ミハイルとテキーラと長い夜 柔らかく、それでいて横暴なノックの音。主がわかるほど、おれはイグニスのメンバーには詳しくない。
寝るにも、何かをするにも中途半端な時間だった。寝たふりを決め込んでもよかったが、扉を開けたのは気まぐれだ。どうしたって警戒心が滲む程度に覗いた隙間から、美しい銀の髪が見える。
「……レナートか」
「ああ、今は暇か?」
レナートが部屋を訪ねてくることに不思議はない。おれはそれなりの信頼を勝ち取っているから、仕事の相談をされることだってあるのだ。ただ、それにしてはレナートの持ち物がおかしい。レナートが持っていたのは氷をたっぷり湛えたアイスペールとライムを塩。そしてショットグラスがふたつ、テキーラの瓶が二本。
「暇なら飲まないか? 僕と少しゲームをしよう」
御免だ。おれは語彙からありったけのオブラートを探していたが、こいつの二の句に薄いオブラートはびりびりと破けてしまう。
「まぁ……負けるのが怖いのなら、断ってくれて構わない」
「あ?」
思わず、スラム街で相手を牽制するときのような声が出た。先程まで一人だったもんだから、気が抜けているのかもしれない。レナートは見慣れた──あまり身内に向けることはない──挑発的な笑みを浮かべていた。なんというか、普通に腹が立つ。
「……まあ、入れよ。テキーラは手土産か?」
温室育ちのへなちょこエリートがテキーラ。おれにあわせたのかもしれないが、笑いを堪えるのが精一杯だった。こいつにはキティがせいぜいといったところだろうに。
「これはゲームの小道具だ。ミハイル、おまえは飲めるほうだろう?」
「交渉人様の前で飲んだことがあるっけな?」
「これは僕の勝手なイメージだ。酒が飲めないならゲームはできない。断ってくれ」
「まさか。あってるよ。テキーラは好きだ。ライムがあるならなおさらだ」
おれは憎たらしい猫を招き入れる。アイスペールの氷が益体もない時間をからころと笑っている。
*
ゲームのルールは簡単だった。まずはテキーラを飲んだ。脳みそに適度と酒がまわったあたりでレナートは口にする。
「単純なルールだ。ショットグラスでテキーラを煽る。飲み干した人間は相手にひとつ質問ができる」
「……質問?」
問いかける息がアルコールで燃えている。
「そうだ。相手は正直に答える。……それだけだ。簡単だろう?」
やってみたほうが早い。そう言ってレナートはテキーラを飲み干して口を開く。
「……好きな食べ物は?」
「そんな質問でいいのか?」
「最初だからな。それに、これはおまえと親交を深めるためのゲームなんだ。酷い質問はしないさ」
はちみつ色の瞳に答えるように、好きな食べ物を口にしようとして気がつく。おれには好きな食べ物なんてない。あのスラムで食えるもんはなんだってごちそうだった。強いて言えば酒は嫌いじゃないが、食べ物となると浮かばない。
「……唐揚げ」
嘘ではない。唐揚げは好きだ。ただ、真実かと言われると答えはノーだった。
「そうか。これでおしまい。聞きたいことがあったらテキーラを。おまえが飲まないなら僕がまた飲もう」
「待ってくれ。一方的なやりとりは好きじゃない。話の主導権を握りたがるのは悪い癖だぞ」
おれはテキーラを喉に流し込む。これはチャンスだった。怪しまれない程度にコイツの弱みを握ってやろう。このときのおれはそんな呑気で打算的なことを考えていた。
「じゃあ……そうだな、まずは好きな食べ物を教えてくれよ」
後悔させてやる。ライムを齧りながら、レナートが笑った。
*
「……眠るか?」
「ねっ……くな……い……ひっく……」
「そうか……飲めないようなら僕がまた飲もうか」
細く長い指がショットグラスを傾ける。当たり前に上下する白い喉がぼやけて見える。
「では……困ったな。そろそろ質問することがない」
本当にコイツは困ったように笑う。おれはかなりの質問に答えている。「好きな食べ物」から始まり「好きな動物」「好きなタバコ」「好きな酒」「好みのタイプ」「いま欲しいもの」「初めてキスをしたシチュエーション」「僕に直してほしいところ」「好きな色」他にも、もう両の手では足りないくらいの質問に答えた。「好きなサンドイッチの具」あたりからの記憶が曖昧だ。
これだけの質問をしてなお、レナートは顔色一つ変えなかった。やられた。コイツはザルを通り越してワクだ。いくら飲んでも、顔色一つ変えやしない。ハメられた。強いならそう言えと悪態をつけば聞かれていないと答えられた。
「そうだな……そうだ。子供の頃の夢は?」
瞬間、脳内に集まっていた血液がさあっ、と引いていった。アルコールで酩酊した理性が冷たい引き金を引こうとしている。殺意を押さえる理性がアルコールでぐずぐずになっていたが、からだを動かす力もまたアルコールに支配されていた。
きっと、からださえ動いていたら、おれはコイツを殺していた。
「……覚えて……ない……」
初めて嘘を吐いた。それだけで、もう限界だった。おれはテーブルに倒れ込む。
「……こおり」
「ん?」
「たべたい……」
「ああ、わかる。喉が熱くなるんだよな」
わかっているのか疑わしい。それほどケロッとした顔をした男が俺の口元に氷を運ぶ。そして、あろうことか手酌でテキーラを飲みだした。こいつはゲームの外でも酒を飲んでいる。バカなんじゃないか?
「水も飲め」
「……いまはのめない」
「吐いてもいい。そのほうが楽になる」
屈辱だ。考えうる限り、最悪の流れだった。何が悲しくてこんなやつに介抱されなければならないんだ。おまえもおまえだ。潰した相手を介護する気分はさぞかし最高だろう。そうだ、これを聞いてやろうか。「いま、たいそういい気分だろう」、と。
おれは酩酊した意識の中でテキーラに手を伸ばす。もうテキーラは残り少ない。これだけ聞いたら眠ってしまおう。
これくらいならラッパ飲みでいい。そう思い掴んだ瓶をレナートが奪っていった。
「……最後の質問だ」
アルコールを水のように飲み干して、憎たらしいエリートは口をひらいた。
「イグニスは、好きか?」
ああ、めんどくせえ。寝たふりでもしてやろうかと思った瞬間、意識が落ちた。
*
目覚めたら気分は最悪だった。レナートがベッドサイドに腰掛けて、あろうことがウォッカを飲んでいる。こいつ、バケモノなんじゃないか? 水と酒を入れ替えるマジックの類と言われたほうが、まだ信憑性がある。
「……目が覚めたか」
「…………さめた」
だからおまえは帰れ。口を開く前にレナートが微笑む。
「だいぶ吐いたからな。寒くないか?」
だいぶ吐いたからな? おれはどんな失態をしたんだろうか。精神的にも、肉体的にも震えが止まらなかった。寒くてたまらないが、言うつもりはない。
「急性アルコール中毒だな。まぁ、水分を取って眠れば治る程度だろう。ほら、これを飲んで」
帰る気はないらしい。そして、言う。
「……おまえの気持ちが聞けて、よかった」
おれは何を言ったんだ。最悪だ。こいつを殺しておれも死ぬ。いや、おれが死ぬ必要はないからこいつだけ殺す。
殺意だけではからだは動かず、おれの意識はここで途絶えた。
*
あの最悪のゲームから一週間ほどだろうか。おれはいつもどおりに大部屋の扉を開ける。
その瞬間、パァン! という大きな音が聞こえた。反射的に銃を構えるがその手を押さえられる。敵は何人だ。テオは無事なのか。敵が来たのか本来の味方が来たのか。疑問が満ちた脳に声が聞こえた。
「ダニー! ミハイル! おめでとう!」
呑気で底抜けに明るい声だ。目の前にはおれの手を押さえたダニーがいる。やわらかく笑う表情は、最近見せるようになった顔だ。
「……は?」
「今日はダニーとミハイルがここに来てから一年の記念日だからね! ごちそうもプレゼントも用意したんだ!」
キールが満面の笑みで告げる。部屋のど真ん中、一番でかいテーブルにはたくさんの食事が乗せられていて、レナートがプレゼントと思わしき箱をふたつ、持っていた。
「……ミハイル、レナートに潰されただろ」
「なっ、なんでそれを」
「おれも潰された。好きな食べ物と、飲み物と……ほしいものを聞かれたんだ」
そう言って笑う。テーブルを見れば、その一角には大皿にのった大量の唐揚げがあった。
「ミハイル、なにが欲しいって言ったんだ?」
「……時計」
プレゼントの大きさもそれくらい。唐揚げの横にはダニーの大好きなハンバーグが山積みになっている。
「おれは辞書。おおきさ、あれくらいだよな」
「はは……外車とか言っておけばよかったな」
レナートが笑っている。キールも、リーダーも笑っている。ダニーと一緒におれは部屋の中心へと歩き出す。
『イグニスは、好きか?』
あの夜、おれはなんて答えたんだろう。