名前のない魚 古論クリスは歩いていた。通行人の視線にも気が付かずに。
彼、いわゆる美男子は歩を止める。彼の視点は、道端の露天商に注がれていた。
彼は、仲間である青年のことを思い浮かべていた。青年の名は、想楽という。
想楽は実に様々な雑貨を持っている。きっと雑貨が好きなのだろう、とクリスは考えていた。もし、この店に何かいいものがあればお土産にするのもいいかもしれない。きれいな、置物などどうだろうか。意にかなう商品はあるだろうか。すこしだけ浮き立つ心を隠すこともなく、彼は店主と思わしき男性に告げる。
「何か、面白いものはありますか? 飾れる、美しいものがよいのですが」
通行人がそうするように、店主もまた彼に振り返る。目が合うと店主は、すきっ歯を見せて笑ってみせた。
「キレイなもの、ね。兄ちゃん、青色は好きかい?」
「ええ! それはもう! 青は、海の色です。悠然とした、深い、慈しみと恐怖の色です」
クリスは青、という単語に反応して、この短時間で想楽のことを忘れた。少しだけ。
「じゃあ、これがいい。これが、この店で一等青くってキレイだ」
そう言って、思案することなく店主が差し出したのはとても小さなガラス瓶だった。その中身は、美しい青で満たされている。
「これは……インクですか?」
「そうだよ。キレイな色だろ。海の色で、空の色で、真実の色で、少女の瞳の色で、少年の悲しみの色だ。そうしてきっと、涙の色でもある」
「……素敵な色ですね。そして、あなたの言葉も。とても詩的です」
「オレが詩なんて思いつくもんか。ぜーんぶラベルに書いてあるよ」
そう言って、店主はまたすきっ歯をみせる。店主が指を指したラベルには、どこの国のものかわからない文字がミミズのようにのたうち回っていた。
「で、どうすんだい?」
クリスは、値段すら聞くことなく答えを決めた。少年が蝶を捕まえた時のように高揚する脳は、もう想楽のことを思い出すことはなかった。
ただ、彼の名誉のために言っておくが、彼は薄情者ではない。その青が、あまりにも蠱惑的だった、それだけの話だった。
「おい、兄ちゃん」
礼を言って立ち去ろうとするクリスを店主は呼び止める。
「一滴、水に垂らしてみろ。おもしれぇから、な」
「……? わかりました。ありがとうございます」
そうして、クリスは帰路についた。その手に、大事そうに壊れ物を携えて。
***
万年筆は持っている。入っていたインクを洗い流して、その青いインクを入れた。
試しに紙面にペン先を滑らせてみれば、見覚えがあるはずの、それでも初めて出会うような青が滲む。
ガラス越しに見たときから美しかったが、真っ白な紙に映えたそれはますます魅力的だった。言いようのない感情が胸に満ちる。
誰かに今すぐこの青を伝えたい。だけど、みんなに内緒にしておきたい。
少しだけ思案して、意味のない言葉をいくつも書いた。その言葉は、この青が示しているだけで価値があるものになった。見慣れた単語はまるで意思を持って呼びかけてくるようで、心がそれに呼応する。海のような、ただ、海には一歩及ばない青。純粋な海色ではない、様々を内包した色だ。ラベルの文字は読めない。店主の言葉を脳内で反芻する。きっと、一番近いのは少女の瞳の色なのではないか。そう思う。
しばらく文字を記す青いインクを見ていた。ぼんやりと、王様のような気持ちでそれを眺めていた。手の平に収まる、小さな海。決して支配することのできない海を少しだけ抱いたインクを、指先でなぞる。
誰にも教えたくなかったけど、彼らには教えてもいいかもしれない。そう思い、手紙を書き始めた。私を導いてくれたプロデューサーさんと、特別な仲間である雨彦と想楽。この三人に手紙を書き始めた。
するすると気持ちを記していくインクは、気を抜くと見惚れてしまいそうだ。いつもよりも長い時間をかけて、私は手紙を書き終えた。窓の外は帳が降りて、インクよりも深い青紫になっていた。星は、見えない。
そろそろ、この一日を閉じる支度をしないと。そう思い、風呂を沸かす。時間が遅かったからシャワーで済ませてもよかったが、この素晴らしい日を湯船に浮かびながらゆっくりと思い起こしたかった。
しばらくして、湯船に張られた透明を見て思い出したことがある。あの、店主の言葉。
『一滴、水に垂らしてみろ。おもしれぇから、な』
なにが面白いのだろう。そう思った私は洗面器にお湯を掬い、その中にインクを一滴垂らした。何が起きるかはわからなかったから、あれが店主のジョークだったら、この水ごと排水口に流してしまおう。そう思っていた。
インクを一滴。それは透明な液体に希釈されて消えていくはずだった。存在するはずなのに、誰にも見えなくなる、はずだった。
「……おや?」
想像に反して、そのインクは消えることなく水中に存在していた。洗面器のなかで、その色と球体を保ったまま、ゆらゆらと漂っている。まるで、色のない宇宙に浮かぶ地球のようだ。情緒のない言い方をするなら、青いまりも。
確かに、これは面白い。面白いと言うより、不思議だ。なぜ、このインクは溶けていかないのだろう。考えても、答えはでない。
ただ、この美しいものを排水口に流してしまうのは惜しかった。家中をひっくり返して、持っている中で一番綺麗なガラスのコップを持ってきた。
そうっ、と。液体と球体を移す。そうして、ガラスいっぱいに満たされた水に浮かぶ、一滴のインク、その青をただ見つめていた。風呂は冷めたけど、そんなことはどうでもよかった。
窓際に、球体のたゆたうガラスを置いた。ふとした瞬間、それを眺めることが増えた。
それは心を穏やかにする。不安にもなる。正体不明の青。ただ、私はそれを、とても大切にしていた。
手紙は喜ばれた。プロデューサーさんは嬉しそうに笑ってくれたし、想楽はその青色を褒めてくれた。雨彦も何か思うところがあったようで、しげしげとそれを眺めていた。きっと、感動していたのだろう。
インクは残り、2/3、より少ないくらい。彼らはこのインクがどんなに不思議なインクかを知らない。それでいい。
秘密を作るのはひさしぶりだった。
ある日、想楽がメモをくれた。説明を聞く限り、とても不思議なメモのようだ。
「そのメモはー、水に溶けるよ、不思議でしょー? ふふ、二人の趣味ではないかもしれないけど、なんだか愉快だったから」
あげるよ。と、想楽は私と雨彦にメモ帳をくれた。きっと海にも溶けるよ、と想楽は言った。これは、ウサギだろうか、メモ帳は動物の形を模しているように思えた。きっと、ここが耳だろう。
申し訳ないが正直なところ、家に帰ったあたりでそのメモ帳からは興味が失せた。興味が失せた、とは少し違うかもしれない。持て余した、あたりが近いのだろうか。
このメモ帳、水に溶けてしまうということが、メモ帳の機能を損なってているような気がしたのだ。メモ帳を水に浸す機会などはないが、その特徴はメモ帳としてどこか頼りなく感じられたのだ。おそらく、それが売りだというのに。
そんなことを考えて、手元のメモ帳から、窓際へと目線を移す。
ここのところ、手持ち無沙汰になろうがなるまいが、ガラスを満たす液体に浮かぶ球体を見ている。定期的に変えている透明な液体のなかで、それはふよふよと漂っている。
それを見て、閃いた。先程のメモ帳に文字を書いて、そのまま水に溶かしたら、インクはどうなるのだろうか。
あの日、インクを手に入れた日のようにわくわくした。急いで深めのガラス皿に水を張った。洗面器よりも、こちらのほうが様々な方向から結果を見ることができるだろう。
一文字、『海』と書いて、そのメモ帳を水に沈めた。本当に、メモ帳はぐずぐずに溶けていく。が、それは話に聞いている。想楽には申し訳ないが、私の興味は別にあった。さて、どうなるのだろうか。
「……これは」
驚いた。インクはいくつもの球体になることなく、文字の形を保ち続けた。インクで繋がらぬ、漢字の右側と左側は、分かれることなく一定の距離を保ち続けている。
もし、横に誰かがいたら大きな声でこの衝撃をまくしたてていたかもしれない。ただ、たった一人のこの部屋で、私は深い息を吐くことしかできなかった。
なにやら、今までに学んだものを否定された気がした。バカにされたようにさえ感じられたが、なってしまったものはなってしまったのだ。おそらく、このような局面に陥った多くの人間がそうするように頬をつねり、その痛みに平伏すようにこの現実を受け入れた。
水に溶けないインクがあるように、これもまたいくつかの当然なのだろう。
とある日。あの当然に過ぎた摩訶不思議な出来事からしばらくのこと。
私は朝焼けを映す海にいた。手に、一通の手紙を携えて。
手紙には、私の秘密が記されている。隠すようなことではないが誰にも言っていないことくらい、私にもあった。
秘密のインクで、秘密を綴る。それは何やら、とても愉快なことのように思えたのだ。
ボトルメールに興味があった。だけど、これはきっと、もっと面白い。
胸が浸るくらいまでの深さまで、歩いていく。手に持った手紙が水に触れないようにしながら。
そうして、ある程度海に入った辺りで、そうっと手紙を海に浸した。
紙は脆く滲んでいく。私の文字が海に漂う。
そうして、私の秘密は波にさらわれていった。海に手紙を託す人間とは、こんな気分になるのだろうか。
インクの残りは1/3になっていた。アイドルとしての活動が波に乗っていた。私は目まぐるしい日々の中で、一匹の魚を思い出していた。
とあるインタビューで、私の起源について質問を受けた。記者は私の歴史というよりは、なぜ私が海に傾倒したのかについて興味があるようだった。
幼少期に見た、スペインの海が如何に美しかったかを語った。それから、どれほどまでに海を愛し、ここまで来たのかを。
「どんなお子さんでしたか?」
「とにかく、海が好きでした。スケッチブックいっぱいに魚の絵を描いて……」
その自分の言葉に、思い出したことがある。おぼろげな記憶に形を与えるため、私は実家に連絡をとった。
探しものを見つけるのは苦労した。結局、探していたスケッチブックは見当たらなくて、私はだいぶがっかりした。しかし、そのスケッチブックと共に幼少期の私が満面の笑みを浮かべている写真があった。あの日脳裏をよぎった、不鮮明な一匹の魚、その姿形をようやく思い出した。
それは私の頭の中だけにあった、空想上の魚だった。
ヒレの数、エラの位置、しっぽのひろがり、目の行方、うろこの形。全てがデタラメだ。こんな魚はここまで生きてきてなお、お目にかかれたことがない。
それでも、会えて良かった。私はその写真を見ながら、メモ帳に不思議なインクでその魚を描いていく。流石に幼少期と比べたら絵心はマシになったが、これは当時描いた姿でないとダメだ。線を意図して崩し、ありもしないうろこの形に苦笑しながらその姿を描いていく。完成した魚は、やっぱりデタラメだった。それでも、私は宝物を見つけたみたいに嬉しかった。いや、これは確かに私の宝物だ。世界でたった一匹の、名前のない魚。
私はまた海にいた。
ただ、文字を海に流した後にも海には何度も行ったから、いつものことなのかもしれない。
今日の私の手にはあの日のように、紙が握られていた。その紙には、あのデタラメな魚の絵が描かれている。
あの日のようにぎりぎりまで海に入り、紙を水に浸す。魚がじわ、と紙から乖離して、海の中に漂う。ゆらゆら、まるで、遊泳するように。
やがて、たゆたう魚は沖の方にと姿を消した。
なんだか、いたずらが成功したみたいな気分だ。子供のような高揚感。また一つ、秘密が増えた。
世界には、たった一匹の名前がない魚が今日も泳ぐ。
私のこの手を離れた魚はどこに行ったのだろう。知る由もない。
インクはもうない。残ったのは、一滴のインクが浮かぶガラスだけ。
ただ、あの広大な海には今も、私の手紙とあの日空想した魚がいる。デタラメな魚は、きっと今日も海を泳ぐ。
それは、私だけの秘密だ。