月下に恋心 思えばコイツが人間であるという証拠は一つもなかった。だけどそんなことを疑ったことなんてなかったから、それを見たときは驚いた。
男道ラーメンで夕飯を食べて、コイツと一緒に帰り道を歩いていた。コイツは二つ先の角で俺と分かれるはずだった。
冬は寒いから家に来ればいいと思う。だけど、円城寺さんの家にすら行かなかったコイツが俺の家になんてくるはずもない。だから誘いを口にすることもできず、ただ雨が降らないようにとぼんやり考えていた。
寒いのに外のがいいのか。夜はなんでこんなにも静かなのか。眺めた月明かりを湛えた目はどこを見ているのか。視線で撫でた表面のその下、内側を一切見せないその皮膚が青白く見える。
その内側を覗いてみたい。そんな叶うはずもない欲求を抱いた相手はコイツが初めてだったかもしれない。
何かを投げかけたら、変わるだろうか。そんなことを考えながら歩いていたら、ふいに聞こえた音に意識を引き戻される。
ごしゃ、だとか、ぐしゃ、だとか。そういう音。それから、パキッ、って。
自分の足元から数歩先を歩くアイツに目をやると、その体が看板の下敷きになっていた。
「……は?」
よく理解ができなかった。おそらくは、落下してきた看板がコイツを潰したというシンプルな事象。ただ、真実味を感じるにはあまりにも現実離れしている光景。
ドラマなら足元まで血まみれになるんだろうけど、血は少ししか出てなかった。人間ってあんまり血がでないのか。そんなことを考えて、傷が浅いのだろうかと考える。
軽傷なのだろうか。そうだといい。そう思い近づくと、少しだけ慌てたような声が聞こえる。
「おい、逃げんなよ」
いつもと同じ、喧嘩腰の声。
「誰が逃げるか」
売り言葉に買い言葉。いや、反射的に返したが、逃げようにも足は磔にされたように動かない。ただ看板とその下の肉を眺めているだけの俺に、アイツが呆れたように口にする。
「……これどかせ」
「あ、……ああ」
「ビビんじゃねーぞ。……そういう体質なんだよ」
そう言って、うんざりしたように瞳を閉じる。体質とはなんのことだろう。何もわからないまま近づけば、一人で持ち上げるには重そうな看板がコイツの上に鎮座している。
「持ち上げ……ちょっとまて、人を呼んでくる」
「はぁ!? 余計なことすんじゃねーよ!」
「一人で持ち上げられるわけないだろ」
「んなもん、引きずりゃずらせるだろ」
「なっ……バカか。そんなことしたらオマエの体が」
引きずった鉄の塊に、コイツの肉が引き裂かれる想像。
「いいんだよ。どうせ治っから」
「……は?」
「今夜は満月だから」
だから治るとコイツは言う。人間の、いや、生き物の傷がそんなおぼろげな存在で治るものか。そう言いかけて、喉がつかえた。常識的なことを口にするには、この状況はあまりにも信じがたい。もしかしたらこの看板、見た目の割にはすごく軽いとか。そう思い看板を持ち上げようとしても、一人で持ち上げることができない程度には重たい。これが俺に乗っているとしたら。イメージだけで内蔵が口から出そうだ。
「……オマエ、本当に大丈夫なのか?」
「しつけーぞ。早くどけろ」
コイツは相変わらず、目下の問題は動けないことだけだと言わんばかりの口調で俺を急かす。あまりにも、あまりにも現実味がない。
ここで思い至る。もしかしたら、夢なのかもしれない。夢ならどうとでもなれ。そう思い、一思いに看板を押す。ぎぎ、と。石を削るような音がする。それに怯んで止まりかけた手を詰るアイツの声。望みを叶えるために思い切り押した看板が、コイツの胸板を削いでいった。
うわ、って思った。夢でも気分がいいものではない。でも、この段階で俺はここが現実だとは思えなくなっていた。夢だ。確信した。
コイツの露出した胸が、キラキラと輝いている。
皮膚が剥がれたところからボロボロと、ゲームで見た鉱石のようなものが落ちてくる。パールのように色が変わる鉱石が、アイツの体を構成していた。
脆いのだろうか。崩れそうなそれをとっさに押さえる。夢とはいえ、体が勝手に動く。看板から開放され、ごろりを傷口を夜空に晒したアイツが言う。
「月の光に当てときゃ治るから、ほっとけ」
治るもなにも、この夢が覚めればなかったことになるのはわかっている。それでも胸元が掘り起こされた鉱山みたいになっているコイツは見過ごせない。何かできることはないだろうか。コイツのためでもいいし、夢から覚めるためでもいい。
「おい、いい加減手ぇ離せ」
「ん、ああ」
どうやら傷口と違って、押さえていても意味のないものらしい。そっと手を離せば、堰を切ったように胸元が崩れていく。土砂崩れってこういう感じだよな、と思って見つめていた視線が、ふと鉱石の中にルビーのような輝きを見つける。
「……これ、なんだ?」
疑問を手にとる。それはハートの形をしていて、内側から熱が伝わってきた。おい、これは。問いかけようとした声は、アイツの悲鳴のような声にかき消された。
「……ああっ! てめぇ! 何触ってんだ!」
看板に潰されても顔色一つ変えなかったアイツが大声を出した。見ると、顔と耳が真っ赤に染まっている。
「どうした? オマエ……顔赤いぞ。もしかして、具合が……」
「んなこたどーでもいいんだよ! いつまでそれ持ってるつもりだチビ!」
なんだか、えらく慌てている。この宝石はそんなに大切なものなのだろうか。まじまじと見つめるが、それがとてもキレイなことしかわからない。
「バ……バァーカ! 見てんじゃねーよ! ヘンタイ!」
「ヘンタイ? なに言ってんだオマエ……」
「だって、オマエ、オレ様のハート……」
手の中の赤を指さして、徐々に小さくなる声でコイツが言う。言われなくても、このハート型の宝石がオマエのものであることくらい、わかってる。
「いいからとっとと離せ! ああ、もう! こっちに戻さなくていいから! どっかぶん投げちまえ! 捨てろ!」
コイツはぎゃーぎゃーと、ボロボロの胸元を気にすることなく叫ぶ。投げるって、オマエ。
「なんだよ、オマエの中に入ってたんだ……なくしたら困るだろ? 捨てるなんて言うなよ」
「困るも何も、捨てれたら苦労しねーんだよ! いいからとっととぶん投げろ!」
どんどん白熱していく会話。それに呼応するように、宝石がどんどん熱くなっていく。
「……? おい、これ熱くなってきてるぞ」
もともと熱かった石は、どんどん熱を増して持っているのが辛いくらいだ。
「チビのせいなんだよ!」
「は? なんで俺のせいになるんだ」
「チビが離せば……ってか、チビが黙れば冷めっから!」
理屈はわからないが、夢なので深追いする気にはならなかった。言われたとおり少しの間黙っていれば、宝石の熱が引いていく。アイツを見ると少し落ち着いたのか、真っ赤だった顔が少し落ち着いていた。
アイツの周りに散乱した石。それを風が撫でていく。それに従うように、塊はサラサラと崩れて消えていく。
アイツの体だったものだ。大丈夫なのか、と焦ったが、アイツをみると徐々に体が戻ってきている。
「……本当に戻るんだな」
「だから言っただろ」
見慣れた形に戻ったところから、薄い皮膚が再生していく。そこで、ふと気がつく。このハートをしまわないままもとに戻して平気なのだろうか。心配になって問いかければ、先ほどと同じようにそんなものはいらないと突っぱねられる。捨てろ、と。相変わらずうるさいコイツを黙らせるため、遠くに投げるふりをして、そっとポケットにそれをしまった。
だって、捨ててしまうには惜しいくらい、それがキレイな赤だったから。そうして、ポケット越しにその熱を感じながら月光浴をするアイツを眺めていた。
五分も経っていないだろう。ある程度元に戻ったアイツが、何事もなかったかのように立ち上がり、歩き出す。まだ胸に亀裂のようなものが走っていたのに。さすがに心配になって、慌てて追いかける。背中、うなじ、耳元。さっきより落ち着いているけど、まだ少し耳が赤い。
「おい、オマエ顔が赤いぞ。やっぱり怪我をしたから……」
「関係ねーよ」
また拒絶だ。夢の中でくらい、素直にこちらの気持ちを受け取って欲しい。そう願いながら口にする。
「……今日は俺の家に来い。せめて熱が引くまで……」
「誰のせいでこうなったと思ってんだよ!」
「……また俺のせいか?」
理不尽は、夢特有の現象か。夢の中でまで、コイツはコイツだった。まぁ、俺のイメージするコイツなんだから、当たり前か。そんなことを考えていたら、黙っていたコイツが蚊の鳴くような声を出した。
「だって、オマエが……見たから……」
意味がわからない。見たって、何をだ。現在進行系、見てるのはこのけったいな夢だ。
「……見たって何をだよ。オマエの中身か? あの白っぽい中身と、赤い石?」
「……わかってねーのか?」
「……は?」
「……んだよ! わかってねーならそう言え!」
「は?」
そんなやりとりをしているうちに、分岐点の曲がり角についてしまった。アイツは何やらキレ散らかして公園への道を歩き出そうとする。俺はその腕を掴んで、思い切り振り払われる。
「おい、俺の家に」
「ぜってーやだ!」
そうしてアイツは夜に消える。俺にはわからないことだらけだけれど、証拠のように残った宝石をポケットから取り出す。見慣れた赤とは違う、でも俺の知っている言葉で一番近い言葉で言う、『赤』。
こんなキレイなものも、夢の中ならありだろう。いつまでたっても覚めない夢の中で、俺は帰路につき、風呂に入って、眠った。
目が覚めても宝石は手元にあった。ぼんやりと帯びている熱に、まだここは夢かと思ってしまう。
あまりにも当たり前に始まった朝に戸惑いつつも、夢であることはロードワークをしない理由にはならないため外に出る。当たり前のように合流したアイツに、夢の延長線上で声を掛ける。
「これ……本当に返さなくていいのか?」
そうして差し出した宝石を一瞥したあと、アイツが洋服のジッパーを下げ、胸元を露出する。
夢とおんなじでその胸には亀裂が生じていて、その隙間から真っ赤な宝石が見える。
「……捨てられねえって言っただろ。そんで、捨てろって言っただろ」
コイツも同じ夢の話をしてる。もしかしたら、これは現実なのかもしれないとぼんやり思う。荒唐無稽な出来事よりも、俺とコイツが同じ夢を見ることのほうが、不思議なことに思えたから。
「捨てろ」
もう一度、コイツが言う。
「……いやだ。持ってる。オマエがいらないって言っても……俺はこれがキレイだと思うから」
言葉を返し、宝石はポケットに。コイツを見やると、柔らかに戸惑っている。
「……そーかよ」
コイツがどこか嬉しそうなのは、きっとこれから追いかけっこが始まるからだ。
きっと、そうだ。