「もう少しで終わるから待ってて」
「気にするな」
そんなやりとりをしたのは何十分前だっただろうか。
想定外に難航した作業をようやく終えて、凝り固まった身体で伸びをする。
隆俊が部屋に来る前に終わらせておくつもりの仕事が終わらなかった。近頃こういうことが増えた。そのたびに僕は彼を待たせている。
これは決して僕の無能さではなく、コロニーの人員離脱に伴っていくらでも増えていく仕事量のせいだ。
一方で彼の仕事は緩急の波こそあれ、比較的減少傾向にあるそうだ。それもそうで後回しになっている警備部の連中の帰還が始まるまで今が最も人員過剰の時期だろう。
地球で死にたい人間に帰りの船を。終末はもう決定していた。
なのに僕は仕事だ! どうにかして人類が残っているうちに完遂したい算段でありながら二転三転どころか全く原形のない仕様、終わらない要件定義。全くやってられない。人間が前世紀からいかに進歩していないか身に染みて理解する。
幸いなのは一度手を離れさえすれば、芸術的な九龍城或いはスパゲティモンスターと化したコードのメンテナンスが金輪際発生しないことだけだ。
僕も彼も、人類はみんな死ぬんだから。
「お待たせ、隆俊――」
振り返って、慌てて口をつぐんだ。だけど時すでに遅し、電子書籍に目を落としていた彼の視線が僕へ向く。
「ごめん、勉強中だった?」
「構わない。復習のようなものだ」
「……そう」
もう認定を出す機関なんてとっくに機能停止しているのに、隆俊は今も時間があれば資格試験のテキストを読み込んでいる。
*
「何それ?」
僕との待ち合わせに先に到着していた隆俊の手元を覗き込んでみると、電気設備関係の単語が目に入った。彼が顔を上げたのと同時に仮想モニタが消えてしまったから詳細は掴めなかったが、紙面構成から何かのテキストのように見えた。
「地球に戻った時に試験を受けようと思ってな」
「受験勉強? 寸暇を惜しんでってやつ?」
「まぁそんなところだ。俺は物覚えが悪いからな」
今日の約束は食事から。お互いに分かっていることを確認するまでもなく歩き出す。
「隆俊は別に頭が悪いわけじゃないよ。覚え方が自己流だから、試験だと苦労するタイプだと思うけど」
「言うじゃないか」
「君の事が色々分かってきたからね」
例えば彼が既にいくつもの資格を持っていること。海兵隊時代に取得したというそれらは人命救助と安全管理に片寄っていること。今もコロニー警備員として職務以上のことを学ぼうとしていること。若い頃より勉強が身につかないと密かに嘆いていること。
それから、僕という恋人との時間が少し自己研鑽を邪魔していること。
「ツカサは……いや、聞くまでもないか」
「君みたいに勤勉じゃないから、もう増やす気はないよ」
僕も相当数の資格やライセンスを取得している。年齢にそぐわない能力を客観的に証明するために、施設時代に半ば義務的に取らされたものが殆どだ。
今となっては「沖野司」の名前だけで事足りる僕にも実績の無い未成年の頃があったのだ。
知り合って間もなかった時の隆俊は畑違いなこともあって、とにかくその数だけを新鮮に驚いてくれた。後でわざわざ難易度とか取得者数とか調べてもう一度驚きに来てくれたっけ。
そんな律儀な人、初めて見た。
十分に理解した事で試験を受けるなんて時間の無駄だと思っていたけど、隆俊みたいな人に伝わるなら無駄じゃなかったかもしれない。
「合格したらお祝いしてあげる」
「流石に気が早くはないか。試験だって何か月も先だ」
「一緒に居るに決まってるから祝わない理由はないだろ」
「それは……受からなければ申し訳が立たんな」
「真面目。落ちたら落ちたで残念会してあげるよ」
繋ぎ忘れていた手を繋ぐ。
僕はとにかく隆俊に何かしてあげたいんだ。
資格の数も種類もどうでもいい。答えが書いてあるテキストを何度読んでも覚えられないなんて、気の毒だとすら感じる。
でも何に対しても一生懸命な隆俊のことを僕は、とても好ましく思う。
だから結果なんて関係ない。
何があってもこうして隣を歩いていくと決めた。
*
ようやく手に入った二人の時間で、遠慮なく隆俊に寄りかかる。彼が開いたままの画面には電気設備資格のテキストと、コロニーの設備図が並んでいる。
「知っておいて損なことはない、かぁ」
ぼんやりとその内容に目を通す。もちろん僕の専門外で初めて見る単語の意味は推測するしかないが、隆俊が有事に備えようとしていることぐらいは読み取れた。
「インフラ部門も随分手薄になるようだ」
「遅かれ早かれ、修理しなきゃいけない時は来るってことだね」
その時に生きている人間に知識がなければ詰みだ。
「僕も僕の仕事を終えたらやること無いし、隆俊を手伝おうかな」
初級テキストから辿れば何とか付け焼刃ぐらいにはなるだろう。
彼の仕事は人が生きている限り存在する。すなわち僕が生きている限り、全て必要なことだ。
「優秀過ぎるアシスタントだな」
「任せてくれ。勉強は得意だったんだ」
残りの時間を隆俊と生きていくために僕は何だってしてみせる。
2023.10.01