ちょっとそこまで 三月の、寒い夜だった。
空気も、風も、星も、冷たく瞬いていた。星を眺める間もなく踏み入れた通りは街灯がいくつも光っていて、その人工的な明かりの下をお互いに言葉もなく歩いていた。
こういうとき、僕が何も言わないのはいつものことだ。だけど、天道が黙っているのは珍しかった。
こちらを振り向かないのも、珍しかった。ただ、数歩先を無言で歩く背中についていった。
柏木は、いなかった。こういう日が少し増えたように思う。
車も、人も、猫も通らない道路の端の方、天道がくるりとこちらに振り向いた。街灯に照らされた鼻の頭が、寒さで真っ赤になっている。
頬の色を変えず、天道は言った。
「なぁ、俺が桜庭のこと、好きだって言ったらどうする?」
驚きはなかった。そうだと思っていたわけではないが、そうだとしてもおかしくないと思っていた。
「……嫌ではない、と言ったらどうする?」
僕はきっと、顔色を変えずにそう言った。天道は僕の言葉を聞いて、くしゃりと笑った。
「質問に質問で返すなよ」
そういって、手を差し伸べてきた。僕はその手を取って、天道の家までのわずかな道のりを歩いた。
「……で、どうするんだ?」
「……どうしような」
天道は曖昧に笑う。
三月の、寒い夜だった。世界中、僕らのことなんて気にしていなかった。
数週間で僕と天道の距離は少しだけ、だけど確実に変化した。
その中で、何を報告すればいいのかはわからなかったが、何かを柏木には伝えなければいけないと思った。
天道は自分が僕のことを好きだということを柏木に伝え、それを聞いてこちらを見てきた柏木に、僕はそれが嫌ではないことを告げた。ただそれだけのことで、柏木は嬉しそうに笑ってみせた。
柏木は『好き』という言葉が持つ意味の違いがわからない男ではない。それでも、柏木は笑った。
プロデューサーにも同じことを伝えた。プロデューサーは少し困ったように何点か注意事項をあげたあと、面白そうに口にした。
「不仲営業、続けますか?」
営業じゃない。僕と天道の声がぴたりとそろった。
世間体がある。僕の性格もある。関係が変わっても、僕と天道は二人で出かけることがあまりなかった。
天道の家で、穏やかに過ごす時間が増えた。柏木がいて、三人で食事をして、のんびりテレビを見て、夜になっても僕だけが帰らない。少し変化した日常は、悪くなかった。天道が用意した僕のパジャマは、生地も趣味もよかったから気に入ったが、口には出さなかった。
星のきれいな夜だった。少し、夜更かしをしていた。明日の予定を脳内で反芻していたときに、天道の声が聞こえた。
「なぁ、煙草が切れたから買いに行かないか?」
煙草を吸うのか。初めて知った。隠し事ではなかったのだろうが、少しだけ心が揺れた。近い感情は、きっと怒りだろう。
「……吸うのか?」
それでも、僕の声はいつもと変わることはなかった。
「意外か?」
今から思えば、天道は『意外か?』と、それだけを言った。
「……ほどほどにな。健康を害するし、アイドルとしてのイメージもある」
「そうか? 大人の魅力って感じで、悪くねぇんじゃねぇの?」
お前といるときには吸わないよ。そう言って天道はパジャマの上からダウンを羽織る。
「着替えないのか」
「ちょっとそこのコンビニまでなんだから、いいだろ」
天道に習って、僕も上着を羽織る。本当は着替えたかったけれど、とっとと玄関に向かった天道を追うためには、上着を羽織る程度の時間しかなかった。
まだまだ寒い夜だった。いつかのように、星よりも街灯がうるさい道を歩く。
コンビニまで、おおよそ五分ほど。いつかのように天道の背を追うことはなく、ただ、影を伸ばしながら並んで歩いた。
手が触れることはない。それが残念だとは思わない。僕の性格は、つくづく『こういうこと』に不向きなようだ。
「なぁ、アイスとプリン、どっちがいい?」
こちらを見て、冷えた空気を震わせて天道が問うてくる。
「……は?」
「夜食だよ、夜食」
「……アイドルということを抜きにしても、この時間に甘いものか」
「いいじゃねーか、たまには」
コンビニは近い。くだらない話は収束することなく、入店音で途切れる。
天道は煙草と、二つのプリンを買った。僕はただ、それをぼんやりを見ていた。
季節が移り変わって、緑の匂いが濃くなった。あれから天道は何度か煙草を切らして、そのたびに僕らは深夜のコンビニへとでかけた。問答のような問いかけをした三月の夜とは違い、やはりお互いの手が触れることはなかった。
煙草を買い置きしておけとは言わなかった。僕らしくなかった。まるで、あのやりとりと深夜に歩くあの道を、楽しんでいるようだと思った。自分の感情もわからないまま、そうしていくつかの夜を歩いた。
その日は、昼間と比べると寒い夜だった。天道は風呂に入っていて、僕は寝支度を整えていた。
寝る前の習慣だ、台本を見返す。ふ、と目にとまるところがある。ペンを探す。天道のデスクにあるだろう。
デスクに近づくと、引き出しが開けっ放しになっていることに気がついた。天道らしいようで、らしくないようにも思う。閉めようと近づくと、引き出しの中が見える。
「……そういうことか」
呆れた。あの男は単純ではあるが、素直ではないようだ。
引き出しには、天道が買っていた煙草が封も開けられずに投げ込まれていた。
「どうした? 桜庭」
風呂からあがった天道の声が後ろから聞こえる。振り向いて、こう告げる。
「……煙草が切れた。買いに行くぞ、天道」
笑ったつもりはないが、きっと僕の唇は弧を描いていた。
「……吸うのか?」
愉快そうに、天道が口にする。あの日の僕と同じ言葉を口にする。
「吸うわけがないだろう」
そう言った瞬間、お互いに耐えきれなくなった。いい年をした大人が、親から隠れた子供のようにひそひそと笑う。
「……なぁ、デートしようぜ、桜庭。コンビニまでさ」
「いいだろう……もう、煙草は買わないな?」
「バレちまったからな」
目的のないデートをしよう。そう言って天道はパジャマに上着を羽織る。僕もそれに倣って、二人で玄関をくぐる。
外の空気はすこし冷たい。でも、これから上着のいらない季節になる。僕たちはパジャマで出かけるのだろうか。わざわざ着替えてこの道を歩くのだろうか。
「ずっと、お前とこうしたかったよ」
そう言って、天道の手が僕の手に触れた。あの日と同じだ。世界中、僕らのことなんて気にしていなかった。