謹んで(出席)いたします R視点 早く着きすぎた。
ロビーの冷たい柱に背をつけながら、柄でもない大きな花束を握り直して、花が傷まないか流川は少し不安になった。
早く来るにしたって、せいぜい20分ぐらい前に着ければ良かった。分かって居たのに、じっとして居られず1時間も前に着いたのは、流川自身でも予定外であった。
携帯を見ては、閉じる。それをかれこれ、5分おきに繰り返し続けている。
7回目の確認でもまだ、流川の望む文字は画面に表示されなかった。
あと10分したら____それで流川が期待するような、「もうすぐ着く」みたいな連絡が、三井から来てなかったら____「着いた」と連絡しようと思った。
早く着きすぎたことを言うのは、三井の性格上得策ではない。余計なプレッシャーを与えたくはなかった。
三井は試合中の粘り強さとは裏腹に、意外にも精神的な負荷に弱い。少しでも負荷がかかるとすぐに投げ出したり逃げ出したりと、堪え性があまりない。ということは、初めて告白した時から、いや、その前から、流川はちゃんと察していた。
分かって居てもこんな形で追い詰めたのは、いい加減流川自身が楽になりたかったからだった。
先の見えない苦しみが、この先もずっと続くと思うと怖かった。
流川のエゴ。だから、来なくても良い。
と自分に言い聞かせるように思いながら、流川はもう一度携帯を開いた。
時計はまだ3分しか動いていない。三井とのメールボックスは、相変わらず昨日の流川からの送信で止まっていた。
もう一度花束を握り直し、手の中で萎れる包装紙の感覚に気付いた。
緊張してる。
汗の滲んでいない方の手に握り直して、流川はもう一度柱に背を預けた。
試合前でも滅多にこんなことはない。大理石の冷たさがジャケット越しに流川の背に伝わった。それに意識を逸らしながら、「早く来い」と祈った。
「着いた。ロビーにいる」と連絡をしても、「先に入ってる」と続けても、三井からの返事はなかった。
流川は、少し冷静なっていた。
緊張のピーク、というよりも、期待のピークはおよそ30分前だった。
程よく不安が水を差して、いざこうしてレストランの席に座った今となっては、窓の外の夜景に目をやる余裕も生まれていた。
明滅する遠い信号機や、向かいのオフィスビルで上下するガラス張りのエレベーターの光なんかを見ながら、先輩はこういうの好きだろうかと今更考えた。プロポーズするなら、と調べて、安易に一番良いと勧められているところを選んでしまった。カッコつく場所が良い、と思って選んだが、二人の特別な思い出の中に大都会の夜景があるわけではない。むしろ二人の特別な景色と言えば、コンビニの200円もしないアイスだったり、潮臭いベタついた海風の海岸だったり、汗を吸ったバスケットコートだったりした。
先輩は、嫌いかもしれない。
そう思うとまた不安になり、携帯を開いた。待受画面はずっと前に隠し撮りした三井のヘタレ顔で、汗だくで床にへばり付く満身創痍のだらしない姿だった。流川は、こんな三井がいっとう好きだった。それを宮城に言ったらサディスト呼ばわりされてしまったが、2番目に好きなのは笑った顔だ。誰の前でも変わらず、心底楽しそうに笑う三井が大好きだった。
三井からの連絡は、相変わらず無かった。メールの受信音を最大に設定し直す。
まだ約束の時刻になったばかりだ。
つきん、と控えめに痛む胸を深呼吸で誤魔化して、流川は携帯を閉じた。
時刻が約束の刻限を20分回る頃、流川はまだ大きなガラス窓の向こうで冷たく光る夜景を見ていた。
何故か、8年前のことがやけに鮮明に思い出された。
あの日、流川が初めて三井に告白した日、流川は熱に浮かされたように家までかっ飛ばして帰り、すっかり体温でぬくまってしまった缶ジュースを一口ずつ一口ずつ大切に飲んだ。そんな姿をおかしいと思ったらしい母に怪しまれて熱を測ったら、本当に軽く微熱が出ていた。恥ずかしくてすぐに布団に入ったのに、なかなか寝付けなかった。
翌日、やっぱり今日みたいに流川は早く行きすぎた。寝てなさいと言う母を押し切って家を出て、約束の1時間も前に体育館に飛び込んだ。
3Pの練習ばっかりした。
クタクタになるまで一日中やって、夕方過ぎに帰った。
恨めしい思いはあまりなかった。
でも、そこに三井がいたら。三井が来たら、きっともっと楽しかった。
三井に告白して、振られて、告白して、その繰り返しが、いくつも、いくつも頭に浮かんだ。たった一度、触れて離れた唇も、柔らかな朝に握った指の感触も、熱も、流川の頭にこびりついて離れない。
走馬灯みたいだな、と思った。
今にも死にそうな初恋が見せる走馬灯かと思うと、息苦しさが募った。
きろきろと光る夜景はちっとも綺麗じゃない気がした。
その光の当たらない、どこか暗いところに、あの頃の流川と三井が居る気がした。勇気を振り絞って告白して、「じゃ、明日また、体育館で」と震えそうな声で約束を取り付けた流川と、呆然と流川を見送る18歳の三井が。
やり直せたら、やり直すだろうか。流川は、目をつぶって考えてみた。その先で、たとえ苦しむばかりだと分かって居ても、きっと流川は繰り返しただろう。
何度だって、三井にプロポーズしてしまうだろう。
30分をゆうに回る頃、ウエイターが気まずそうな顔で「お連れ様はまだいらっしゃいませんか」と聞いて来た。流川は、首を振った。「先にお客様の分だけご用意いたしますか」という続きの質問にも、流川はやっぱり首を振った。ちょっと困った風に去っていくウエイターを目で追いながら、入口の方を見た。期待している人は当然いなかった。めかし込んだ二人組がふらりと覗き込んでは、「本日満席です」と案内する受付に肩を落として踵を返している。それなりに人気の店だ。3ヶ月前から予約でいっぱいになる窓際の席を、流川は半年も前から予約していた。
小さく口を尖らせて、すっかり黙ってしまった携帯を開く。
今、流川の胸には期待にも似た心配があった。
“何か止むに止まれぬ事情が発生し、連絡が取れなくなっているのではないか“。
そんな思いは刻一刻と膨らんでいた。が、あんなことを言って呼び出している手前、何も聞けない自分も居た。この期に及んでまだ、三井からはっきりと気持ちがないと言われることは怖かった。かといって変に気を遣われてまた振り出しに戻るのも嫌だった。
花弁に力を失った花束を所在無く触りながら、流川は背を丸めた。
お腹空いたな、と、今更妙なことに気付いた。今日は食事がろくに喉を通らず、朝食のヨーグルトとトースト以降はちゃんとしたご飯を食べていなかった。
そりゃお腹も空くな、と思った。
1時間も経つ頃、手元から爆音が響いて流川は大いに慌てた。
慌てて音を切り、携帯を開いた。緊張している間もなかった。開いて、すぐに期待は裏切られた。三井ではなく、宮城からの連絡だった。
丸めた背中を起こしてメールを開いた。流川の探していた答えは、結局のところ届いていた。
[今、三井サンと飲んでるけど流川来れる]
簡素な文面を、ゆっくりと三巡読んだ。
[いかねえ]
と打って、携帯を閉じた。
全てが遠かった。
花は萎れていたし、夜景はちっとも綺麗じゃないし、机の上にはカトラリーだけが寂しく並んでいた。
しばらくして、流川は席を立った。
入口の前ではまた、軽率なカップルが残念そうに首を振っていた。
「ごめんなさい」
ウエイターに話しかけると、ウエイターはにこやかに流川に振り向いた。
「これ、貰っていただけませんか」
そう言って花束を渡すと、ウエイターは少し困ったように恐縮した。
「ディナーも、用意してくれてましたよね。支払いはするんで、席はあの人達に譲って」
と入口の方を目で示す。まだ先のカップルが困ったように立ち尽くしていた。
そのカップルが、結局流川のディナーを食べれたかどうかは分からない。
流川は振り返らずにレストランを出て、さっきまで見下ろしていた外に降りた。ホテルの前の道は明るく、優しい夜風が首を撫でた。
今が一番辛い。
この先は、楽になれる。もう、苦しまなくて良い。
____本当に
痛いばかりの鼓動が、いつまでも流川の鼓膜に響いた。
「……で、これがその時渡しそびれた指輪」
「いや受け取りにくいわ!!ほんとにごめんな!!」
怒涛の婚約から1日。慎ましやかとはとても言えない、良い歳をした大人がみっともなく大はしゃぎをして夜通し続いた祝宴も終わった翌日のことだ。
色んな疲れから泥のように寝こけ、昼過ぎに流川の作る焼きすぎた目玉焼きの匂いに起こされた三井は、慣れない食卓について「そういえば」から始まる流川の長い長い告白を受けた。
目の前に、某有名ブランドのシンプルながら互いのイニシャルが刻印された恥ずかしい指輪を置かれながら。
「別にいい。今渡せたし」
「俺は良くねえよ!俺がまた断ってたらどうする気だったんだよ!」
古今東西のあらゆる言葉で謝罪したかったが、流川が本当に気にしてないみたいな面で言うので三井の方が取り乱してしまう。
「また仕舞い込むだけ。今ならもうちょっと良いやつ買い直せるけど、どうする」
「どうもしねえよ!一生これ大事にするわ!」
殆ど八つ当たりみたいに叫びながら、三井は左手を突き出した。流川は満足そうにその手を恭しく取り、薬指をそっと掴んだ。
「先輩、結婚して」
「する。……おい流川、泣くなよ」
薬指に銀色の光を嵌めながら、三井は楽しそうに笑った。