した。物が少なくよく片付いている部屋で、家具も洒落ていて流石と思った。しかし人並外れた体格の持ち主なので、明らかに一般的なものよりも大きいベッドが部屋の中で存在感を放っていた。
    (起きない…疲れてるだろうし寝かせておいた方がいいかな…)
     すやすやと眠る美しすぎる寝顔を少し眺め、このまま見惚れていては昼食が冷めてしまうと我に返って部屋を出ることにした。
    (凛の分はラップして冷蔵庫に…)
     糸師に背を向けようとすると、ぐっと腕を引かれ潔は驚いて振り向いた。
    「凛?ご飯できたぞ?起きられるか?」
    「……」
     潔が尋ねても返事は返って来ず、代わりに糸師の長い腕が動いて潔の手を握った。
    「手でかー!指なげー!モテる男の手って感じ!」
     潔が糸師の手を取って左手に乗せ、右手で手の甲を撫でていると、強く手を引かれた。
    「もぉ、危ないでしょーが…起きてんのかー?」
     ラグに膝をつき糸師の寝顔を間近で覗き込むと、糸師が薄っすら目を開いた。
    「凛、ご飯できた!食わないなら冷蔵庫入れちゃうぞ?」
     早く、と急かすと糸師の手はいつの間にか潔の顔の方へ移動し、くすぐるように頬に触れた。
    「なになに?てか冷めちゃうって!鮭上手く焼けたのに!」
     糸師の肩を揺すると、ようやく糸師が起き上がった。
    「……」
    「やっと起きた!早く食おうぜ!」
     潔はリビングに戻り、二人分の米を茶碗に盛った。すっかり居着いているので、茶碗も箸も潔専用のものを置かせてもらっていた。
    「起き抜けに食える?」
    「…食える」
     寝起きでも変わらない美しさの糸師は、席に座っていつものように食事を始めた。
    「ほんと大変だったなー。部長は大事だったのか?」
    「ああ。こっちは大迷惑だったけどな」
     糸師達出張組はもちろん、取引先や病院関係にも面倒をかけ、予定のない一泊追加となれば経費はどうなるんだろうと潔はつい裏側の心配をしてしまった。新幹線の指定席って払い戻しできたっけと色々考えていると、糸師は綺麗に食事を終えた。潔の分も食器を下げ、食洗機に収め片付けをしてくれた。
    「なんか…まだゲロの匂い残ってる気がすんだよ」
    「ご飯の間に言わなかった配慮には感謝するわ。大丈夫だと思うけど?帰って来た時も何も思わなかったし」
    「どこにかかった?」
     キッチンに立っている糸師の間近まで近づき、鼻を鳴らしたが特に不快な匂いはしない。
    「部長が隣にいて、こう倒れてきてこっち側やられた」
    「こんな感じ?いや匂いしないしない。大丈夫」
     糸師の言葉を元に状況を再現しようとすると、まるで糸師の胸に頭を預けるような格好になった。しまったと顔を上げると、糸師はなぜか潔の頭を撫でた。
    「なに?」
    「…頭があったから」
    「ふふ、なにそれ?てかスーツ捨ててきちゃってよかったのか?オーダーメイドだったんだろ?」
    「予備でもう一着ある。また新調しに行かねぇと…」
    「大変だなー、既製品着れないってのは…」
     詳しい事情を聞くと、部長の吐瀉物まみれになってしまった糸師はまず先に部長を店の広い場所に運んで救急車を待った。搬送後は出張に同行していた社員や取引先、店の助けも得て一度自分の持参していたスウェットに着替え、取ってもらったホテルにてシャワーを浴び着替えを買いに行ってから病院に向かったとのことだった。
    「みんな大変だっただろうけど、凛は特に大変だったな」
    「同行してた奴がすぐにホテル取ったのは判断が良かった。カス部長は思い出しただけで気分悪くなるがな」
    「ほんとお疲れ様。アイス買ってあるし食べよ」
    「ん」
     午後はいつも通り菓子やアイスを食べながら糸師とのんびりサッカー観戦をし、夕方は二人で買い出しに出かけて潔が作った食事を二人で食べた。特別なことが起こらずとも、特別な場所に出かけなくとも潔は糸師と過ごす時間に安らぎを感じ楽しく思っていた。

    「糸師君、脱ぐとすごいらしいよ!」
    「出張の話聞いた!?」
    「災難だっただろうけど、糸師くんのカラダ見られるなら羨ましい…!」
     週明け、潔が出勤簿し総務のフロアに着くまでに見かけた女性陣はひそひそと、しかし黄色い声で話していた。
    (噂の速度ヤッバ!?まぁ出張同行者は凛以外にも3人くらいいたっぽいし仕方ないのか…?出張の出来事まで社内で話題にされるのはちょっとなぁ…)
     営業部的には大きめの事件だろうが、あまり社内で広まるのは糸師の迷惑になるのではと思った。
    (まぁ凛は出社する日の方が少ないし、その内収まるか)
     楽観的に考えていた潔だが、数日で出張での出来事がかなり詳細に伝わってしまっていた。凛が着替えのために接待で使った店で脱いだことや、その筋肉量、店の人の反応や対応まで伝聞され潔は自分のことではないにしても気分が良くなかった。
    「凛のことだけめちゃくちゃ詳しく情報流れてて…なんかネタにされてるみたいなのやだ…」
     翌日火曜に糸師が出社したので、一緒に昼食を食べている際にそう漏らすと糸師は首を傾げた。
    「何がだよ?好きに騒がせときゃいい。別に嘘を流されてるわけでもねぇしな」
    「メンタルつよ…」
    「どうでもいい連中に割いてやるものはねーんだよ」
     潔が糸師の心持ちに感心していると、糸師が携帯の画面を潔に見せた。
    「んなことより、これ食いてぇ」
    「うまそー!いいな作ってみようか。URL送って。今日行って大丈夫?」
    「ああ。帰りがてら買い出し行くぞ。定時で上がれるか?」
    「大丈夫!」
     糸師本人が全く気にしていないようだったので、潔の気持ちも軽くなった。
     そして定時を迎え総務のフロアを後にした潔だったが、扉の近くで糸師が女性と話しているのが見えた。
    (あ、あの人…)
     その女性は潔も面識があり、男性陣の中でかなり人気の高い営業部の人だった。優秀で気が利く上に可愛いと、多くの男性社員が密かに狙っている女性なのは間違いなかった。恐らく糸師の次に注目されている人物で、美男美女同士絵になる光景だった。
    (おお…!凛が普通に話してる…!……これほんとに俺邪魔なやつじゃない?)
     以前糸師が女性と話していた時は明らかに迷惑そうだったが、今は普通に会話が成立しており嫌がる素振りは見せない。潔に気づいた糸師が会話を切り上げたようだったが、空気が悪くなることもなく実に自然だった。
    「凛お疲れ。ごめんな来てもらって」
    「いや、逆に待たせた」
    「いいよいいよ。凛にも普通に話せる同僚がいるのは良いことだし!」
    「別に…あいつは出張で一緒だったってだけだ」
    「あ、もしかしてホテル取ってくれた人?」
    「ああ」
     なるほどなぁ、と潔は糸師と歩きながら納得した。
     買い出しを終え糸師の自宅に向かい、食事を作っている時に潔はふと考えた。
    (あれ、もしかしてこれって…凛の彼女になりたい人達がやりたいことなんじゃ…?)
     糸師の家に招かれるのも、手料理を振る舞うのも、それを美味しいと言ってもらえるのも、きっと彼女達が今でも夢見ていることなのでは。自分はもしかしなくとも、彼女達だけでなく糸師のチャンスも奪っているのではないかという思考に陥った。
    「あのさ、俺…邪魔だったら言ってもらっていいから…」
     潔が帰る前に玄関先でそう告げると、糸師は低い声で「あ?」と返した。
    「いや、凛が彼女作るチャンスを俺が潰してるんじゃないかって気づいて…」
     糸師の好意と居心地の良さに甘え、糸師の時間を結果的に奪ってしまっているのは事実だった。もし糸師に気になる相手がいるというのであれば、潔はすぐにでも糸師の部屋から自分の痕跡を消すつもりだった。
    「俺が一体いつそんなこと言った?勝手に気色悪い解釈するな」
    「や、でもほら…凛は人気だし引く手数多っていうかさ」
     糸師があまりに不機嫌そうな態度を取るので、潔は思わず萎縮した。するとドンッという音と共に、糸師の顔が間近にまで迫った。
    「俺は、お前がいいから部屋に呼んでんだよ。他の奴の話なんて死ぬほど興味ねぇ」
    「ァ……ウン…ありがと……」
     いわゆる壁ドン。こんなことまで自分が独り占めしてしまっている…潔は申し訳なく思ったが、ひとまず糸師の心臓に影響を与えるほどの顔面から顔を背けた。
    「じ、じゃあ帰るな」
    「気をつけて帰れよ」
    「うん。またな」
     潔は糸師に手を振り、部屋から出て帰路に就いた。
    (よかった、俺凛にとって迷惑じゃないんだ…)
     もし糸師に気を遣わせていたら、迷惑に思われていたらという考えが頭を過ぎることがあったので、潔は安心した。糸師が迷惑に思ったことを口にできないとは考えにくかったが、潔は糸師と友人として接する内にその優しさに驚くことが多々あったので面と向かって否定されたことは嬉しかった。


    「総務の潔って君?」
     ある日、潔の元へ突然営業部の男性が訪ねてきた。
    「はい、潔は僕ですけど…」
    「俺営業二課の林。初対面で悪いんだけどさ、ちょっと相談したいことがあるから時間欲しくてさ」
    「はい、今でしたら時間空いてますけど、どこか会議室取ります?」
     会議は基本的に社内の空いている部屋を予約しなければいけないので、潔は社内システムで空きを確認しようとしたが「いやいや!」と言われ林の方へ振り返った。
    「プライベートなことなんだよ。だから会議室で話すのはちょっと…」
     見ず知らずの人物にプライベートな相談を持ちかけられるような心当たりがなく、潔は小首を傾げた。
    「プライベート…?」
    「あー詳しい話はここだとちょっと…今日の夜とかどう?近くに美味い店あるから行こうぜ?相談料として奢るし!」
    「はぁ…じゃあ終わったら一階の出入り口で待ち合わせしましょうか」
    「サンキュー!それじゃまた後で!!」
     爽やかに去って行った林を見て、潔は心の底から“なぜ自分に?”と思ったが、しばらくしてもしや糸師絡みなのではと思い至った。
    (俺の一存で凛に手間かけさせるわけにはいかないからなぁ…何かあってもシャットアウトしなきゃ)
     今のところ、糸師は潔以外と交友するつもりが全くなさそうだった。山ほど来るチャットも全てブロックで拒絶して社内でも相変わらずの有様であることは確認できていたため、林に対して警戒することにした。
    「糸師を合コンに呼びたいんだ…」
    「それは無理ですね…」
     定時を終え林と待ち合わせた潔は、林の案内で飲食店に入った。そして用件を明かされて即、林の希望は到底叶えられないことを示した。
    「即答すぎんだろ!お前糸師と仲いいだろ!?取り持ってくれよ!」
    「俺がり…糸師と仲いいのは、サッカーっていう共通の話題があるからですよ。そうでなかったら俺もみんなと同じくずっと目も合わせてもらえないままだったと思います。というか本人に言った方がいいんじゃないですか?」
    「言ってんだよ!もう両手でも数え切れないほどにな!でも全部却下で取り付く島もねぇの!」
    「それなら本当に無理だと思うので、諦めた方がいいと思います」
     至極真っ当な助言だった。糸師が一度拒否したものを受け入れるところは見たことがなかったし、合コンなど糸師が最も時間の無駄だと思ってそうなイベントの筆頭だった。しつこく誘おうものなら、好感度は下がる一方であることは確実だった。
    「頼むよ…ほんと…1回でいいんだ…!」
    「1回でも嫌ということだと思うので…」
    「あーもう、俺の計画が…」
    「計画?」
     聞けば林はプライベートで飲みサークルのようなことをやっているらしく、手広く人脈を広げツテのツテで芸能人とも繋がりを得ているらしかった。その流れで「会社にいるイケメンを連れてくる」と大口を叩き、女性陣から期待されているらしかった。
    (凛が一番避けたいタイプの集まりじゃん…)
     これはなんとしても阻止しなければと思い、潔は林の誘いをことごとくブロックし、自分では凛を動かすことなどできないと主張した。
    「畜生…諦めるしかねぇか…」
    (よし、いい感じに防げたか…?)
     そろそろ時間も遅くなるので早く帰りたいとタイミングを伺っていると、林が潔に視線を向けた。
    「こうなったら潔、お前が参加してくれ」
    「え?」
    「このままだと糸師の存在が証明できなくて嘘になっちまう。それを避けるためには、俺以外に糸師のことを知ってる奴が必要だ」
    「えぇ…?」
     理屈はわかるが、潔の迷惑は一切考慮されていない申し出に潔は思わず表現を歪めた。
    「頼む!!これっきりだ!この1回だけでお前からも糸師からも手を引くと約束する!」
     正面から頭を下げられ、潔は困った。別の部署とはいえ、林は恐らく5歳前後年上に見える。頼みの内容はとても快く受けられるようなものではないが、今後二人分の平穏のためならそこまでめちゃくちゃな要求に思えなかった。潔が一人で数時間付き合えばいいのだから、負担としても軽めで済む。
    「まぁ…1回だけなら……」
    「サンキュー潔!連絡先交換しよーぜ!詳細は後日改めて!メシめっちゃ美味いとこ予約すっから!女の子のレベルも超高い予定だから期待してろよ!」
     突然元気になった林の変わりぶりはあまり考えないことにし、潔は林と連絡先を交換してその日はお開きとなった。
    〈日時は来週土曜日、18:00に○○駅北口集合!結構高い店行くから、服はラフすぎねぇ方がいいぞ!よろしくな!〉
     後日林から飲み会の詳細が届き、潔は面倒に思いながらも了解の旨を返信した。
    (そんな気はしてたけど土曜日か…金曜日会社帰りに短時間でって期待は崩れた…)
     潔の計画では来週の土曜日は糸師の部屋でだらける予定だったので、こうなれば糸師にも報告しておかなければと考えた。ちょうど翌日が金曜日でそのまま糸師の部屋に直行する予定だったため、ちょうどいいと思い退勤後に買い出しのリストの一番下に「林さんと飲み会の件報告」と付け加えた。

    「あ?合コンだ?」
     糸師に飲み会の件を報告すると、つい数秒前まで機嫌良く潔の作った料理を口にしていた糸師はあっという間に低い声で不満を表わしてきた。
    「そー。凛を連れて来てくれって話だったんだけど、断ったら俺で手打ちってことにしてくれたんだ。来週の土曜日に決まったから言っておこうと思って」
     週末は潔が食事を用意することが多く、糸師もそれを楽しみにしてくれていたので事前連絡しておこうと思ったのだが、想像より遥かに難色を示された。
    「別に怖い人とか来ないと思うし…危険はないぞ?」
    「んなくだらねぇ集まり時間の無駄だ。今からでも断れ」
    「そうしたいけど、これっきりでもう俺からも凛からも手を引くって言ってもらってるし…」
    「俺にしつこく誘いかけてる時点でんな話に信憑性あるわけねぇだろ。連絡先交換したが最後、都合良く使われるだけだ」
     糸師の発言ももっともだが、一度交わした約束を簡単に断るのは気が引ける。
    「大丈夫だよ1回だけだし。ご飯奢ってもらって終わり。まぁ知らない人が来るだろうから居心地は悪いだろうけど」
     合コンと言うのだから、知らない男女ばかりになるのだろうがそこは仕方がない。少し我慢して林の発言に頷く係をすればいいだけだと潔は楽観的に考えていた。
    「……来た女がしつこくお前に言い寄るかもしれねぇだろ。ただでさえ断れねぇお前だ。そこでも利用されるに決ってる」
    「信用ないなぁ…」
    「俺も行く」
    「ええ!?」
     それでは自分が糸師の参加を阻止した意味がなくなる、糸師が参加した時点でそれは合コンではなく糸師の一人勝ち集会になってしまうと止めたのだが、糸師は頑なに行くと言って聞かなかった。
    「俺とお前が両方参加することが条件だ。利用しようとしてくる奴全員ぶった切って二度と俺達を誘おうだなんて考えに至らねぇようにしてやる」
    「別にマルチ勧誘されるわけじゃないって…」
     潔は糸師に促され、林に連絡し糸師が参加する旨を伝えた。林は大喜びで了承したが、潔は別方向の心配を始めた。
    「やっべ凛何着てく!?気乗りしない集まりとはいえ浮かない格好にしなきゃ…」
     凛一人でパリコレになるからな〜と唸りながら、潔は自分の持っている服を思い浮かべた。
    「シャツとジャケット着ればそれでいいだろ」
    「それで全部解決にはならないから考えてんの!」
    「お前はどっちかというとジャケットよりカーディガンが似合う」
    「そう?凛と被るし俺はカーディガンにしようかな」
     着る服の相談はすぐに終わり、潔は糸師のクローゼットを見せてもらってあれが似合う、これも似合うと話して夜を過ごした。

    「りん〜、準備できてるか〜?」
     翌週土曜日、集合場所には一緒に行こうということで糸師の部屋に寄った潔は、準備を終えて現れた糸師を見てため息を吐いた。
    「…何のため息だよ」
    「凛は今日もかっこいいなってため息と、あと凛以外の男性陣は女性陣の記憶に残らず終わるだろうなっていう同情のため息」
     黒のハイネックインナーと、チャコールグレーのジャケットとパンツ。手に持っている革靴は黒に近いグレーで、これほどシンプルなコーディネートかつモノトーンの配色で決められる人物を潔は糸師以外知らなかった。どんな服装をしても顔が服に負けることもない。そしてどんな服装も着こなせる体格の持ち主で向かうところ敵なしだった。
    「どしたの?」
     糸師がじっと潔を見ているので尋ねると、糸師は潔のカーディガンを指差した。
    「いや、似合ってる。特にそのカーディガンが」
    「それはドーモ」
     カーディガンは以前糸師と出かけたときに糸師が店先で似合うと勧めてくれたものだった。他は白いシャツに黒いパンツで無難な構成にしていた。
    「じゃあ出かけようか。戸締まり大丈夫?」
    「ああ」
     二人は一緒に部屋を出て、待ち合わせ場所の六本木へと向かった。
    「凛と一緒で良かった…六本木とか行ったことねーもん……凛といれば六本木だろうとどこだろうと安心だ…」
    「お前すぐ道聞かれるから離れんなよ」
     糸師の参加が決まってから会場が知らされたので、まさか六本木などという自分とは縁遠い場所とら思っていなかったのだ。知らない場所というのもあったが、場違いな自分がいたたまれなくなるので糸師と行動できることで不安も解消しありがたかった。日本どころか世界に行っても通用するであろう容姿に通行人も目を奪われ、待ち合わせ場所に着くまでに3回声をかけられ足止めを食らったほどだった。
    (早めに出たつもりだったけど、やっぱこういうところに来る時はもっと時間に余裕持たないとダメだな…)
     糸師が街中で人々に与える影響も考えて行動しなければと気持ちを新たにし、二人は駅の近くにあるわかりやすいモニュメントの前まで辿り着いた。
    「糸師!潔!」
     すでに林が来ており、二人に気づいて手を振った。
    「お疲れ様です」
     一目でこの日のために気合を入れているのだとわかる高そうなスーツだったが、どんな服装をしたところで糸師の足元にも及ばないというのが潔の感想だった。その証拠に糸師は挨拶もせず視線すら向けていないというのに、参加者らしき女性達の視線を釘付けにしていた。
    (6人と6人の合コンだから、もうすぐ揃うか)
     集まったメンバーを見ていて移動のタイミングを図っていると、「あの…」と誰かが声をかけてきたのが聞こえた。
    「あれ、メンバーにいたんですか?」
    「そうなの。林さんに誘われて…」
     糸師が出張先で助けられた女性。名前が咄嗟に出て来ずしまったと思ってると、林が「浅野さん!」と声をかけたので思い出せた。
    「知り合いだったのか?」
    「いや知り合いってほどでもないかな。入社直後に1回助けてもらったことはあったけど」
     浅野とは初対面ではなく、潔が入社当時に運送業者の人間に配送先を質問され、わからず困っていたところを偶然居合わせた浅野が助けてくれたという出来事があった。しかしそれきり話す機会も特になく、時折社内で見かけた際に挨拶する程度だった。
    (浅野さんも林さんに押されたタイプか…)
     林に呼ばれたきり解放されない浅野に同情しつつ、潔は糸師と雑談をしていた。

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