無自覚紐なしバンジージャンプ触れた唇は柔らかかった。俺の唇がコイツの唇に触れて、それを偶然と言い切るには難しいだけの時間が流れたあと、我に返った俺はそっと唇を離した。そう、我に返ったのだ。
何をしたんだろう。混乱する脳でめいっぱい考える。目の前にはアイツのマヌケ面。そんなに驚いた顔をしないでほしい。こっちだって充分驚いているんだから。
落ち着いて整理しよう。今は夜で、季節は夏で、ここは俺の部屋で、当たり前みたいにコイツがいた。俺たちは男道ラーメンでラーメンを食べたあとだった。帰り道、コイツが家についてくるから、何のつもりか聞いたら明日雨がふるから、と一言だけ返された。天気予報ではそんなこと言ってなかった。そう言いかけて、ふと空を見上げて、星が見えないことに気がついてそんなもんかと納得した。
コイツはたまにうちにくる。最初は面倒でたまらなかったけど、もう慣れた。軒下を野良猫に貸すようなものだ。深く考えてはいけない。
円城寺さんとコイツのやりとりを見ていてわかったのだが、こいつは人からの奉仕を当たり前のように受け取る。だが、それがなければないで好き勝手やるらしい。今日も放っておいたら好きに風呂に入っていた。ただ、タオルは勝手に使われた。コイツは好き勝手やる時に俺に迷惑をかけないわけではない。
俺も風呂に入り、あがる。アイツはテレビを見ていた。横に座ると、ふわりとシャンプーの香りがした。俺からしたのか、コイツからしたのか、それはわからないが、どちらにせよ色気のない話である。コイツや俺からシンプルなトニックの匂いがしたって、どこにどう胸をときめかせればいいと言うのだ。シチュエーションは申し分ないのかもしれないけど、相手が相手だ。
そう、色気などないのだ。俺とコイツの間には。
コイツは同僚で、同じユニットの仲間で、友達ではないけど、近しい存在で、円城寺さんは兄弟のようだなんて言うけどそこまで親しくもない、なんというか、難しい関係だと思う。
ただ、この関係にキスなどという行為は天地がひっくり返っても入りようがない。俺はコイツが好きではないが嫌いでもないけどそれはそういう意味ではないし、コイツだってそう言った対象は男ではないだろう。ん?そう考えると俺は悪いことをしたのか?マズい、混乱してきた。
そう、俺は何をしたんだ?
答え、コイツにキスをした。
どう考えても結論は一つしかなくて、導いた解答に頭痛がする。なんでそんなことをしたんだ。わからない。ただ、本当に何の気なしに体が動いてキスをした。触れるだけの、シンプルなキス。アイツはきっと意味がわからないと思っているんだろう。だけど、こんなの俺だって意味がわからない。おあいこだ。なにがおあいこなんだ。
本当に、何をしているんだろう。未だに混乱はおさまらない。親愛でも示したかったのだろうか。時折、チャンプがするみたく。そうすることで何かが変わるか、わかるかするかとでも思ったのだろうか。
だがたとえ、何かを知りたく手を伸ばしたのだとしても、キスはない。知るべきは例えばコイツの好きな食べ物だったり、コイツに素直に猫の集会所を聞くためのきっかけだったり、並んで星を見上げた時の瞳の色だったり、一緒にじきにくる暑さを凌ぐために行くプールの塩素の匂いだったりするはずなのだ。そういった、友情の範疇で収まる絆を俺たちは深めるべきなのだ。知るべきは、決して、こんな沈黙の硬度だとか、ましてやコイツの唇の柔らかさなどではない。
結論、何かの間違いだ。
間違いなのだから、早急に誤解を解かなければいけない。唇が触れておいて間違いも誤解もないのだが、このあたりは勢いで押し切るしかないだろう。事実なのだが、誤解なのだ。もう自分でも何を言っているのかわからなくなってきたが、何か言わねばならない。この沈黙は非常によくない。沈黙と言っても、おそらく時間にしたら数十秒にも満たないこの静寂。それでもこの静けさに事態が好転しないことは火を見るよりも明らかで、アイツが何も言わない以上、俺が何かしら言わなければならない。
はたして、俺の口は声を発するために「あ」の形に開いた。何を言うかはまとまっていなかったが何か言わなければならないと、その思いだけでとりあえず口を開いた。
その口を、コイツの口が塞いだ。
一瞬、何が起きているのかわからなかった。ただ声を出そうにも口は塞がっていて、出そうとした声はくぐもった音になって塞ぎあった口内で響いて消えた。
アイツの目が間近にある。少し濡れた金色にドキリとする。ドキリ?おかしい。コイツに向ける感情ではない。シャンプーの匂いが一層強くなった気がして落ち着かない。いや、落ち着いている場合ではない。俺たちがキスしてるというこの状況はおかしい。だから、俺はすぐさま距離を取り唇同士を引き離し、先ほどしたことを棚に上げてでもコイツの行動を糾弾しなければならない。
それなのにどうしたことか。手はピクリとも動かず頭もハッキリしない。ちろ、と確認のようにアイツの舌が伸びて俺の唇を舐める。こんなのはおかしい。早く、やめないと。
頭ではわかっていたのに、俺が取った行動は気が触れていたとしか思えない。アイツを突き放すわけでもなく、俺は舌を伸ばしてアイツの舌を舐めていた。一瞬、アイツがびくりと肩を跳ねさせたが、すぐに噛みつくように距離を縮めて舌を絡めてきた。もう、やめないと。軽口でどうこうなる範囲を超えている。だけど触れ合った舌がどちらともなく口内に侵入すると背筋がぞわりと粟立つほどに気持ちがいい。アイツの目が少しだけとろりとしている。多分、俺の目も似たようなもんなんだろう。お互いに優位に立とうと舌を動かしあう様は端から見ればさぞかし滑稽だろう。いや、端からというか、こんなところを誰かに見られたら俺は消えたくなるだろう。そんなどうでもいいことばかりが頭に浮かんで、現状を打破する術はひとつも見つからない。
口内を深く犯して、犯されて。頭がどうにかなりそうだった。金色の瞳が伏せられているのを見て、それにならって目を伏せる。すると感覚を一つ遮断したせいか、より一層快感が強くなる。アイツの舌が俺の歯列をなぞるから、お返しとばかりに俺はアイツの上顎を舐める。たまに舌を絡めれば脳が痺れるようにビリビリした。こんなの、知らない。こわい。でも気持ちいい。
もっと、もっと。角度を変えて、深さを変えてもう一度。どちらがやってるかなんてわからない。口づけしやすいようにお互いの肩や頬なんかに手を置いたりして。バカみたいだ。あるいは恋人みたいだ。そんなのは違うはずなのにやめられない。コイツがバカなのはいつものことだけど、俺もバカになってしまったのだろうか。
ぷは、と息継ぎをするようにお互いの唇が離れる。口と口を繋ぐ唾液が銀色に光って、見てはいけないものを見た気分にさせる。見てはいけないもの、というか、やってはいけないこと、なんだけど。
呼吸を整えつつアイツを見ると、パチリと目があった。その目が明らかに混乱しているから、自分からやっておいてその態度はなんだ!と怒鳴りそうになる。しかし、その一つ前に自分がした行動を鑑みると、コイツを糾弾することは自分の首を絞めることになることも理解していた。
さて、どうしたものか。
発端である自分が謝るべきか、それを棚に上げて行為をエスカレートさせたコイツを責めるべきか。おそらく、両方が必要で、肝心なのは順番だろう。そんなことを考えていたら、アイツが先に口を開いた。
「……な」
「な?」
「なんで?」
間の抜けた発音で耳に届いた三文字は、確かに俺の疑問でもあった。まさかオマエもそう思ってるなんてな。気があうな。全然嬉しくねぇ。
なんで?
まさしくそれなんだよ。俺がオマエにキスしたのも、オマエがキスを返してきたのも。いや、それだと困る。それじゃまるで、してみたかったからしてみたみたいじゃないか。オマエはいつもみたく競争心を剥き出しにして、俺につっかかってくるべきなのだ。だからエスカレートしたキスだって対抗心の表れで、俺がキスしたから仕返しただけでなくてはならないだろう。だから、俺は何でかわからなくても、お前がなんで?では困る。身勝手だとはわかっているが、頼むからオマエまで自分を見失わないでくれ。そう、伝えなければならない。
「…………なんでだろうな?」
違う。違うんだ。そんな同調ではなく、俺は自分のことは棚にあげてでもコイツの行為に言及し、なんとかこの空気を打破しなければならない。再三思いを噛みしめてるのになぜ出てきた言葉がこれなんだ。自分のふがいなさに溜め息がでそうだ。
そんなことを考えながら、しばらくお互いに見つめ合っていた。コイツは形容しがたいアホ面を晒していて、おそらく俺も同様にマヌケな顔をしているのだろうと思うとテンションが下がる。ただ、同僚で、仲間で、友達でもないけど絶対に恋人ではない人間に勢いでキスしてしまったときにどういう表情をするのが正しいのかなんて俺は知らない。
しばらくそうしていた。コイツが口を開いた。
「……もう一度、試すか?」
バカを言うな。そう返さなければならないのに俺は視線をコイツの唇から離せない。コイツの手が俺の頬に触れる。俺の手が、コイツの肩にかかる。
ズダダダダ!
突然の音に驚いて2人とも飛び退いた。間違いが起きない程度に俺たちの距離が開く。
突然降り出した豪雨は容赦なく窓を叩く。クーラーを入れていたので、窓が閉まっていてよかった。それほどに雨音は強い。
そこでふと冷静になってアイツを見る。アイツも突然の雨音で冷静になったのだろうか、こちらを見るとふてぶてしく口を開いた。
「んなわけねーだろ!バァーカ!」
「当たり前だ」
当たり前だ。冷静になってみればもう一回なんてありえない。
俺はこの大雨に帰れとも言えず、コイツはコイツで不自然に帰ると言い出せない状況なのだろう。不毛な沈黙が耳に痛い。気を紛らわせてくれるはずのテレビの音声は耳に届かない。
「……バンドメガネだ」
テレビに視線をやったコイツがまた変なあだなで人を呼ぶ。テレビを見てみると、High×Jokerのみんなが出演していた。バンドメガネって四季さんのことか?
こうして、俺たちはまたテレビを見る。時が戻ったみたいだ。できれば戻ってほしい。なぁ、戻ってくれよ。
時刻は21:24。四季さんの歌を聞きながら、そう願わずにはいられなかった。