整骨院21「原子番号73 タンタル 」(途中)(整骨院の先生52歳×会社員50歳)
脱衣室の小窓から見える空が少し群青色に変わっていた。
視線を落とすと地面近くは水色に。
あと一時間もすれば日が昇るだろう。
驚くほど長くて、驚くほど短い夜だった。
ヴァッシュは、小さく息を吐き、その息の白さに身震いをしながら、タオルで髪の毛を荒く掻き混ぜた。目の前の洗濯機はいつものようにヴィー、ヴィー、と水音とともに振動している。そうだ。いつものように。変わらないのに。
「出たよー」
「おう」
リビングから低い声が返される。ウルフウッドの方がずっと疲れただろうに、帰宅してすぐ「先にシャワー浴びてきい」と浴室に押し込まれた。抗わなかったのは、手の震えが止まらなかったから。両方の手の平を見る。
震えは止まっていた。
きっと家に戻ったからだ。
昨夜、九時過ぎに玄関のインターホンが鳴った。こんな遅い時間に誰だろう、と出てみると電器屋の奥さんだった。
「ごめんなさい、うちの人、何だか様子がおかしくて」
いつもの落ち着いた雰囲気ではない。
「私の勘違いかもしれない。でも、顔が、半分、」
必死に笑顔を作ろうとしている。けれど、目線が合わない。ウルフウッドが無言のまま飛び出した。ヴァッシュも携帯端末と財布を掴んでから後を追った。電器屋はすぐ斜め前にある。
何度も訪問したその馴染みのある扉をガラガラと開け、いつものように花が飾られた玄関口で、我慢出来ずに声を投げ掛ける。
「ウルフウッド、救急車呼んだ方がいいか!」
奥から声が聞こえる。
「頼むわ! ここん住所、言えるか」
「大丈夫」
靴を脱ぎながら数字を押す。オンフックにし、発信音が出るのを確認しながら、廊下の暖簾に頭をくぐらせる。
「母ちゃん、オヤジんお薬手帳、出してくれるか。そん後でええけど、保険証と、靴も」
ツーコール目で相手が出た。
『はい、救急です。火事ですか、救急ですか』
「救急です。具合の悪い人がいます。救急車の出動をお願いします」
『はい、そちらの住所を、市町村名からお願いします』
「分かりました」
端末に向かってここの住所を伝えながら、ウルフウッドの背中を見る。ソファの下に座り込む電器屋さんの脚が見えた。
『容態を教えてください』
「はい、分かりました。ウルフウッド、頼む」
オンフックのまま、ウルフウッドの口元に端末を寄せた。
「七十五歳、男性です。一点目、顔の麻痺です。左側に麻痺が見られます。二点目、腕の麻痺です。左側の腕が上がりません。三点目、会話の障がいです。舌が回らず、言っている内容がこちらに伝わりません。呼吸に異常なし」 ――脳梗塞だ。
ぶわっと頭が後ろに引っ張られたような気がした。大切な養母はこれで旅だった。
「今は目を閉じており、こちらの問い掛けに反応はありません。ああ、唸りました。オヤジ、聞こえてるんやな ああ、意識はあります。観念してるだけです」
小さく低く呻く声はヴァッシュにも聞こえた。それが良いことなのか悪いことなのかは分からない。胸の中央が押されたように痛む。
『分かりました。あなたはご家族ですか』
「はい、私はこのご自宅の斜め前に住んでいるニコラス・D・ウルフウッドです。整骨医をしています。はい、稲荷町整骨院です。母ちゃ…、奥さんの話では、会話をしているうちに様子が変わったことに気付いたそうです。気付いてから今は、……母ちゃん、オヤジん不調んこと気い付いてからどんくらい時間たっとるか分かる?」
ウルフウッドが奥さんを見ると、奥さんは掛け時計を見てから少し自信なさそうに、両手で数字を表した。
「二〇分ほど経過しているようです。お薬手帳を見ると、かかりつけの医者は――」
その間にヴァッシュは、空いた手でお願いの形をとり、端末を奥さんに手渡した。いつも置いてあるメモ帳に「オヤジさんの保険証と、袋に入れた外靴を用意してください」と書き、うなずくのを見てから、再度、端末を受け取る。
「分かりました。待機します」
『どなたか、家の前に居てくださるとありがたいです』
「分かりました。家の前に立つようにします」
短く礼を伝える言葉が端末から聞こえ、そして会話が終了した。通話を切断するボタンを押したヴァッシュは、端末を机に置いて立ち上がり、ソファの後ろに回った。
「ウルフウッド、オヤジさん、横向きに寝かせよう」
「おう」
「麻痺が出てるのが左?」
「せや」
「じゃ、左が上。奥さんがいるほうに顔を向けて」
胸の痛みは収まらない。ヴァッシュはソファに覆い被さるように両手を伸ばし、後ろから電器屋さんの両脇に手を入れた。左腕は、ぐにゃりと力が入らない。オヤジさんの胸の前で両手を組み合わせると、ウルフウッドは足を抱えていた。目で合図をしてゆっくりと同時に持ち上げ、オヤジさんをソファに横たえた。
「呼吸はちゃんとしとるな。そこん座布団貸してくれるか」
「はい、どうぞ」
ウルフウッドが座布団を二つ折りにし、オヤジさんの肩の下に入れた。
「呼吸がしやすくなるの?」
「おう。顎が上がるやろ」
「ホントだ」
――知らなかった。
レムが倒れた時、何をしたらいいのか分からなかった。急に動かなくなった彼女を何度も揺らし、途方に暮れて、しばらくしてようやく救急車を呼ぶべきだと気付いた。固定電話は階下の廊下にあり、症状を聞かれても、要領を得ない返答しか出来なかった。住所すら満足に言えなかった。「近くに大人は居ますか?」と聞かれて、もう何も言えなくなった。サイレンの音が止まるまで受話器を握りしめていた。
当たり前だ。その時の自分は小さかった。でも出来たことはあったはずだ。どうしたらよかったんだろう、とネットの検索機能が普及してきた中で調べた「脳梗塞 救急車 到着するまでにやること」で、その当時の自分の対応のまずさ加減に項垂れた。時間との勝負であること、呼吸がしやすい姿勢で救急車の到着を待つこと、麻痺があればそちらを上にして寝かせること。やれることはたくさんあった。知らなかったから出来なかった。
知っていれば。
知ってさえいれば。
いつも目を見開いて、ウルフウッドを罵倒するオヤジさんが、目を閉じて、何も発しない。そんなオヤジさんを見下ろすの初めてで。ヴァッシュは目線をオヤジさんの服の皺の先へと動かしていく。
自分は今、何を見ているのだろう。
「おーい、オヤジぃ。今日の夕飯何食べたん」
のんびりとしたウルフウッドの声に、自分の肩がひくりと震えるのが分かった。
「まーた、母ちゃんに何も言わんと黙々と食っとったんやろなあ。ちゃんと美味いて言うたらんとあかんで。お、ちょい指動いたな。言うたん?」
ソファに横たえたオヤジさんの脇に片膝を立てて座り、その肘に頬杖を付いたウルフウッドが呼びかけている。声音は穏やかだった。しかし目線は動き回り、表情も堅い。その後ろには荷物を抱えてぺたりと座り込んだ奥さんがいた。
――ああ、これ以上、奥さんには心配を掛けまいと。
じわりと目頭が熱くなった。優しい人なのだと改めて思った。胸の痛みが和らぐ。あ、いかん、鼻水が。ヴァッシュは鼻から息を吸い込んで言う。
「ウルフウッド。俺、外で待つよ。後ろから追い掛けたいから、一台タクシー頼んでおくね」
見上げたウルフウッドの顔がふわっと緩んだ。
「おう、頼むわ」
その表情に、自分が役に立てているのだと嬉しくなる。
「サンダルで来ちゃったでしょ。靴下と靴と、あとは上着かな。君の携帯もか。持ってくるね」
「おう、ありがと」
「眼鏡はいるかなあ」
書類書くのに君は老眼鏡が必要でしょ、とペンを持つ仕草をすると、むう、と口をへの字にされた。しかしそのまま小さくうなずかれたのでワハハと笑う。
「ヴァッシュさん、助かります。ありがとう」
奥さんが深く頭を下げてきたので「とんでもない」と手を何度も振った。
「七、八分で到着すると思うので、奥さん、もしお着替えされるようなら今のうちに。ウルフウッドが救急車に乗ることにする? それなら奥さんは俺と一緒にタクシーで追い掛けるし」
不思議そうな顔をした奥さんに、「ほとんどの場合、同乗は一人までなんです」と伝えると、小さくうなずかれた。
「そうね。あなたが救急車に乗ってくれた方がいいわ。私より説明上手だし。私もヴァッシュさんとタクシーの方が気が楽だもの」
硬さが少し取れた奥さんの様子にほっとしながら、「それじゃ、一回戻るね」と立ち上がった。
足早に自宅へと戻る。ガチャリと開けた玄関は、自分の家の匂いがした。トントンと階段を上がり、居間に入って愛用のエコバッグにウルフウッドの携帯を入れる。自室に入って靴下を履き、薄い上着を羽織る。ウルフウッドの部屋からも靴下と上着を取り、電気を消す。居間の電気を消し、トントンと階段を降りる。ウルフウッドの靴を持ち、玄関口を消灯して、動きを止めて、ヴァッシュはその暗闇を見回した。
次に灯りを付けた時、何を感じているのだろう。
胸の中をすう、と冷たい風が凪いでいった。
「……」
ヴァッシュは玄関の扉を閉め、それから整骨院の玄関へと回った。
おそらく明日の開院時刻は遅くなる。間に合うようならその時変えればいい。ヴァッシュは「閉院中」から「本日休診」に表示を変えて、足早に電器屋へと戻っていった。
その後は早かった。近所で馴染みの個人タクシーに電話を入れると「そりゃ大変だ」と駆けつけてくれ、そのすぐ後に、救急車が赤色灯ランプだけを回して静かに到着した。ウルフウッドと救急救命士のやりとりの後、ストレッチャーに乗ったオヤジさんが運ばれて行く。こちらに目を向けたウルフウッドに小さく手を挙げて「すぐ追いかけるね」と口を動かすと、うなずかれた。ストレッチャーを追うように、その大きな背中を丸めて、車の中へと入っていった。
ヴァッシュは奥さんとタクシーの後部座席に乗り、救急車の後を追う。夜は十時を過ぎ、車の通りは少なくなっていた。それでも向こうは救急車両、こちらは赤信号に止められて、間にどんどん車が入っていく。少し焦り、身体を運転席の方へと前に乗り出すと、左手を握られた。
「ありがとう」
「え」
右に座った奥さんが静かに微笑んでいた。
「あなた方が居てくれて、とっても助かった」
「そんな」
「ほら、うちは子どもが居ないでしょ。だから、あの人がなんだかおかしくなって、慌てて相談したら、そうしたら、あなた方が来てくれて、ぱぱっと動いてくれて、あっという間に、あの人は救急車に、私はタクシーに乗っている。そのどちらにも心強い人が付いてくれている。そのことが嬉しくて」
「――」
赤信号なのだろう。タクシーがまた止まるのが分かった。けれど、浮き上がった尻は、今は座席に下ろしていた。奥さんが少し下を向き、目を閉じる。その後ろを、車の灯りがいくつもの流線型を描いていく。
「あのね。もう、私ら、いい歳なのよ。こんなことも、少しは想像してた。でも、でもね、こんなふうに、助けてもらえるなんて、思ってもみなかった。最速で、最善の策をやってもらえたんだもの。どうなっても大丈夫よ。どうにかなります」
もう片方の手で手の平を包まれて、ポンポンと叩かれた。温かくて、優しくて、皺のある、小さな奥さんの手。
「ま、あの人だしね。簡単にくたばりゃしないわよ」
「わはは、ホントにな!」
タクシーの運転手さんがガハガハと笑った。そうだ、この人も電器屋さんと仲良しで。
「それもあの子に介護なんかされてみなさい。悔しくて悔しくて、リハビリしまくるわよ、きっと」
「違いねえな!」
ああ、やはりこの人は、ウルフウッドの育ての親なのだ。優しくて、強い。
「はい」
ヴァッシュは頷き、少し笑った。
ブルリと端末が震えた。
画面には、搬送先を知らせるウルフウッドからのメッセージが表示されていた。
「西病院だそうです」
「そっちか。了解。そこだと救急入口はどこになるかねえ」
「調べます」
運転手さんの言葉に、ヴァッシュは端末操作をする。
「正面ではなく左側ですね。誘導します」
「おう、頼むわ」
ヴァッシュは運転席と助手席のシートに両手を掛けて、身体を乗り出した。
救急入口は小さかった。真っ暗な建物の中、そこだけ緑色に光る表示だけが浮き上がって見えた。「いつでも連絡くれ。迎えに来るから」との言葉に、奥さんと一緒に何度も頭を下げ、タクシーに手を振ってからガコン、と戸を開けると、警備員が小さな窓から顔を出した。
「すみません、先ほど救急車で搬送された人の身内です」
「はい、ここに記入をお願いします」
渡されたボールペンを持ってみてから、ヴァッシュは自分の指が震えていることに気付いた。情けないな、と思いながら、名前と連絡先、そして今の時刻を記入する。
「ウルフウッド」
奥さんの声に、身体がひくりと反応した。見渡すと、青緑色のつるんとした長椅子にウルフウッドが座っていた。
「おう、お疲れさん」
そう言って、両手で自分の顔をごしごしと擦る。だいぶ疲れた表情だった。気になって近づくと「大丈夫やて」と手を振られる。
「オヤジは処置室や。おそらく血栓取ることになる思う。かあちゃんが早よ着いてよかった。同意書の記入頼むわ。医者も話したいって言うとった」
「――ええ、もちろん」
奥さんと同様、ヴァッシュも一瞬戸惑った。それに気付いたのだろう、ウルフウッドが苦笑いをした。
「奥さんがこれから来ます、て言うたら、親族の方がええ、て言われたしな」
そうか。
そういうものなのだ。
すうっと頭が冷えた。
どんなにしっかりと説明が出来ようとも、どんなに医者の話が理解できようとも、縁者に勝るものはない。
自分には絶縁状態の兄が居る。
もう何十年も連絡を取っていない、
ウルフウッドがもし事故などに遭ったとしても、このご近所の方々が居れば、おそらく自分には連絡が来る。でも、自分がそういう状況になった時に、ウルフウッドには知らせが行くのだろうか。入社した時、書類には誰を緊急連絡先にしていただろう。兄かもしれない。でも。
キインと耳鳴りがした。
でもはっきり言えるのは。
それはウルフウッドではない。
「ヴァッシュ」
両手が温かいもので覆われた。のろのろと下を見る。
ウルフウッドが自分の手を握ってくれていた。
ああ、大丈夫だ。今はその時ではない。
(以下、続きは本誌にて)