【赤三】境界線を超える 久しぶりに顔を出した体育館で、話しかけてきた三井は、妙に機嫌が良さそうだった。
「めずらしいじゃねーか」
「最近、集中力を欠いているから少し身体を動かしにな。どうも考えても仕方のないことばかり考えすぎる」
正直にそう打ち明けると、軽く目を見開かれる。
「……オメーはそういうとこあるよな。デカいナリして」
「見た目は関係ないだろ。殴るぞ」
「やっぱ、動いてねぇと、ろくでもない考えが浮かぶもんだぜ」
そう言って、三井が数度、足元でボールを弾ませる。掌でくるくると回した後、ゴールの真横から放ったそれは、まるでそうなることが決まっていたかのように、リングの真ん中を通り抜けた。
「なぁ」
帰ろうと歩き出した背中に、再び声が掛かる。
「最近たまに砂浜走ってんだわ。朝。案外悪くねぇぞ。波がウルセーから、余計なこと考えずにすむっていうか」
いつだって、こんな風に気にかけられているのだ。素直に礼を言えないことは多いが、こういうところも好ましいと思っている。
「……オレも行っていいか?」
「お! オメーも走るか?」
「いや、見学だ」
「なんでだよ! 身体動かせって言ってんだよ!」
小突かれながら歩き出すと、胸に居座っていた焦燥感は、すでに少し薄れていた。
三井が次に海へ行くと言っていた日、電車を降りて、終わる夏を惜しむような9月の日差しの中を進む。最寄りといっても駅から10分以上はかかる。しばらく歩くと、汗が背中を滴った。
住宅地を過ぎると、ようやく海が視界に飛び込んできた。葦簀の間を通り抜け、足の甲まで砂に埋もれながら、一歩ずつ斜面を降りる。サンダルを履いてきたのは正解だった。平日朝の海岸は人影もまばらで、遠くに何組かのサーファーと、散歩の犬がいるだけだ。すぐに見慣れた姿を見つけ、濡れていない場所に腰を下ろしてそれを眺める。
真っ白いシャツをはためかせながら、黒いサポーターを着けた脚が、力強く砂を蹴る。
ふいに浮かぶ「あぁ、朝がやって来たんだな」という感情。
「いつかは何もかも大丈夫になるはずだ」そう信じて耐えていた「いつか」に、気づけばたどり着いていた。まだ先の見えない今のことも、数か月先には、なつかしく思い返したりするんだろうか。
しばらくすると一区切りついたのか、汗を拭いながら近づいてきた三井が、こちらに向かって手を伸ばした。
「やっぱり走れよ、お前も」
言われた通りに立ち上がるフリをしてその手を引くと、バランスを崩し倒れ込んできたので、反対の腕で受け止める。
「ふざけんなよ! 心配してやってんのに!」
バシバシと強くオレの胸を叩いて抗議する。濡れたシャツの下の身体は、心許ない細さで、熱かった。
「悪かったな。もう大丈夫だ」
「なんなんだよ……よくわかんね……」
伝わってくる心臓の鼓動が早いのは、さっきまで走っていたせいだろうか。コイツがいつまでもずっと、望む場所に向かって走っていられたらいいなと思う。そして、その姿の見える場所に自分も居られたならば、もっといい。
太陽が少しずつ昇って、今日もまた生活が始まる。