アイ・ニード・ユー 芹沢の大きな背中を見て、セックスしてぇなと唐突に思った。そう思うのは、今置かれている環境によるものだと冷静に分析する自分もいた。生存本能って本当にあるんだな、とも。
なぜなら辺りは風の轟々と音が響き、芹沢が水平に持つ傘の向こう側は真っ白という、遭難寸前の状況だからだ。自分たちの住む地域ではまず見ることのないホワイトアウトする視界と、同時に巨木の枝が大きくしなるほどの強風の音が平衡感覚を失わせる。踏み締める雪は時間が経つにつれて段々と嵩を増していて、最初は靴底が埋まるくらいだったのが今は足首が埋まるほどになっている。このペースだと一晩経ったら頭の先まで埋まって春まで見付からないだろうと思った。
仕事の依頼で、この時期に塩干潟県の山間に行くという時点で嫌な予感はしていたのだ。
時期をずらせないか検討したが、どうしても月が替わる前に終わらせないといけないということで、交通費をはじめとした諸々の経費を報酬とは別に請求できるという条件で手を打った。
直前まで見ていた天気予報では夜から本格的に寒波が来ると言っていたし、昼の間に済ませられたら大丈夫だろうと思っていた。が、自然はそこまで霊幻たちに甘くはなかった。
依頼主の車で送られた廃屋は、山で死んだ霊が複数住んでいる状態だった。一旦依頼主を返して除霊を行った十数分後、空が急に暗くなり、雪がちらつき始めた。そしてかろうじて電波が一本立っていた携帯電話は圏外になり、依頼主を待つよりも芹沢と共に下山を選択したのだ。
普通なら間違いなく詰みの状況だが、それでも奇跡的に生きているのは同行している芹沢が超能力者だからだった。彼が持ってきた傘のおかげで、その下にいれば雪にも強風にも当てられずに済んだ。芹沢も霊幻もコートとスーツ上下という嘗めた格好だから、傘の下を抜け出せば一瞬で死ぬ。こんなことなら本格的に登山をする格好で来たら良かったと思ったが、今更遅い。
唯一運が良かったのは、廃屋があったのは林業のために拓かれた山だったことだ。大型の重機が通れる広い道路を下っていけば、山の麓には着くことができる。緩やかなスロープのような坂をひたすら降っていく。
「霊幻さん、大丈夫ですか?」
「俺はもんだいない、芹沢、お前がたいへんだろ」
「いや、俺は寒さ以外はまあ……」
なんでもないように答えるから、おそらく本当なのだろう。霊幻も寒さ以外はほとんど無傷だった。革靴に雪が入り込んで靴下を濡らしていて、足の指の感覚がないのと、むき出しの顔と手が上手く動かない以外は取り立てて問題はなかった。服の下にカイロを仕込んでいるが、氷点下になった今ではその効果も微々たるものだった。
口がうまく回らない霊幻に比べて、芹沢は平然としているように見えた。身長の差はあまりないが身体付きがしっかりしているから、寒さには強いのかもしれない。超能力組織「爪」のボスを警護していただけあって、超能力がなくてもそこそこ強いのではと思う筋肉の持ち主だ。だがマッチョは寒さに弱いと言うから、傘の下の防壁以外にもなんらかのバリアを張っているのかもしれないと思い直した。羨ましい。
ポケットの中で氷のように冷たくなった携帯電話を取り出す。元の場所から離れてすでに二時間が経過していた。圏外の表示は変わらず、歩くたびに関節が悲鳴を上げて、咄嗟に芹沢の腕を掴む。彼から伝わる暖かさに寄り掛かりたくなったが我慢した。
だいぶ弱っているなと思う。
仕事柄、死は身近にあった。霊幻にはさっぱり見えないが、本物相手の仕事で対峙するのは死人の成れの果てだし、相談者が深刻な事案を持ってくるときは不幸な被害者が一人か二人出ていたりもする。
霊幻も人並みに死にたくないとは思っているが、同時に死んだらそれまでだと思っているところもあった。出来れば悪霊のように現世に留まることなく、さっさと消えられたら苦痛は少ないだろうと思うくらいだ。
エクボによると、悪霊になれるのは自分のことしか考えられず、他人の都合などを無視して我欲を貫ける人物だという。そういう意味では、霊幻には素質はなかった。エクボにも、お前すぐに上がりそうだよな、というお墨付きをもらっている。
だから、今ここで死んでも、それはそれで仕方ないかと思っていた。運命ですと誰かに言われたら、それにはごねる自信はあったが、最終的に受け入れる。モブと出会って芹沢が所員になって、その後に恋人になって、そこに至るまでもその間にも色々とあったがトータルで悪くない人生だったと思っている。
耳が割れそうな騒音に囲まれているのに、なぜか頭がぼんやりとしていた。何度もあくびを噛み殺しながら、単調な景色の中で機械的に足を動かす。考えることがなにもなくて、顔を横に向けると傘を持つ芹沢が目に入った。セックスしてぇな、と思って、自分が死にかけているのだと自覚したのだった。
「だいぶ歩いたはずなんだけどな……」
不安そうな芹沢の声が耳に届く。
「きた時のくるまのナビは、ふもとから8キロくらいだった。迷ってなかったらあといちじかんもしないうちにつくはずだ。コンビニが開いてるといいんだけどな」
「なるほど……って、霊幻さんめちゃくちゃ顔色悪いじゃないですか!」
芹沢の動揺が伝わり、その瞬間肌に雪が張り付いて目を瞑る。すでに感覚がないのに、肌の上になにかが乗ったことだけは分かるものなのだと思った。
「だいじょうぶだって言ってるだろ、ちからを使え、しゅうちゅうしろ」
「は、はい、でも……」
「お前でだんをとるからだいじょうぶだよ」
一度掴んだ彼の腕に、今度は身体を押し付けて熱を奪うことにした。皮膜のように包む暖かさが密着することで分け与えられて、萎れかけた気力が回復するのが分かる。
セックスは相変わらずしたいし、触れたことで一層その欲求は強くなった。抱き締める腕の感触と彼の匂いに包まれたときのことを思い出してしまう。下半身は寒すぎて感覚がないのが唯一の救いだった。これで勃起したら歩きづらくて困る。
いつ死んでも仕方ないというのは、霊幻の性格だ。それは変わらないが、今死んだら芹沢が悲しむだろうなぁと思った。自分のせいだと責める姿は容易に想像がついて、まだ死ねないなと思えた。彼と一緒にいる限り、霊幻は生き残らなければならない。きっとそれが運命だ。