「Thank You」 2 Endless Midnight Darkness(黒王子Ver.)目が覚めたら、見知らぬ天井が視界に広がっていた。
「う……ん」
「……っ!王子くん……!」
聞きなれた声が、いつもより甲高く響く。羽矢さんだ。
「王子!…目ぇ覚めたか。良かった……」
ゆっくりと視界が鮮明になる。声のする方向を見ると、ベッドからやや離れた椅子に互いに寄りかかるように座っていたののさんもいる。普段の気風の良さが鳴りを潜めて、少し声を震わせている。二人とも、疲れ切った顔をしていた。
椅子ごとこちらに来た羽矢さんがそっとぼくの手を包んでくれる。温かい。
「ここは病院よ。あなた、波に攫われたの。半日以上も寝ていたのよ」
それでぼくは漸く自分が病院のベッドに横たわっていることに気がついた。腕には輸液用チューブが取り付けられている。
「ご両親にも連絡済みだ。夕方にはお見えになる。安心しな」
ののさんが、羽矢さんの背後から頷きこみながら教えてくれた。
「ああ、そうだわ。カシオくんたちにも知らせないと。皆とても心配していたのよ」
そう言えば、カシオの姿が見えない。羽矢さんがいるなら、カシオもここにいる可能性が高いはずなのに。それ以上に、いるべき人の名前が出ない。
「……カシオは、どこに?」
ぴしっ。
凍り付いた水面を踏んだような緊張感が走る。
と、同時に病室のドアがノックされ開いた。こちらに歩み寄る人物に振り返ったののさんが、声をかける。
「おぅ、丁度いいところに来たな。ちょっとここ頼む。あたしたちは医師や皆に知らせてくるから」
「……っす」
その声。
軽く頭を下げ、羽矢さんと入れ替わり椅子に座ったのは、………みずかみんぐだった。
「……みずかみんぐ」
「……おそようさん。もう昼やで」
乾いた声だ。みずかみんぐも目の下の隈が色濃く出ている。
「カシオは、どこに?」
同じ質問を、投げかける。
「蔵っちのところや。お前より後に見つかってな、まだ診てもらってる」
…………ま、だ?…まだ、みて、もら…ってる?
「カシオやご両親、本部長と弓場さんとゾエがそっちについてる。俺はお前の様子を見に来たんや」
……な…なに、いってるの?
ぼくの唇は震えるだけで、言葉を発しない。それでもみずかみんぐは的確に答える。噛んで含めるように、徐に。
「溺れたお前を沖合の釣り船に渡した後、自分が助けられる前に流されたんや。そして、深夜に見つかった。意識不明でな」
………ねぇ、なに、いってるの?みずかみんぐ?
首を左右に振る。喉仏に彼の手の平がかかり、力が込められる。眉を顰める。
「なぁ、判ったか?お ま え を た す け て!蔵っちが、蔵っちが……っ、こんなんなったんやぞ!!このクソ王子!!!」
苦しい。酸素が、欲しい。視界が滲む。
クラウチ。
助けて、クラウチ……っ!
「何をしてるんですか!」
「手を放して!」
ぼくたちの間に割って入ったのは、カシオ。みずかみんぐを羽交い絞めにしているのは、ゾエくんだった。
荒く息を吐いたぼくは、朦朧とする頭で何とか理解する。でも、理解したくなかった。
短い呼吸が刻まれる。喉も、胸も、痛い。
ゾエくんの腕の中で藻掻いているみずかみんぐは、興奮状態のままだった。ふーっ、ふーっ、と熱い呼気を吐き捨てる。
「この時期の水温は二十度前後やそうや。本来なら二時間程度は意識が持つ。でも、お前を抱えていたから体力はかなり消耗されていたやろな。しかも、ドライスーツどころか浴衣やぞ。低体温症起こして当然や」
苦々しげに言い放った。
「きっと、きっと、大丈夫だよ。オージも分かってると思うけど、蔵っち体力あるから。ね?」
がっちりとみずかみんぐを捉えながらも、ゾエくんが柔らかく話しかける。それに同意するようにカシオが二度頷いた。
「医師方も、ずっと全力を尽くしてくれています。心拍数は安定してきたそうなんですが、意識が回復していないんです」
ぼくの手を包み込んだその両手は、必死に震えを抑え込もうとしていた。
「……嫌な予感が当たってもうた」
とんとん、とゾエくんの腕を軽く叩いて拘束を解いてもらったみずかみんぐは、ひとつ息を吐いて壁際の椅子に腰を下ろし、ぽつりと言った。
「いえ!寧ろ水上先輩がすぐに気づいてくださったお陰で、二人とも早期発見できたということでした。本当に、本当にありがとうございます!」
立ち上がったカシオが深々と頭を下げる。
「そうだよ、ゾエさん急に連絡貰ったからびっくりしたけど、頼ってくれて嬉しかったし」
「……?」
ぼくの視線を感じたゾエくんが、応じてくれた。
「あのね、昨日水上くんから電話貰ったんだ。『蔵っちと王子に何かあったかも知れへん。悪いけど今から宿までバイクで送ってくれへんか』って。こういうのって“虫の知らせ”って言うんだっけ?」
「そんなんちゃうわ。あの律儀な蔵っちが既読もつけんと、何かあったかと思うただけやんか。……杞憂であれば、良かったんやけどな」
「そして、宿で状況を把握した水上先輩が、おれたちや本部に連絡してくださってご両親がたにもお知らせできたんです。それだけではなく宿の方々に働きかけてくださって、該当の釣り船や搬入先の救急病院を早急に知ることができました」
「ほんとほんと、水上くんにはお礼をどれだけ言っても足りないよ。そんなに自分を責めないで」
みずかみんぐの傍らに腰を下ろし、目線を合わせたゾエくんは彼の両肩をやんわりと抱いてあげた。そこに手を置き、首肯する。
「そやけど蔵っち、今回の旅行めっちゃ楽しみにしていて、宿の名前や写真送ってくれるって言うてたし……それがこんなんなるなんて」
頭を左右に振った後、ぴたり、とベッドに横たわったままのぼくを見据えて続けた。
「………お前が原因なんちゃうか、王子」
絶対零度の声。
ああ、やっぱり気づいたか。
でも、ここからが本番だ。
「お前の傍にいて、蔵っちがお前を溺れさせる訳あらへんからな。蔵っちに何言うた?」
「……ただ、カメラのアングルについて提案しただけだよ。『遠景で撮ったら』って。ぼく、酔っちゃったみたいで…沖と岸を間違えたみたいなんだ」
「…………ほんまか」
「本当に」
「うわばみのお前が、か」
「ぼくだって、酔っぱらうことくらいあるよ」
燃え上がるような双眸を真っ向から受けて立つ。
ここで、言い負ける訳にはいかない。それくらいなら、こんなことしない。
ぼくは賭けには負けたけど、この勝負は負けられない。
他でもない、クラウチの為に。
……いや、違うな。ぼくの……為に。
それでもクラウチの負担はできる限り排除する。だから、負けない。
カシオとゾエくんは、寄り添うようにしてぼくらを見守っている。
ぼくは、みずかみんぐの出方を待つ。沈黙が場に満ちる。
「ほんまに他意はない、と言い切れるか」
「クラウチに誓って」
「『クラウチに誓って』…か。違えたら蔵っちに全部言うからな」
「どうぞ」
「蔵っちからの全幅の信頼を失うことになるんやで。それでも…構へんな……?」
「構わないよ。本当のことだからね」
虹彩を固定し、呼気も滞らなかった。
ここで僅かでも動揺すれば、全てが水泡に帰す。
永遠とも感じられる、十数秒が過ぎた。
肺の空気を空にするように、細く長く、みずかみんぐが息を吐く。
「……………分かった。この話はこれで、手打ちや」
「……うん」
………勝った。
この局面、ぼくの勝ち…だ。
完全勝利とは言えなくとも、御し得たのは確かだ。
もう、望むことはひとつだけ。
「……クラウチに会いたい」
「駄目ですよ。王子先輩もまた医師に診てもらわないと」
「そうそう、まずはオージ自身が元気になってからだよ」
「…………」
皆の顔を見やる。三者三様、安堵と疲労と緊張が綯い交ぜになっている。
ひとつ、息を吐く。流石のぼくも諦めざるを得なかった。胸の奥がちり、と痛んだが、言葉にすることは許されない。唇を引き結んで頷いた。
次の日、ぼくは後遺症もなく退院した。
全て、クラウチのお陰だ。……ぼくが、それを望んでいなかったとしても。
駆け付けてくれた両親に無理を言って、クラウチが意識を回復するまではこの地に留まることにした。二人もクラウチのご両親と共にあることを願っていたので、仕事を調整して病院近くのホテルに部屋を取った。
意識は未だ回復していないものの、バイタルは安定しているとのことでクラウチは個室に移された。
クラウチのご両親、カシオと羽矢さん、そしてぼくが室内でベッドを囲む。ぼくの両親や本部長と入れ替わりに九州から到着したカンダタ達は廊下の長椅子に座っている。
その時が来た。
何の前触れもなく、緩やかにクラウチの瞼が開く。
ああ、良かった。クラウチ。
淀んでいた室内の空気が震えた。
「和紀…っ!」
「……っ…かず、き……。あぁ……和紀……」
ご両親がクラウチの手を握り、視線を合わせようとする。
落涙するご両親に、温かいテノールが応える。
「どう…したの、母さん。何かあったのか?」
「何かあったのはあなたよ……。溺れて…二日も…意識が戻らなかったのよ…っ」
声を絞り出すようにしていたが、堪えきれずに嗚咽が交じる。
「そうか……。大丈夫だよ、心配かけてごめん」
何度も頷く母親を安心させようと、口元を緩ませる。直後、声を荒げた。
「王子…っ!王子は無事か…⁉」
身体を起こせずに顔だけを探るように左右に振る。ご両親が譲ってくれたので、ぼくはクラウチの傍に腰かけてその手を両手で包み込む。
「大丈夫だよ。……心配かけて、ごめん」
「無事で、良かった……。お前に何かあったら…と、心臓が潰れそうだったんだぞ」
いつもの力には及ばないが、しっかりと握り返してくれた。その温もりにぼくの視界が霞む。
……あぁ…クラウチ。
こんな時だけど、ぼくは……嬉しい。
クラウチの中でのぼくは、それほどなんだね。嬉しい。
…………?
クラウチの様子が、おかしい。
顔をこちらに向けているにも関わらず、視線が合わない。先程、ご両親とも合わなかったがそれは目覚めた直後だからだと思っていた。今は意識がはっきりしている。それでも、合わない。
「和紀…視力が……」
言葉を続けることもできなくなった母親を、父親が背後から抱きとめる。カシオと羽矢さんが「医師に知らせてきます!」とドアを開けて走り出した。
それらを膜を隔てたように感じながら、ぼくはふらりと立ち上がる。
ぼくの賭けは、より悪い結果となった。
でも、これでぼくは……ずっとクラウチの傍に居られる。嬉しい。
ぼくが、クラウチの目になる。
ずっと、一緒だ。……ずっと。
ご両親には申し訳ないが、嬉しい。
昏い歓びが心の奥底から湧き出でる。
室内の異常な雰囲気に廊下も浮足立つ。
開け放たれた入口から指す光を感じたのだろう。そちらに向かってクラウチが声をかけた。
「……水上、居るんだろう…?」
………っ!!
世界が凍り付いた音が聞こえた。リノリウムの床を小さく鳴らす足音が、鼓膜を超越する。
無言のまま、小面を張りつけた表情のみずかみんぐが入って来た。
クラウチの額にそっと節ばった手を置く。
横たわったままのクラウチがそれを両手で取り、頬に寄せる。瞼を落とし、安心しきったように頷いた。
「来てくれて…ありがとう。声を、聞かせてくれないか?」
「……っ」
切なげに眉を顰めるが、軽く息を吐き、柔らかく微笑むみずかみんぐ。
「……ええ写真、撮れたか?」
「ああ。後で見てほしい。……あっ、カメラ……」
「大丈夫や。遊歩道に転がっとったけど、データは無事や」
「良かった。きっと水上にも気に入ってもらえると思う、いい出来なんだ」
自分が再びそれを見られるかなんて思い至らない、クラウチ。
無邪気に笑うクラウチ。
そんな満たされた顔を向ける相手は、ぼくじゃない。
ぼくじゃ、ないんだ。
これからも、ずっと。
自業自得だ。
この闇は、明けることはないだろう。
これからも、ずっと。