「……ロ、ネロ!」
「あぁ、わり、先生…なんか用事?」
「用事、っていうかそれいいのか?焦げてない?」
「うわ、やべ」
焦って火を止めようとして、近くに置いていた野菜の入った箱に思いっきり足先をぶつけて、あまりの痛さに思わずしゃがみ込む。背中から、小さなため息と、それから呪文が聞こえて、煮詰まりかけたスープがぎりぎり焦げつかないところで救われていた。
「ありがとな、先生。助かった」
「まったく……。足、痛かったんだろう。座って」
「いや、大丈夫。先生朝メシだろ?」
皿の準備をしようと立ち上がって、出しっぱなしにしていた水を止めた。サラダに使う野菜を洗いながら、ついぼうっとしてしまっていたらしい。使っていたボウルから水はこれでもかと溢れているし、その流れに乗ってグリーンフラワーがボウルの周りに散乱している。
「あーあ……ちょっと待っててくれよ。すぐに」
「ネロ」
普段よりもいくらか尖った声は、しっかりと嗜める色を持っている。言い聞かせることに、慣れている声音だ。
「いいから、座ってなさい」
「……はぁい」
こうなったファウストは手強い。しかも心配して言ってくれている分、ネロには抵抗の余地さえない。すごすごと隅の方の椅子へ引き上げる。
「まったく……手もすっかり冷え切って赤くなっているじゃないか。どれだけ水に晒していたの」
手袋を外したファウストの手にきゅ、と軽く包まれれば、じわりと体温が移ってくる。どちらかといえば普段はファウストの方が体温は低いから、確かに思っていたよりも指先が冷えていたようだ。
カソックだけになったファウストが袖を捲って手を洗う。その、華奢な背中をぼんやりと眺めていた。
「きみは?朝食はもう済ませたの?」
「いや、まだ。そろそろ先生が降りて来るだろうから一緒に食うかなって思ってスープあっためてたとこ、だったんです、よね……」
「そう」
くるりとファウストが視線を巡らせる…スープとサラダ用の野菜たち、それからパン。
「あとはオムレツでも作ろうか」
「先生が作ってくれんの?」
「きみほど上手くはできないけれど」
「俺、先生のオムレツ好きだよ。前に食わせてもらった、残りもんの半端な野菜突っ込みました、みたいなやつ」
「あれは効率がいいんだよ。作るのも、食べるのも楽でいい。ひとりの時はそれで十分だった」
「はは、あんたのそういうとこ、なんかいいよな」
ひどく繊細そうで潔癖そうでいて、もちろんそういうところだってあるのだけれど、時にびっくりするくらい真反対に大雑把というか大胆でもあるというか。細やかで、丁寧な暮らしを営みながら、その中で自分好みの範囲で手を抜いている、そんな感じ。
生き方にしっかりと自分があって、それから生きる力も強い。ネロにはないところ。
こんこん、かしゃかしゃ、じゅわ。
溶けたバターに卵が注がれると、それだけで胸のあたりがあたたかくなるような匂いがする。せっかくファウストが作ってくれるというのなら、それ用に野菜を少し残しておけばよかった。何か一品作るには足りない半端な量のものは既にスープに使ってしまっていたから、今日はきっとプレーンなオムレツだ。
「つうか、先生の分のスープ作り直すよ」
「いいよ、これだって野菜がいい感じに煮崩れてておいしそう」
きみは嫌かもしれないけれど、僕はこれが飲みたい。
そんなことを言われてしまっては、続く言葉なんて見つからなくて押し黙ってしまった。今、背を向けてくれていてよかったと思う。きっとそう思ってることすら、ファウストには見透かされているかもしれないけれど。
……本当に、うちの先生は人たらしだ。
「そんなに思い詰めるくらいなら、早く仲直りしたらいい」
「仲直り、って別に喧嘩したわけじゃねぇし……」
「まぁそうだな。きみが勝手にいじけてるだけだった」
「いじけてねぇし……」
数日前の討伐依頼で、シノが怪我をした。
厄災の影響で数が増え、凶暴化した狼のような獣の討伐だった。あらかた倒したかと気を緩めかけた瞬間、一際大きなやつに背中を取られ、シノは踏み付けにされた。すぐにネロがカトラリーでシノの上から追いやったけれど、背中にはすでに爪で切り裂かれた傷跡ができてしまっていた。
――その時に目があったシノが目を見張ったから、しまったと思ったのだ。
ファウストのこちらを危惧する声に、すぐさま手をとって立ち上がらせれば、シノは得物を手にして軽々と宙を舞った。改めて、獣たちが周りにいないことを確認してからすぐにファウストが怪我を治療してくれたけれど、なんとなく、ネロはシノの顔を見ることができなくて、それから少しぎこちなくなってしまっている。
今朝だって、朝食を取りに来たシノが何か言いたそうだった気配を、忙しいふりをして気付いてないように見せかけた。隣にいたヒースクリフにも、気まずそうな顔をさせてしまった。
それからは立て続けに食堂へ朝食を取りに来た人数が増えたものだから、本当に忙しくなってしまったのだけれど、それが落ち着いた今は、こどもたちの顔が頭に居座ってどうしようもないのだった。
「きみがそうまで落ち込むのは珍しいね」
「落ち込む、つうかさ、」
東の魔法使いで討伐に出る場合、本人の気質からも、武器の性質からもどうしてもシノが前線に出る。ネロはそのサポートに回ることが多い。
そうなってくると必然的に怪我だってシノが一番多くなる。本人はそれにも臆することなく、むしろこのくらい、なんて不敵に笑ってみせる。かすり傷くらいならまだいい。いや、怪我をしないに越したことはないけれど、そうやって経験を積んで、傷を負うことで、強くなるということもネロ自身で理解はしている。
けれど、ふとした時にたまらなくなるのだ。
だって最年少であるシノに怪我なんて負わせたいはずもない。
けれど、過保護すぎるのは本人が望まないとわかっている。過度な心配や、危険から遠ざけることは、シノにとっての侮辱になることも。
そしてそんな風にこども扱いをしながら、きっといざという時に、自分と連れ立たせるのはシノだろうとも思っている。だからこそ、結局のところではシノに頼っている部分がないとは言えないから、どうしたいのかをうまく言い表せない。
――それに、どうしたって、頭に過る、姿がある。
どれだけ遠ざけようとしたって、逃げ出してきたって、あんなにも心が乱されたことはそうそう忘れることなんてできやしない。ましてや、原因と再会してしまった今ならなおさらに。
あの時だってそうだった。
シノの傷つく姿に、かつての大事なものの姿を重ねて、心がひりついた。もう二度とそんな思いをしたくなくて逃げたというのに、取りこぼしたくない大切なものがまた増えてしまっている。
だから、そのどっちつかずで半端者の情けない顔を、しかもあんなときに見せてしまったのを自覚しているから、どうしたらいいのかわからないでいるだけだ。
「はい、できたよ」
「ん、ありがと先生」
スープは煮詰まった分、少ししょっぱかったけれど飲めないことはなかった。ファウストの作ってくれたオムレツはほこほことあたたかくて、ネロの作るものより少しだけきちりと火が通っている。
「……それで?」
「え?」
「『落ち込むっていうかさ』の続き。もちろん、シノの怪我について僕だって何も思わないわけじゃない。僕に力があればといつだって自分の無力さを呪いたくなる。でも、なんというか……きみのはそうじゃないだろう」
「あぁ……うん、なんていうか……ちょっとだけ、昔あったことと重ねちまった、っていうか」
パンをちぎって、口に放り込む。焼き立ては満足のいく出来だったのに、いやにパサついている気がしてならない。口の中がざらついて、何かが迫り上がってくるような気さえする。
「……そういうのは、誰にだってあるだろう」
頭にこびりついては忘れるなと言わんばかりに思い出してしまう記憶。どれだけ時間が経とうが癒えることのない傷のように、重くのしかかかる後悔は簡単には消えてくれない。
きっと似たような後悔がファウストにもある。だからこそ、こうやって少しだけ、吐き出させてくれようとする。
「つい情けねぇ顔晒しちまった。だから、顔合わせづらい、というか」
「それでヒースにもあんな顔させてたら意味ないんじゃない」
「うっ、仰るとおりで……」
本来なら無茶したヒースを怒ったり心配したりするのはヒースなのだけれど、今回ネロがこうなってるせいで、それもさせてやれていない。それどころか、板挟みにしてしまっている分、いつもより気を揉ませている。
だからこそ、そろそろシノが痺れを切らして押しかけてくるかもしれない。流石にそんなきっかけまでシノに作られてしまうと年長として形なしである。
ごちそうさま、とファウストが立ち上がって皿を片付ける。ネロのものはまだ半分近く残っていた。
「ネロ、今日は雨だよ」
「え?知ってるよ。朝から降ってる」
「レモンパイを焼いたらいい。きっと匂いに釣られて駆けつけてくる」
「あぁ……そういう……うん」
普段外を駆け回っているシノも今日はおとなしくせざるを得ない、ということだ。それにこういう静かな雨はヒースクリフが好んでいることも知っているから、シノは手持ち無沙汰になりがちで、魔法舎の中をふらふらしている。
……確かに、ちょうどいいのかもしれない。静かな、雨の日の茶会なんて、今のふたりになら。
「ん、そうするわ。ありがと、先生」
「明日のメニューは期待してるから」
「はは、任せて」
それから、皿の残りを腹におさめて、レモンパイを焼いていればファウストの言ったとおりにシノがキッチンへ駆け込んできて、なぜかラスティカと三人でのお茶会となった。
気まぐれにチェンバロを奏でるラスティカのおかげで思っていたよりも静かなものではなくなったけれど、あれだけ顔を合わせづらいと思っていたのが嘘のように、いつの間にかいつもどおりに戻っていた。
夕食の仕込みをする、と言って席を離れたネロにシノが「手伝う」とついてくる。
「前にヒースに言っただろう。血まみれのオレの姿にも見慣れてもらうって」
「……言ってたな」
「おまえも慣れろ」
「また無茶苦茶いうなぁ」
「なるべくそうならないようには気をつけるから」
返事の代わりにくしゃくしゃとシノの頭を撫でる。慣れるとはいえない。それができなくて、今ネロは「東」の魔法使いなのだから。
キッチンに戻れば、テーブルの上に何冊か本が積まれていた。
なぜ、キッチンに、本。
「げっ」
本に挟まれていたメモに目を通せば、思わず正直な声が出てしまった。
「どうした」
怪訝そうにこちらを覗き込んで来たシノの目の前にメモを掲げた。
「は?」
『仲直りおめでとう。
ちょうどいいから仲良く課題をやっておきなさい。
なお、夕飯はカナリアに頼んであるので逃げないように』
「やっとけ、って先生はどこ行ってんの」
「ヒースクリフさんと中央の市場に行く、って出かけて行きましたよ」
ちょうどキッチンへとやってきたカナリアが抱えた野菜の箱から顔を覗かせてそう教えてくれた。
「は?なんだそれ、ずるい」
「お土産を買ってくるから、ちゃんと課題してなさい、ですって」
くすくすと笑いながら腕まくりをするカナリアにシノは拗ねた顔を見せるけれど、ネロはたまらずしゃがみ込んだ。
引きこもりのファウストが、わざわざ雨の日にヒースクリフと中央の市場。魔法使いは雨に濡れないようにするのなんて簡単なことだから、あまり出かけるのに関係なかったりもするのだけれど。
(……これ、ヒースのフォローしてくれてる、ってことだよなぁ)
明日のメニューは丸一日、ファウストとヒースクリフの好物になってしまいそうだ。……それからファウストには好みそうな酒とつまみも。
あまりにも甘やかされてしまって、頭が上がらない。
「じゃあ、さっさと済ませてしまいますかねぇ」
後からレモンパイもう一切れやるから、とシノの背を叩き、図書室へと向かった。
――それから、あまりにも課題が進まなくて、帰ってきたファウストに雷を落とされたのは、また別の話。