鎮痛剤 これが物語ならば、きっとここに満ちる匂いは血と硝煙とオイルの匂いとでも表現されるのだろうか。ただ、そんなことを考える余裕はカイとレッカにはなかったし、仮に二人がそんなことを考えたとしても、当然のように戦場に沈んだ五感では、それは取り立てて形容することのない「日常」としか言えないだろう。
油断はできないが、焦燥もなかった。いつも通りにうまくやれば、何事もなく今日という日が終わると二人は確信していた。その証拠に、訓練どおりの精度でカイの銃は次々とアンドロイドの回線を撃ち抜いていったし、その銃の名手に近付こうとするアンドロイドは全てがレッカに阻まれ、数秒後には脳天を撃ち抜かれるか、首を蹴り飛ばされるかの末路を辿った。
自分たちがこの区域を制圧すれば、今日の仕事は終わりだ。数時間後には数日で治るような傷に包帯を巻き、空っぽの胃に安っぽいレーションを詰め込みながら、レポートを書いているんだろう。これは気の合わない彼ら二人の共通認識だった。その認識が意識に浮かぶ前に、最後の一体となったアンドロイドの首が、レッカの蹴りで吹っ飛んだ。
終わりだ。どちらからともなく声をかけようとした。ところが、二人は気がついた。なにやら、様子がおかしい。首が宙に舞ったはずのアンドロイドは倒れ込むこともなく、ただ五体不満足でそこに立っていた。
時間にすれば二秒もない。それでも、離れていたカイでさえ気がついたのだ。レッカも当然のようにそれに気づいたが、遅かった。突っ立っていたアンドロイドの足から、アームのようなものが伸びてレッカの足首に絡みついた。何が起きるか、わかっていたわけじゃない。ただ、レッカはとっさにそばに倒れていたアンドロイドの残骸から、マントを剥ぎ取り身を隠した。
カイが声をあげる。だが、その声は爆音にかき消された。彼らはこのアンドロイドがしばらく目にしなかった型だったことに気が付かなかった。この型番のアンドロイドには極稀に、自爆機能が備わっていることを知っていた。知っていた。失念していた。
轟音に追いつこうとするかのように、熱風がぶわ、とカイの髪を揺らした。舞い上がる塵芥の中でカイは目を凝らす。さっきまでレッカが立っていた場所には、何もなかった。
おおかた、レッカは爆風で吹っ飛んだんだろう。そう思い周りを見渡せば、すこし離れたコンクリート片の群れに立ち尽くすレッカの姿があった。
様子がおかしい。首がだらりと下がっていて、体が前のめりに傾いでいる。今にも倒れそうだ。倒れそうなこと、それがおかしい。
倒れないのだ。吹っ飛ばされてなお、なぜかレッカは膝をついていない。安っぽい矜持だろうか、と考えながらカイが近寄ると、その理由がわかった。
彼が吹っ飛ばされた先、そのコンクリートの残骸から生えている鉄骨が、レッカの腹部に深々と刺さり、彼を磔にしていた。
「……運が悪かったな。めずらしい」
「……うっせ……」
爆発の瞬間に飛び散ったであろう破片による裂傷は、あまり見受けられなかった。大方、アンドロイドが纏っていたあの布切れが防刃マントだったのだろう。それに関しては運がいいと言えるのだが、あいにく吹っ飛ばされた場所が場所だった。よくもまあ、これだけキレイに刺さったものだ。
「心臓に刺さらなかっただけラッキーだな。悪運は捨てたもんじゃない」
「……い……から、早く、引っこ抜け……飛びそ……なんだよ、こっちは」
へらず口を叩きながら、カイは周囲を確認する。今から思えば迂闊だった。レッカの安否より、まずはこちらを確認すべきだったのだ。だが、幸運なことに周囲に危険はなさそうだ。口だけでも、という条件なら、動いているのはここには二人しかいない。
「気絶されると面倒だからな、痛みで飛ぶなよ」
「うっせ……わーってら……」
ぐっと、カイがレッカの体を抱える。痛みからだろうか、全身に冷や汗をかいているのがわかった。
鎮痛剤があればいいんだが、とカイは思ったが、そんなものを持ち歩くならブラスト銃のバッテリーを一つでも多く持つ。レッカだって、ポケットに鎮痛剤を入れる隙間があれば、レーションでも詰め込んでいるだろう。
真っ青になったレッカの顔。痛そうだな、とカイは思う。痛み。ふと、カイは思い出したことがあった。
『キスにはモルヒネ十倍に匹敵する鎮静作用があるらしい』
言っていたのは誰だっただろうか。それによりこの情報の信憑性は如何様にも姿を変えるのだが、残念ながら誰が、いつ、どこで言っていたのかは思い出せなかった。
でも、と。カイは思う。キスくらい、すぐに試せるし、失うものもない。いや、精神的な面で言えばあるとは言えそうだが、それよりも痛みで気絶されるほうが、何倍も面倒だった。試してやってもいい。試してやるか。
「我慢しろよ」
それは、体を引き抜く際の痛みに対する警告か、これからオマエにキスをするという宣言だったのか、口にしたカイにすらわからなかった。カイはレッカの脇の下に腕を回し、ぐっと引っ張るついでに、浅く息を吐いていたその唇に舌を差し入れる。
「んんっ……んー!」
レッカの口から漏れたのはキスに対する抗議か、痛みからくる反射か。それを知り得るのはレッカ一人なのだが、当の本人はそれどころではないだろう。ずる、と体が動くごとに鉄骨が皮膚を抉り、骨を削ぎ、臓腑をなぞる。少しずつ少しずつ動く体に、積み重なるような痛みが覆いかぶさる。そのたびに漏れる悲鳴を飲み込むように、カイはレッカに深く口付けながら、その体を引く。短くはない時間をかけて、レッカはようやく鉄骨から開放された。
カイの支えがなければ、レッカは膝をついていただろう。抱き合うようにして、完全にカイに体を預けたレッカが、忌々しそうに血を吐いた。まるで、ツバでも吐くかのように。
「生きてるか? ……よし、生きてるな。帰るぞ。寝るなよ」
そう独り言のように呟いて、カイは体勢を変える。肩を借りる形になったレッカが、ぼんやりと口にした。
「……なんの真似だよクソ野郎」
「悪態を吐く元気があって何よりだ。お前もあの与太話の場にいただろ? ほら、キスはモルヒネの十倍だとかなんとか」
詳細は覚えていないが、その場にはレッカもいたはずだとカイは記憶していた。レッカも覚えていたか、もしくは思い出したのだろう。あー、と納得するように息を吐いたあと、笑いだすように、怒りだすように口を開いた。
「はーっ。……最悪。全然効いてねぇよ」
「本当か? なんだよ。損した」
思い出したように、カイは思い切り唇を袖口で拭う。
「そりゃこっちのセリフだ。無理やり奪いやがって。ケダモノめ」
「なんだ、そんなに大事なものだったか?」
「犬に喰わせる程度にはな」
ずる、と二人は歩き出す。合流地点はここから近い。カイはレッカの意識が飛ぶ前に、そこに辿り着いていたかった。なんてったって、面倒だから。
足に怪我はないからだろうか、移動は思ったよりスムーズだ。意識があるのも幸いしている。意識の飛んだ人間、あれは最悪だ。あれは血と臓腑の詰まった肉袋としか言いようがない。実際の重みよりも、何倍も運びにくいったらありゃしない。
しばらく、無言で歩いてた。あと、五分も歩けばゴールだ。
そんな時、カイが口を開いた。気まぐれに、重要なことを。
「あの話、デマだったんだな……おい、俺の時にキスはいらないからな」
「誰がするか、バァーカ」
これが物語ならば、ここで幕だろう。なんてったって、ちょうど会話が途切れたところだ。余韻を残すにはもってこいだ。
それでも、彼らはこの世界を生きている。まだまだ、終われない。