Moonlight drops 月がきれいですね。
意味を知ったばかりの言葉をぽつりと呟いた夜は美しい満月の夜だった。寒くて真っ暗な冬の日だった。星のきれいな、それだけの夜だった。
素敵なことが始まる予感なんてひとつもなくて、ただオレは冷たい夜をテクテクと歩く。のんびり今度カラオケで歌おうと思ってるヒットソングなんかを歌ってみたら、街灯に照らされてオレの息が白く濁った。
コンビニに、行くだけ。恋も、冒険も、ファンタジーも始まる予感はない。別に明日でも済むような用事を後回しにしなかった理由を、どうやらオレは覚えていない。
何を買ったのかも覚えていない。あの日はオレにとって、寒い日でもコンビニに行った日でも受験の三日前でもない、特別な日だったから。
ありがとうございました、ってやる気の無い声で言った店員が男だったことだけなぜか覚えてる。帰り道には誰もいなかったことも。歩幅を変えずにテクテク歩く帰り道、それを見つけた。
四角い、氷、みたいな。
氷だと思う。いまは冬ですっげー寒かったから溶けてないで転がってるのも不自然じゃない。いや、こんな形の氷が自然に生まれるイメージってないけど、いま目の前にあるんだから生まれるものなんだろう。手のひらに収まるくらいの氷は月明かりをぼんやりと浮かべていたけど、そんな小さくてかすかなものをオレが見つけられたのはある種の運命だと思うのだ。
手に取る。冷たい。まぁ、氷だから。四角くて、角が柔らかく取れていて、つるつるしていて、指先が真っ赤になるくらい冷たい。無造作に落っこってたくせにあんまり汚れてる感じもなくて、月の光が閉じ込められたみたいにぼんやり光ってる。月が反射しているのだろうか。見上げた月は氷の中の光と同じ金色をしていた。
一目見て気に入った。神様がそうと決めたみたいにそれを握りしめて家に帰る。オレはバカだしきれいなものを見つけて浮かれていたから、握りしめたら氷は溶けてしまうってことをすっかり忘れて歩いてた。だから本来ならオレはびしょびしょに濡れた手のひらから氷の末路を思い知り、白々しい玄関の電気に照らされながら残念な思いをするはずだったんだろう。それなのに、家に着いたってオレの手のひらには見つけた時と変わらない氷があった。
溶けない氷があるのだろうか。それともオレの手が冷たいのか。冷たければ水で洗っても溶けないよね。ざっと水で洗った氷はますますぴかぴかになって、オレはたいそう満足してしまう。
あんまり使われることのない父ちゃんのロックグラスを拝借して、それに氷をいれた。透明でとってもきれいだ。ここに灯りは電球しかないのに、月下で見たような、ぼやけたはちみつ色が中心で寂しそうに光っていた。
電気を消しても光ってた。ずっと、こうやって光ってたのかな。誰にも見られずに、誰にも邪魔されずに、ぽつん、って。
薄いカーテン越しに見る月明かりみたいな光がグラスのなかで滲んでいる。内側から不思議な鈍い色を放ち続ける不思議な氷。いや、溶けないうえにこんなにぼんやりと光ってるんだからこれが氷じゃないことは明らかなんだけど、これはどう見ても氷なんだよなぁ。だから、氷って呼ぶことにした。
透明な温度。透明な匂い。透明から透けて見える薄明かり。きれいとあやしいの中間、みたいな。
月がきれいですね。愛ってまだよくわからないけど、恋ってきっとこういう感じなんだと思う。正体不明の月明かりに、オレは静かに恋をした。
朝になっても氷は溶けない。学校から帰ってきても氷は溶けない。暖房を入れる勇気はなかったけど、暖房なんて必要なくなったって氷は溶けてない。
桜が咲いたって、運命に出会ったって、アイドルになったって、氷は変わらずにグラスの中にあった。いつだって冷たくて、いつだってつるつるしてて、いつだってきれい。オレを一秒だって裏切ったりせずに、オレを無視したままどこか寂しげな光を滲ませて佇んでいる。
漣っちとちゃんと話したのってホワイトデーで共演してからだ。事務所にいたら声をかけることはあったけど、漣っちがオレ個人を認識したのってこのライブからだろうなって思う。聞いたことないけど、たぶんあってる。
漣っちはかっこいい。漣っちはおもしろい。漣っちは不思議。あと、触れた手が氷みたいに冷たい。態度も冷たいけど、本当は優しい。
気がつくと目で追ってて、話しかけてて、好きだなって思って。でもなんとなく自分のものじゃないって思ってた。思ってたんだけど、思い込んじゃった。総選挙の日、まっすぐにオレを見た漣っちの視線を独り占めする未来を想像しちゃった。
恋をしちゃったんだ。
どうしようもないじゃん。
あ、
漣っちはネコっちに似てるかも。
漣っちは優しい。でも、優しいだけじゃなくてオレのことを少し好きになってくれたなら嬉しいな。漣っちがオレのプレゼントした服を着てくれた日にはすっごい浮かれた。その瞬間にカラン、って音がして、宝物だった氷が一回り小さくなっているのに気がついた。
グラスにはみずたまり。ああ、少し溶けてる。
でも、そういうものだって思って気にしなかった。だって氷って溶けるものだし。
夏のうだるような暑さを耐え抜いた氷がいまになって溶け出した理由はよくわからなかったけど、まぁいっか。
氷が溶けるごとに中心に近づく。光が近くなる。冷たさに閉じ込められていた光が思いの外柔らかくてやさしいことに気がついた。オレは今の氷も昔の氷も好きだった。それぞれに良さがあるって思うし、本質的なうつくしさは変わらないってわかってたから。
漣っちが始めてオレのスマホを鳴らしてくれた。漣っちが麗っちと一緒にオレの特技を見てくれた。漣っちが麗っちと一緒にタピオカの列に並んでくれた。麗っちにごめんねって言ってから八回目のお誘いで、初めてふたりっきりで遊んでくれた。
氷は溶けて小さくなっていく。悲しくも嬉しくもなくて、ただ引きずり出されていく光を眺めて、ぼんやりと「きれいだな」って思ってた。
巡る季節に関係なく氷はだんだん姿を消して、過ごした季節の分だけ漣っちのいろんな姿が見えてくる。
漣っちに告白したのは月がきれいな夜だった。
「月がきれいですね」
「ハァ?」
知らないって、知ってた。
「大好きっす。……愛してるって意味っすよ」
「そーかよ」
漣っちはそれだけ言って、ううん、オレがそこまで聞いて漣っちに抱きついちゃったからなんにも言えなくなっちゃった。
漣っちはオレのことを振り解いたり突き飛ばしたりしないで、それでもオレの背に手を回すこともしなくて、なんだか抵抗をやめたネコっちみたいにだらんってしてた。
「好きでいていいっすか?」
「好きにしろよ」
漣っちはネコっちと同じで強いから、鋭い牙も爪もあるのにオレに抱きしめられてぐにゃってしてる。漣っちに怒られるまで、これはそういうアイラブユーなのだと思うことにする。月がきれいなだけで、愛になるように。
家に帰って、布団に入って、眠れなくて。でも結局寝てて。朝起きたらグラスの中の氷は完全に溶けて消えていた。
やっぱりない。学校から帰って改めて見てみてもグラスには水が溜まっているだけだった。氷だから溶けるのは当たり前なのに、いままでそれが怖かったり寂しかったりしたことなんてないのに、ああ、なくなっちゃったんだなっていまさらみたいに考えた。
「ん?」
それでも残るものってのは確かにあるらしくって、オレは水の中に小さな石を発見する。
小指の爪くらいの小さな石だ。あの氷みたくうっすらとはちみつ色に光ってる。きれいだなって思った。この世のなによりも愛おしい灯りだと思った。
なんだかようやく会えた気がして。
でも、もう二度と会えない気もして。
これはきっと、月明かりと初恋に似ている。
不思議な石を見せたら、漣っちは一言「無くしたと思ってた」って呟いた。
「……漣っちのなんすか?」
「いまはオマエのもんだろ」
落とし物なら返すっすよ。そう言えば漣っちはネコっちのような目でオレを見て、次の瞬間にはその真っ白な指先で摘まんでいたその石をぱくりと食べてしまった。
「え?」
「……ま、オレ様が誰かのもんになるなんてありえねぇからな」
「ええ? ど、どういうことっすか?」
漣の肩を掴んで揺するけど、答えも石も帰ってこない。いや、石は元々漣っちのものらしいからいいんだけど。
「ごちそーさん。くはは!」
漣っちがオレの手を掴んで笑う。氷みたいに冷たかったはずの手からは、滲むような熱が伝わってきた。やわらかい、やさしい光のような熱は満月に似ていた。