夜空に硝煙 毎年、遠くに聞いていた。小さな破裂音と、空を照らす光の花。
呼び覚まされた記憶はいつも柔らかく輝いていて、そうじゃない思い出を持っているやつがいるってこと、考えたこともなかったんだ。
「納涼花火大会のレポっスか! 楽しみっス!」
「のーりょーはなび大会?」
プロデューサーの言葉に返された、期待に満ちた声とふわふわとした声。円城寺さんがイマイチわかっていない様子のアイツに『納涼』の説明をするのを、俺は黙って聞いていた。
納涼。意味を知っているつもりだったが自信はなかった。それでもあながち間違っていなかったことに内心ホッとする。ところがアイツはまだ疑問があるようで、仕事に関わることだからだろうか、いつもよりは素直に円城寺さんに問いかける。
「はなび、ってのは何だ?」
「オマエ、花火知らないのか?」
円城寺さんが反応する前に、声が出た。チビには聞いてねぇよ、と不機嫌そうに口を尖らせるアイツに円城寺さんが優しく投げかける。
「花火ってのはな、火薬が……いや、夜に光るキラキラしたものって言えばいいのかな。まぁ、見てみるのが一番だと思うぞ」
円城寺さんはそう言って端末を操作し始める。俺は受け取った企画書を見て、どちらかと言えば求められているのは花火に対する詩的な言葉ではなく、食べ歩きや射的などを騒々しく楽しむ俺たちだと知って胸をなでおろしていた。
花火大会。人がたくさん集まる場所。
ぞく、と震えた肩がぽんぽんと叩かれる。意識を戻せば円城寺さんが笑いながら言った。
「タケルはこの日、夕方から暇だったよな?」
俺たちがやってきたのは仕事で行く予定の花火大会よりは小さな、それでも打ち上げ花火なんかが上がる、そこそこの規模の祭りだった。予行演習のようなものだ。
「師匠がこれたらよかったんだがなぁ」
円城寺さんがそう言いながら、たくさんの食べ物を持って俺たちの元にやってくる。俺たちは目立たないように、境内の隅っこに腰を下ろしていた。カップルがちらほらといたけれど、彼らは俺たちなんて見もしないだろう。
しばらくアイツと食べ物を奪い合っていたら、急に『どん、』と音が鳴り響いた。
空を仰げばキラキラとした燃える残滓が落下するところで、見逃した、と思う間もなくもう一度音が鳴る。
これが花火だ。そう言おうとして、円城寺さんが言うかなって思って口を噤んだ。ところが、円城寺さんが教える前に、アイツがぼそりと口にした。
「せんそう」
「え?」
「せんそう、してんのか」
円城寺さんが困惑したようにアイツの目を見る。アイツの目はなんの感慨もなく空を見ている。
「……んん、せんそうって、あの戦争か? いや、戦争はしてないぞ。漣」
「あ? だってこれ、せんそうじゃねーの?」
空が光って、大きな音がしてる。それを戦争だとアイツは言う。
「昔会ったバアさんが言ってたぞ。空がキラキラ光って、大きな音がなるのがせんそうだって。んで、光の下で人がいっぱい死ぬんだって」
コレのことじゃねーの? そう呟いたあとに、ふと気がついたように言う。
「これなら何回か見たことあるぞ。暑くなると見るから、よく人が死んでんな、って思ってた」
「そうなのか……これはな、花火だ。人は死なないから、大丈夫だぞ」
「ふーん」
どうでもよさそうな、アイツの声。俺は、今までキレイだと思っていた光に死の影を感じて、それを振り切るように問いかける。
「……キレイじゃ、ないか?」
毎年呼び覚まされる。柔らかく輝いて手のひらに収まる記憶。
アイツは不思議そうにしていた。数学よりも物理よりもわからないと言ったような、それでも凪いだ声色が、大きな音に掻き消されそうになる。どん、という空に響く音。ようやく拾った言葉。
「今更言われてもな。そっか、これはせんそうじゃねーんだな」
アイツがこの光を見て何を思ったのか、俺はよくわからなかった。その感情は少しだけ、そこらに転がったセミみたいで寂しかった。
納涼花火大会のレポート、その日がやってきた。生放送だから緊張していたし、やっぱり気の利いたコメントは言えた気がしなくて申し訳なくなる。それでも、屋台の食べ歩きなんかはいい絵が取れていたらしい。上機嫌なスタッフの掛け声で、コマーシャルがあける。
人混みに向けていた視線を花火に戻す。今日も、いなかった。
背筋がジリジリと焦げ付くような感覚だ。もしも、もしも今、俺の横を通り過ぎたのがアイツらだとしたら。そう思うと居ても立っても居られなくなるが、ぐっとこらえて花火を見る。ぐちゃぐちゃの心で眺めた花火は、焦燥を忘れさせるような熱量で咲いていた。
結局、コメントしたのは円城寺さんだけだった。それも、「きれいだなぁ。」だなんてひとりごとだけ。
それでもいいらしい。だって、人間はここまできれいなものを見たときは、何も言えない。ディレクターもそう言っていた。
そうやって、ずっと花火を見ていた。きっと、カメラは俺達の横顔と花火を交互に取っている。カメラの存在を意識して、忘れて、また思い出して。そうやってチラチラと意識が逸れる中で、一瞬だけ視線がアイツの輪郭をなぞった。
そこに埋め込まれた、夜空に向けられた瞳はガラス玉みたいだった。感情の見えない目。アイツばっかり見てなんていられないから、見たのはほんの一瞬。それでも、そこに閉じ込められた光が脳裏に焼き付いている。
「今日の花火はすごかったなぁ!」
円城寺さんが布団を出しながら、興奮気味にそう言った。俺は同意してその布団を受け取って、畳に転がるアイツの上にぽすりと乗せた。抗議の声が聞こえる。
どんなに暑くても円城寺さんはちゃんと布団を出す。みんなが蹴飛ばしてしまう布団を、律儀に三つ。
布団が敷かれると、転がっていたアイツがずるずると移動する。それを見届けてから、電気を消した。
電気を消してしばらくして、小さな声が聞こえた。「漣、起きてるのか?」
「んあ? ……まぁな」
驚いた。アイツが起きてるだなんて、すごい瞬間に立ち会ってしまった。なんとなしにドキリとして、呼ばれてもいないのに俺は息を潜めて寝ているふりをする。
円城寺さんが、慈しむように口にした。円城寺さんの、こういう、同情とはまったく違う声色が俺は好きだ。きっと、アイツだって嫌いじゃないはずだ。
「漣は、毎年人が死んでると思ってたんだな。怖かっただろう」
「別に。どーでもいい」
そうか。そう言って円城寺さんは会話をやめた。人の死をどうでもいいと言ったアイツを、糾弾することもなく。
しばらくしても、アイツのふてぶてしい寝息は聞こえてこない。きっと起きてるんだなって思ったけど、俺はまだ狸寝入りを続けていた。心臓が、ドキドキしていた。
俺がもしも、花火を戦争だと思っていたらどうしていただろう。夜空をつんざく光の波と轟音。それに紐付けられた人の死。ぞわりと背筋を走る悪寒。止めることのできない、『もしかして』。
もしも、アイツらが、どこかで、だなんて。考えただけで震えが止まらない。
花火を見るたびに、遠くに砲撃のような音を聞くたびに、そんなことを考えるなんてきっと耐えられない。
アイツは夜空が光った日、何を思って眠りについたんだろう。
アイツがベンチで丸まっている。いつもみたいに尊大な、全身を投げ出すような眠り方ではなく、胎児のように丸まって、震えている。
空には花火があがっている。どん、どん、と。次から次へと鳴り止まない、大きな大きな音。空を覆う光は絶え間なくあがりつづけて、俺たちを包んでいた闇を削ぎ落としていく。
アイツが震えている。泣いているのだろうか。滲んだ声で口にする。人が死んだと、そう言ってこちらを見る。
こちらに伸ばされた、震える腕。その手を取って、思い切り抱きしめた。抱きしめたアイツは小さくて、横目に見た髪は短かった。初めて出会ったときよりも、ずっと小さなからだ。
夢特有の確約のない温度が胸に溶ける。頬を擦り寄せて、背中を撫でて、そうやってしばらく、胸の中の子供を宥めていた。なんだか、甘い匂いがする。
怖がったっていいんだ。泣いたっていいんだ。だって、誰かがいなくなるのは、涙が出るほどおそろしい。
「いい加減にしろよ」
冷たい声。まるで、溶け合った体温を引き裂くような。
振り向いた先にはアイツが立っていた。滲んだ憤りを隠そうともせず、血まみれでこちらを見ている。
いつの間にか、小さなアイツを抱きしめていたはずの腕の中には、俺がいる。
「いい加減にしろって言ってんだ」
アイツの言葉を、アイツの存在を無視して、俺は抱きしめた俺に同じ言葉を繰り返す。
怖がったっていいんだ。泣いたっていいんだ。だって、大切な人が死んでしまったらって思ったら、怖いだろ?
「……なぁ、オマエはそうじゃないのか?」
振り向くことができないくせに、背中越しのアイツに問いかける。返事はない。
悪夢だ、と思う。ずいぶんと自分勝手な夢だ。
洗面所に置かれた三本の歯ブラシ、そのうちの一つ、真っ青な歯ブラシを手に取り、そう思う。夢とはいえ、いや、夢だからこそ、その身勝手さで喉が詰まる。
俺は、アイツに誰かの死を恐れてほしい。
俺と、同じでいてほしい。
口いっぱいの泡と一緒に自己嫌悪を吐き出したいのに、上顎あたりに憂鬱は張り付いたままだ。俺がおかしいんだろうか。大事な人がどこかで死んでいたらなんて、思うほうがおかしいのかも。
だって、大切な人がすぐそばにいないだなんて。
もう一度、口内を水で満たして吐き出す。
別に、アイツは「どーでもいい」と口にしただけだ。
どーでもいい。わけじゃない。でも、赤の他人の死が怖いかと言われるとわからない。きっと、アイツだってそういうことを言ってたんだ。きっと、俺達の誰かが死んだって気にしないってことはないはず。でも、わからなくなってしまう。俺はアイツのことをどれだけわかってるんだろう。
花火を知らないだなんて、ついこの間知ったばかりなのに。
台所に戻ると、円城寺さんが茶碗を運んでくれと言う。快諾して茶碗を運べばアイツが大口を開けて眠っていた。
当たり前に、丸まってなんかいない。
なんだかよくわからない感情を乗せた足で、アイツを起こすという大義名分の元、アイツのおなかをぐり、と押した。文句は返ってこなかった。アイツは目覚めすらしなかった。
なんだか頭がぐるぐるして、くらくらする。気分を切り替えるためのジョギングが、どうやら逆効果だったようだ。普段ならからっぽになるはずの頭の中は、アイツのことでいっぱいだ。動いて考えが希釈されていくなかで、その命題だけが脳を浸すようにドロドロと濁る。
アイツは後ろで何やらわめいている。アイツは初めて会ったときと変わらずに俺を追いかけてわめいている。何を言っているんだろう。音を拾う前にアイツの声が反響する。『せんそう』、『どーでもいい』、聞いたはずのない言葉、『いい加減にしろよ』。
振り払うように足を踏み込む。音が聞こえる。アイツの声と、花火の音。闇を刺す、キラキラの光。『もしかして』。いやだ、死んでいるはずなんてない。それでも、視界がこんなに暗い。喉に熱が溜まる。息が脳を揺らす。暑くて暑くてたまらない。
「チビっ!? おいっ! チビ! しっかりしろ!」
暗転する意識の中で、泣きそうなアイツの声が聞こえた。
まっしろい景色。思い出した。思い出せてよかった。俺の目の前にはあの頃の、髪の短いアイツがいる。
そうだ、思えばいつもそうだった。アイツのあんな声、珍しいはずなのに忘れてた。アイツは何度か、夏の日に俺を見てこう言った。
「……生きてたか」
確認のような呟き。そして、妙にホッとした顔をする。あの時わからなかったそんな不思議が今ならわかる。きっと、アイツはそう呟く前日に花火を見たんだ。
戦争を、見たんだ。
当たり前だ。アイツだって人が死ぬのは怖い。いや、少し違うかもしれない。アイツはきっと花火を見ながら、俺が死ぬのを恐れていた。見ず知らずの誰でもない、たった一人の俺が死ぬのを怖がっていた。
なあ、今のオマエが花火を知らなかったら、きっとあの時の何十倍も怖かっただろうな。だって、今オマエには死んでほしくない人がいっぱいいるだろう。俺、円城寺さん、プロデューサー、四季さん、麗さん、他にもたくさん。それはきっと、自惚れなんかじゃないだろう?
あれは、戦争じゃない。
一度口にしただけで、涙が出そうだった。アイツはくしゃりと笑い、「知ってる」って呟いた。
「よかった」
オマエが花火を知ってよかった。もう、あの夜空に上がる光で、誰かの心配をする必要なんて、ないんだ。
ひやりと額に冷たいものが当たる。気持ちいいな、って思っていたらそれは離れていって、残念だと思う前に俺の顔に大量の水が落ちてくる。
「ぶはっ……なんだ……?」
目を開けば、ペットボトルを逆さまに俺に向けるアイツと目があった。アイツは俺の目を見て、言った。
「……生きてたか」
それは、あの日とまったく同じ声色だった。そうして、同じように、わかりにくく、安心したような顔をする。
「……俺は?」
「チビは弱っちいな。走ってたらいきなりぶっ倒れたんだよ……めんどくせー……」
暑さになんて負けてんじゃねーよ。そう言って二本目のボトルを開けて、また俺にどばどばとかけてくる。冷やしてくれるのはありがたいのだが、二本目は普通に飲みたい。
かけてないで水を飲ませろ、そう言ったら三本目のボトルが出てきた。地面を見ると、ペットボトルが何本も何本も置いてあった。
「……心配させたな。悪い」
「はぁ!? 心配なんてしてねーし!」
しかたねーから運んでやっただけだ、とアイツは言い張る。地面に並ぶ大量のペットボトルが汗をかいている。
あの日、聞き流していた言葉。生きてたか、っていう確認。俺の姿を見るまで、アイツは何を思って過ごしていたんだろう。
また、心配させちまったんだな。
「……なぁ、今日の夜、暇だろ。円城寺さんを誘ってさ、花火をやらないか?」
「……はぁ? はなび、できんのかよ」
「ああいう大きな花火じゃなくて、手で持てる花火があるんだ」
一番量の多い、三色に色が変わる花火。なんか特別な気がしてた、紙が持ち手の花火。大きく弾けて火花の出る、ざらざらした花火。えっと、それから。
「線香花火とか……ああ、これはオマエには無理だな。落ち着きが無いと、すぐに落ちる」
「あぁ!? オレ様にできねーもんがあるわけねーだろ!」
噛み付くように吠える。それをベンチに寝転がったまま見ている。
「決まりだな。……どっちが長持ちさせるか、勝負だ。逃げんなよ」
「上等だ!」
騒々しい声を聞きながら端末を開く。円城寺さんにメッセージを打って、閉じる。
「よし、財布取りに戻ったら、花火買いに行くぞ」
「指図してんじゃねー!」
そう言って、なるべく木陰を通って俺たちは家に戻る。蝉時雨をかき消す轟音は、聞こえない。
アイツはもう花火を知っている。アイツは今晩花火をやって、記憶をきれいな光で埋めていく。
そういえばアイツはまだ、俺が線香花火を得意だって、知らない。