優しい人星が見え始めた寒空の下、牙崎漣は苛立っていた。クリスマスという文化に苛立っていた。それは宗教上の理由でも、彼が今たった1人でクリスマスと言う日を歩いているからでもなかった。それは今に始まった話だった。彼はほんの一時間前までは上機嫌だったのだ。
彼が初めて体験したクリスマス。そこで彼が得た恩恵は計り知れない。色とりどりのケーキ。かぶりつけと言わんばかりの骨付きチキン。バラエティに飛んだピザの群。食べ盛りを満足させる、肉がたっぷりと乗ったサラダ。飲み慣れない、しゅわしゅわとした爽やかな飲み物。そして、事務所の全員で交換しあったプレゼント。重ねて言おう、彼は本当に上機嫌だったのだ。
小さな子供もいる事務所だ。帰りを待ちわびる家族がいる人も少なくない。事務所でのパーティーは昼前から始まり、夕方には終わった。後片付けなど面倒だと、誰にもバレないように彼は事務所を出た。本当は、数人にはバレてることに気がついていた。ただ、それが優しさなのかは彼にはわからなかった。
クリスマスは馴染みがない。それでも自分の上機嫌を分け与えるように、覇王に多めに煮干しをやった。しばらく冬毛をもこもこにした覇王と遊び、口うるさいチビと鉢合わせる前に路地裏を後にした。そうして思った。小腹が減った、と。遠慮なしに腹に詰め込んだ食料を裏切るようなことを思った。食べたいモノは決まっていた。
イチゴの乗ったケーキが食いてぇな。
ケーキなら食べている。ただ、イチゴのショートケーキは食べていなかった。チョコのケーキを食べて、チーズのケーキを食べて、よくわからないが香りと味の良い真っ赤なケーキを食べた。それを咎められないほど、用意されたピースは多かった。
さて、それでも収まらない食欲は、宝石のような赤い果実で飾られたケーキを見初めた。しかし、彼は気がついてしまった。手を伸ばした先のケーキに目線を向ける気弱な少年に。
彼はショートケーキを手に取り、それをそのまま弟子と呼ぶ少年の皿へと乗せた。それが最後のショートケーキだった。遠慮する少年に背を向けて、残ったピザを食べていたらショートケーキへの興味はパタリと失せた。
のだが、彼は今、何故か無性にイチゴのショートケーキが食べたいのであった。
彼はデパートへと赴いた。誰かがデパートのケーキはおいしいと言っていたのを覚えていた。期待を胸にデパートの階段を下りた彼は愕然とした。
人、人、人。見渡す限りの人の群だ。彼はデパートに立ち入ったことがなかったので、これにはたいそう驚いた。なんなら怯んだ。彼は人混みがあまり好きではなかったのだ。
帰ってもよかった。しかし、彼はすぐにムキになるし、意地になる。誰と勝負をしているわけでもないのに、引き下がるのは癪だった。
彼は歩いた。普段の自由な足取りを妨げられながら、なお歩いた。人の波に飲まれ、香水の匂いに顔をしかめ、ざわざわと騒がしい店内を歩いた。
適当に決めた店には列が出来ていた。いや、どの店にも列が出来ていた。最後尾に並び、数時間にも感じられる三分間をすごした。ようやくたどり着いたレジで、彼は信じられないセリフを聞いた。
「ご予約のお客様ですか?」
ご予約。聞き返そうとしてやめた。それに自分が該当していないことがわかったからだ。
静かに首を振る彼に、レジの女性が申し訳なさそうにケーキは買えないと説明をする。彼はケーキを手にすることなく、また人の波へと飛び込んだ。
ご予約、ご予約。ご予約ってなんだよ。彼は疑問と腹立ちを交互に咀嚼するが、飲み込めずに吐き出すことしかできない。
デパートを出た頃には馴染みの商店街は活動を止めていた。反対側、駅へ続く道の賑わいに脚を進めれば、そこには白タキシードの老人が微笑むチキン屋さん。チキンでいいか。少し上を向いた気持ちに投げかけられたのは、またもこの言葉。
「ご予約のお客様でしょうか?」
なんなんだよ!今日は!
散々だ。クリスマスってのはワケがわからない。飯が食える日だと思ったら、飯にありつけない日でもある。全く持ってわからない。
足は自然と男道ラーメンへと向かっていた。ここならラーメンが食べられるという、絶対的な信頼があった。彼は知らないが、きっと彼はケーキが無事に買えても、クリームをぺろりと飲み込みここに来ていただろう。
「らーめん屋ぁ! 大盛り! チャーシュー特盛り!」
どかりと腰掛ければ、先に座っていたライバルが態度を窘めてくる。くだらねー。無視をしてしばらくしたら、望みのラーメンが出てきた。そして、
「……らーめん屋、これ……?」
ラーメンの横、本来ならザーサイなどが入るべき鉢に無理やり詰められていたのは、イチゴが一つだけ乗った、シンプルで真っ白なケーキだった。
「…………どーして?」
ご予約なんて、してないのに。
「おまえさん、食べたかったんだろ? 直央に譲ってくれたんだってな。タケルが言ってた」
「円城寺さん! それは言うなって言っただろ!」
大慌てで声をあげるこの男に見られていたのか。気恥ずかしさよりも驚きが勝った。よりにもよって、この、いつもは「オマエには興味ない」と言わんばかりの、こちらが追いかけてばかりの人間が。
「……俺は見かけて、それを話しただけだ。ケーキを買ってくれたのは円城寺さんだぞ。円城寺さんに言うことあるだろ」
「……くはは!オレ様に貢ぎものなんて、わかってるじゃねーか!」
オマエな、と呆れた声が聞こえる。それをおおらかに笑い飛ばして、道流が笑った。
「いい子にはクリスマスプレゼントをやらないとな! もちろん、タケルにもだ。人の良いところに気づけるタケルも、優しい子だ」
そういって差し出されたケーキは、三角のチョコレートでネコの耳が模してある。二人は少しうろたえる。道流は二人を安心させるように、自分のぶんのケーキも取り出した。
ケーキを食べた漣は思った。
もし何かの気まぐれでデパートのケーキを買うことがあったら、この二人の分も買ってきてやってもいいかと。
だって優しいいい子にはプレゼントをあげるらしいから。コイツらには、あげたっていい、と。