アサリカレーは痴話喧嘩の波乱を見るか?比治山と沖野は寒風吹きすさぶ公園で向き合っていた。
そこは彼らの新居となったマンションの狭間にある有り触れた空間で、日中は近隣の住民が思い思いの時間を過ごす憩いの場だが、日が落ちて数時間も経過すると家路を急ぐ会社員や密やかなる逢瀬を楽しむカップル以外の姿はなかった。
彼らも普段はそのうちの一組、であるはずだが今日は違う。
「ツカサ、せめてマフラーを巻いてくれ」
「それは今関係ないだろ」
熱く湿った息が白い色になって吐き出される。上着だけは羽織っているものの、沖野の姿は真冬の公園ではあまりに薄着だ。
街灯に照らされた鼻が赤く、そればかりが心配な比治山であったが彼もまたろくに防寒具も身につけず、手に沖野のためのマフラーを掴んで来ただけである。
「僕は隆俊が信じられない」
凍える身体を誤魔化すように沖野は自分自身を抱きしめた。痴情のもつれの気配を察知した通行人が踵を返して迂回していく。
「ツカサ……だが、俺は――」
比治山が手を伸ばすと沖野は一歩遠くに行ってしまう。伴侶を今すぐに抱き締めて温めてやれないのが歯がゆい。しかし彼が自分を拒むのならどうすることも出来ない。
発端は十分前に遡る。
「今日の夕食ってもしかして!」
「カレーだ。好きだろう、お前」
「隆俊が作るのならね」
敷島の深宇宙探査計画で運命的な出会いを果たした二人はプロジェクト終了と共に地球に帰り、結婚準備のための交際期間を経て新生活を始めた。
二人で暮らすための部屋、二人で暮らすための家具、二人で暮らすための取り決め。
旧世紀を踏襲したままごとのような日々は何もかもが新鮮で、幸福に満ちている。
今日の料理当番は比治山だ。沖野は食欲をそそる香りに引かれてキッチンへ顔を出し、焦げ付かないように鍋の番をしている比治山の腰に絡みついた。とろりとした欧風カレーは彼の得意料理だ。褐色の海を泳ぐレードルの軌跡をうっとりと眺める。だが、すくい上げられた具材を目にして突然身を固くした。
「ツカサ?」
「アサリ……。隆俊、アサリを入れたのか」
「あ、あぁ……」
沖野は偏食家だが、アサリが食べられないとは聞いたことがない。むしろ魚介類は好んで食べていたような記憶があるし、比治山の勧めるものはとりあえず食べてくれるようになったはずだ。
腰に回された腕が責めるような調子で締め上げられる。
「覚えておいてくれ、隆俊。僕はカレーに入っているアサリを許せないんだ」
「そ、そうだったのか、すまない……」
具が寂しくなるが避けてよそってやろう、今なら別の具を入れても間に合うだろう。
「どうして人類はアサリの出汁とカレーが合うと思ったんだろう」
比治山の手が止まる。このカレーにはアサリの蒸し汁を使っている。いわゆる旨味たっぷりというレシピだ。しかしそれが沖野の口に合わないのであれば、具を避けて良しとはなるまいではないか。
偏食は良くない。せっかく腕によりをかけて作ったのだから食べてほしい。レシピのことは黙っておくべきか、否、口に入ればすぐに分かるだろう。たとえ気付かれなかったとしても騙し討ちのようなことは気が咎める。
「ツカサ……。その、今日のカレーはアサリの出汁を使っている」
比治山は正直に告白した。
「なんだって! 隆俊は、ああ、いや僕が浅慮だった。隆俊はカレーにアサリを入れたい人なんだな……」
腰に回された腕がするりと離れていく。静かな失望の気配を感じ、比治山は慌てて火を止めて振り返った。
「試しに、食べてみないか! その、気に入るかは分からないがツカサのために作ったんだ」
「……。それは、疑わないよ。でもごめん。今はどうしたらいいか分からない」
脱兎のごとく、二人で暮らすためのダイニングキッチンを沖野が出ていく。
「ツカサ!」
室内の扉が何度か開け閉めされる音が聞こえ、最後に玄関で物音がした。
まさか外に行ったのか!
もう遅い時間だ。再び火の元を確かめてからエプロンを剥ぎ取った比治山は取るものも取らず鍵とマフラーだけを掴んで沖野を追いかけた。
「別に食べられないくらい嫌ってわけじゃないんだ。でも、隆俊がそれを好きだってことが信じられない」
沖野は公園で追いついた比治山に言った。
彼は随分と性格に難のある男だったが、このように言葉を選ぶようになっただけかなり成長したと言える。以前の沖野なら断固として喫食を拒否して栄養バーを齧っていたところだろう。
比治山の愛に染まってくれた、愛しい伴侶だ。
彼は今、愛ゆえに悲しみを抱いている。
愛する人が自分の嫌いなものを好き。そんな単純で有り触れたことが、この幸せばかりの生活に影を落とす。
「実家に行って頭を冷やしてくるよ」
既に手配していたのか、沖野は公園入口に停車した無人タクシーに滑り込んだ。すぐにドアは閉まり、車体が夜の闇に消えていく。
「待てツカサ、実家だと!? 待ってくれ!」
無駄だと分かっていても比治山は走り出さずにはいられなかった。
しかし、
「ぐっ!」
焦るあまり強かに車両侵入防止柵に脛をぶつけて悶絶する。どうにか転倒は避けたがしばらく立ち上がれそうにない。
沖野に実家と呼べる場所は無いはずだ。一体どこへ行くというのか――。
*
馬鹿なことをしたものだ。車窓から夜の街を眺め、沖野は溜息を吐いた。
比治山との暮らしはとても幸福だが、自分を加速度的に愚かにする。カレーに入っているアサリくらいどうだっていいじゃないか。好き嫌いなんて隠しておいて食べてみてから苦手だったかもと言えば比治山だって可愛げを感じて笑ってくれただろう。
隆俊は僕に甘すぎるんだ。
またしても酷い責任転嫁である。恋人として、そして伴侶として上手くやれていると思ってはいるが、そもそも人間としての経験値が年齢差を考慮してもかけ離れ過ぎている。
だから、甘えるのがどうしようもなく心地良くてやめられない。
設定通りに辿り着いた住宅街の一軒家の前で車を降り、インターホンを押した。
応答の先に訝し気な気配が滲むが構うものか。
「ごめんくださーい」
きちんとカメラに顔を映してやると家主は息を飲み、開錠した。
「……まさか君の家もカレーとは」
「なぁ、帰ってくれねぇか」
「お構いなく。僕は家に夕食があるので」
通されたリビングは丁度食事の真っ最中だった。幸いにもアサリは入っておらず、その代わりにルゥが見えないくらいに野菜がたっぷりと入っていた。
野菜は嫌いだ、と沖野は思った。これならアサリのカレーを食べる方が抵抗は少ない。
遠慮のない観察に辟易したのは家主である和泉十郎だ。どうして部下の伴侶にアポ無し訪問をされねばならない。理由は聞いていないがきっとロクなことではなかろう。
さっさと比治山を呼んで引き取らせたいところであったが、今日はこのカレーの調理者であり、和泉の内縁である森村が居た。全くの偶然ではあるが……期せずしてここは沖野の実家の様相を呈していた。
深宇宙探査プロジェクト中に明らかになった、彼女の遺伝子を沖野が継いでいるという事実は一部の関係者には既によく知られたことである。森村は彼を追い返すことを望まないだろう。
「どうなの、最近」
「順調、かな。お上は仕事しろって煩いけど」
「そう」
遺伝上の親子達は驚くほど会話が続かない。沖野は目も合わせず通信回線を確認しており、カレーの香りだけが場を温めている。
和泉は比治山の登場を祈った。確かに比治山のことは古巣で歳の近すぎる息子のように可愛がったが、その伴侶の面倒まで見てやる気はない。いい大人なのだから自分たちで解決しろ。俺のロマンスを邪魔するな。
食事を味わうことだけに集中してしばらく、和泉のデバイスが鳴った。
『すみません、和泉さん。そちらにうちのツカサが……』
「比治山ァ!」
並の男なら身を竦めるような声に、しかし沖野も森村も顔色を変えない。緊張を表したのは通信越しの比治山だけだ。
「さっさと回収に来い」
『……はい』
唸り声に応えた男は捨て犬のようだった。
*
お世話になりました、と沖野は比治山にならって頭を下げて和泉の家を辞した。先に彼に謝っておきたかったが、こういう場ではまず外の人間に礼節を示すべきだということは知っている。
森村は気にせずまたいらっしゃいと言っていたので、これからは彼女の研究所も実家としてカウントすることにした。
「ごめんね、隆俊」
二人きりになった自動運転車の後部座席で手を重ねる。
「もしかして僕を追いかける時に転んだりした?」
「どうしてそれを」
「歩き方がいつもと違った」
比治山が些細な好みを把握するほど沖野を気に掛けているなら、沖野だって比治山のことを見ているのだ。元海兵隊員の観察眼には及ばないが、好きな相手の歩き方くらい分かる。
「なに、転んではない。少しぶつけただけだ」
「ごめん……」
「気にするな。俺が間抜けだっただけでツカサは悪くない」
真冬の夜の街が車窓を流れていく。比治山は一度家に戻ったのかコートを着ていて安心した。持ってきたくれたマフラーはこのままマンションの前に車を付けるなら必要ないだろう。膝の上に乗せたそれを片手で撫でる。
「お前の好みがうるさいことは知っていた。聞いておけばよかったな」
「隆俊は僕に優しすぎるよ」
全く詰まらないことで喧嘩をしたものだ。
いや、沖野が一方的にへそを曲げたのだったか、何にせよ比治山は野菜が多すぎるカレーを作ることはないので、愛されているに違いないのだ。別添えで各々が食べたいだけトッピングすればいいようにした揚げ茄子などは沖野も気に入っている。アサリもそうすればいいし、何より沖野はまだ比治山の作ったアサリのカレーを食べていない。
くぅ、とどちらのものか分からない腹の音が鳴って顔を見合わせる。
「途中で何か買っていくか」
「ううん。君の作ったカレーが食べたい。……冷めちゃっただろうな」
「大丈夫だ。カレーは温め直しても美味い。気に入ったら明日も食べてくれるか?」
「もちろんだよ隆俊」
冬の寒風は車内にも、二人の家にも届かない。
キッチンまで帰りついた二人は余熱で底が多少焦げ付いたカレーを見て笑うのだった。
2023.06.12