醤油、レモン、ポン酢 コイツと暮らし始めて十年。俺たちがこの家に住み始めて今年で八年目。
愛とか恋とかじゃなくて、ただ隣りにいるのが自然だった。妹を見つけて、弟を見つけた。俺たちが納得できる高みにだって到達した。その気になればマンションだって買えるんだ。現に円城寺さんはビルをまるっと買い上げたわけだし。
それでも俺はコイツとのんびり暮らしている。下町にはなりきれない、でも田舎と言うのは失礼な穏やかな場所。小さな駅には改札が一つしか無くて、八百屋があって魚屋があって、馴染みの洋食屋が一点。スーパーは二つ。老人が多い町だ。接骨院と銭湯が多め。そんなところ。駅から十五分近く歩いたところに立ってる築五十年の木造一軒家。二階建て庭付きで驚きの6LDK。毎年家中の畳を取り替えて暮らす、そういう生活。
結婚したほうが出ていく約束だ。そうやって、彼女も作らず俺たちは暮らしている。変わったことと言えば、たまに名前を呼ぶくらい。
*
梅のつぼみが膨らみ始めた。もうすぐこの庭にもメジロが来る。
「おい、スケジュール」
カレンダーにペケをつけながらコイツが言う。俺もあとで印をつけないと。
「後半に連ドラ。前半は空いてる」
「オレ様は後半に舞台稽古。あと四季のラジオにゲスト」
「四季さん、すごいよな。二十歳の頃からずっと持ってる番組だろ?」
俺もゲストで出たことがある。ラジオが始まってすぐだから、結構昔のことだけど。
「四季はどーでもいいだろ。じゃあ二週目だな。絶対仕事いれんなよ」
そう言ってコイツはスマートフォンをたしたしと叩く。慣れたのは数年前だと言うのに、いつ見たって『ようやく』という気持ちにさせられる。
「酒は?」
「買ってある。ビール二箱と、あと梅酒が飲み頃」
そう言って台所を指差す。床下で梅酒が俺たちに飲まれる時を待っているはずだ。黒糖でつけた三年ものと、去年ウイスキーでつけたやつ。
「あと日本酒」
「俺はビールがあればいい。飲みたいやつが買えよ」
別に買ってきてやったっていい。でもコイツは日本酒にうるさいんだ。漣も俺に買ってきてもらうつもりはなかったんだろう。出会った時と変わらない顔でニヤニヤと笑う。
「はやく日本酒の味わかるようになれよ」
「はいはい。オマエも納豆食えるようになれよ」
俺もカレンダーに印をつけていく。俺は青いペン。漣は赤いペン。約束の日には黒いペン。待ち遠しい火曜日に大きく黒いはなまるを書いた。
*
古い家にインターフォンの音が鳴り響く。指定した通り午前中。庭でバーベキューコンロの支度をしていた漣が俺を呼ぶ。
「タケル! 玄関!」
「わかってる!」
響いた大声に、同じくらいの音量で返す。俺は一旦、キッチン中から集めた調味料を置いて玄関に向かった。
「ありがとう」
宅配の青年に礼を言い、伝票に判子。ずっしりと重たい荷物を受け取り、それを庭に運んでいった。
「火、もうついてるぜ」
そう言って漣が近寄ってくる。届いた缶は一斗缶の半分くらいの高さ。パカッとあければ、ぎっしりと牡蠣が詰まっている。
これが俺たちが毎年待っている楽しみだった。缶一杯の牡蠣を焼いて、蒸して、酒と一緒に心ゆくまで楽しむのだ。そのためにスケジュールの調整までして真剣にこの時を待っている。忙しかった時じゃあ、絶対にできなかった遊び。
漣は牡蠣を食べたことがなかった。牡蠣を知ったのがアイドルとして売れてきてからなんだ。じゃあ食べよう、といきたかったが、その時にはもう俺たちのスケジュールはギチギチで、あたる可能性のある牡蠣は食べられなかった。俺も牡蠣を食べる機会を失っていた。
ここに引っ越して、頂点とって、夢を叶えて。落ち着いた俺たちは仕事を減らして、スケジュールを空けて二人で牡蠣を食べた。その時はこんなバカみたいな量を食べなかったけど、それから毎年牡蠣を食べてる。梅のつぼみがほころび始めるころ、庭でメジロを待ちながらビールをあおって牡蠣を食う。
何割かの牡蠣は取り出して広げたビニールに置いておいた。缶に酒を入れて、そのまま網に乗せる。空いた空間には牡蠣。焼いて、蒸して、家中の調味料を自由にかけて、牡蠣を存分に食らう。
「よし」
タライには大量の氷。そこに刺さったビールと日本酒。まあ、乾杯はビールだろう。縁側に座ってプルタブをあげる。
「乾杯」
「カンパイ!」
酒を飲む前からコイツは上機嫌だったし、俺も毎年のことながらわくわくしている。そういえば、お互いの喜びを隠さなくなったのはいつからだろう。別に、コイツじゃなくてもいい。でも、俺はコイツと喜びを分かち合っている。それが不思議でもなんでもないのが不思議だ。
ビールを一気飲みして、お互いにオッサンみたいな声を出す。俺たちもオッサンだから仕方ないと言うと、いつも円城寺さんに笑われる。円城寺さんのお嫁さんにも笑われる。あと、山下さんにも笑われたっけ、俺はまだ、出会った頃の山下さんの年に届いていない。
俺は早々に一缶あけて、もう一缶。アイツもう日本酒を傾けている。赤く染まった木炭の熱がここまで届きそうだ。
漣が立ち上がる。網を見れば牡蠣の殻が開いていて、軍手をはめた漣がそれを取り出して皿に移す。コイツはもう俺の分まで勝手に食べたりしない。
「おらよ」
俺も軍手をはめて、付属していたナイフで殻を開ける。そういえば、毎年ここで頼んでいるからナイフが溜まっていたっけ。なんとなく捨てられなくて、そのまま。そういうのがこの家には溜まってる。だって、この家は二人で住むには広いから。俺は場所さえあったら物を捨てられないのだと思い知って数年だ。
殻を開けると大きくてぷりぷりとした身が出てきて、海みたいないい匂いがする。溢れた汁が零れそうになったから、慌ててスープを啜った。
「あっづ!」
コイツはいつもかじりついて火傷をするんだが、俺は何も言わない。横で毎年聞いている悲鳴が今年も聞こえてきたから、俺は注意してその真珠みたいな身を口いっぱいに頬張った。
「っふ……あーうまい……!」
「うめー……」
何もつけなくても充分うまい。そして、そのままビールを一気に。缶を握りつぶして、俺は三本目。アイツは二つ目の牡蠣を食べ終えて、しゅわしゅわと日本酒がはじけるグラスを傾けた。
網に新しい牡蠣を乗せ、カンカンの蓋を開ける。そこに待っていたのは充分に蒸されて開きかけた牡蠣たち。俺は蒸した牡蠣が好きだ。いや、カキフライが一番好きなんだが。いつも余った牡蠣をフライにしようと言い合うのだが、いつだって俺たちは牡蠣を食べ尽くしてしまう。
缶からごっそり牡蠣を取り出して、漣にも手渡す。次はポン酢だな。漣はレモン汁を手にとった。
夢中で食べて、飲む。多分いまメジロが来たって気づかない。せっかくコンロを出したのに、野菜も焼かずにひたすら牡蠣を焼く。幸運なことに俺たちは牡蠣であたったことはないが、どちらかがあたったらこの恒例行事は終わってしまうのだろうか。俺は別にあたったってこのイベントをやめなくていいと思ってる。いや、実際にあたったらそんなことは思えないのかもしれない。漣はどうなんだろう。あたってみないとわからないか。
あんまり会話はない。俺たちの『いつも』だ。
「ポン酢」
「ん」
口数は多くない。でも、ポン酢を受け取る時に最低限の言葉で済むのは悪くない。
牡蠣に飽きた時のために用意したきゅうりをぽりぽり齧ったり、牡蠣の新しい可能性を探ってみたりする。コイツは何を思ったか、いきなり牡蠣をグラスに放り込んだ。
「うまいのか?」
「知らね。でもヒレ酒がうめーんだからいけんだろ」
そういって酒を飲み干した漣が笑う。「ほらな、」と言って手渡された酒はうまくもまずくもなかった。