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    85_yako_p

    カプ入り乱れの雑多です。
    昔の話は解釈違いも記念にあげてます。
    作品全部に捏造があると思ってください。

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    鋭百動物園デート。私だけのあなた的なやつです。(22/2/12)

    ##鋭百

    埋葬「マユミくんとデートがしたいな」
     百々人がうっそりと呟いた言葉は俺に向けられたものではなかった。もちろんそれは秀やプロデューサーに向けられたものでもなく、たったふたりしかいないレッスン室の生ぬるい空気に霧散してく。俺はその言葉を拾い損ねていて、百々人はスマートフォンを手に持ったまま画面の中で踊るトレーナーの足下を見続けていた。
     百々人の願いを叶えるなら、そのタイミングはいましかないんだろう。あと数十分ほどで秀が合流し、一時間もしないうちにレッスンが始まるのだから、いま、俺が何かを返すべきだ。
     百々人がそっと零した言葉はどこか薄氷に似ていて、それを砕かないように、あるいは溶かさないように慎重に拾い上げる。鈍く水滴でてらてらと反射するような危うさに、自分の浅はかさが滲まないように言葉を選ぶ。一瞬の逡巡に浮かんだ言葉はどれも不完全な気がしてしまい、ようやく吐き出した気持ちに舌がもつれた。
    「どこへ、行きたい?」
     どこへだろうと連れて行ってやるつもりだったし、俺は百々人がいればどこでもよかった。当たり前のように、俺は百々人のことが好きだった。
     分類上、この気持ちは初恋と括られるべきだろう。だが、そう呼ぶにはどうにも、生々しさが足りないような気がしている。不純物から乖離した油が水面に浮かんで虹色にたゆたうような、そういう忌避すべき美しいものを俺は持っていない。ケチのつけようのない、慈愛と呼ぶことすら許される庇護欲を持て余している。
     だから、百々人の願いを叶えることは自分を慰めることと同じことなんだろう。そこまで考えて少し自分自身に嫌気が差す。好きな相手が自分とデートをしたいと言っている、ただそれだけのことに対してぐるぐると考えているのは滑稽だ。思わず浮かびそうになった自嘲を押しとどめるのと同時に、百々人がスマートフォンから視線をあげる。
    「……動物園。動物園に行きたいなぁ」
     山手線を半周もすれば着くようなあどけない小旅行だった。近いがそこまで大きくもない動物園を提案したら、百々人は二つ返事で頷いた。
     それほど大きくない動物園だ。そこに行って、百々人は何が見たいのだろう。そこに百々人の見たい動物はいるんだろうか。
    「いつ行こうか」
     大切なことも聞かずにスケジュール帳を手に取った。もしも望む動物がいなかったら百々人は悲しむのだろうか。それでも百々人はスマートフォンを取り出して、指先を数回滑らせた。
    「今週の土曜日か、来週の日曜日。学校をサボるなら平日はいつだって暇だよ」
    「それは暇とは言わない。……では、土曜日に。待ち合わせ時間はあとで決めよう」
     スケジュール帳に真っ赤なペンで予定を書き込んだ。百々人は向けた視線をそのままに俺に近づいて、スマートフォンで動画を再生しながらステップの確認をする。百々人はもう動物園の話をしなかったし、デートが楽しみだなんて欠片も言わなかった。俺はただそれを受け入れてターンのタイミングを口にする。
     秀が来ても、レッスンが始まっても、帰りにファストフードを食べていても、夜に集合時間の確認をしているときも、百々人は土曜日が楽しみだとは言わなかった。

    ***

     冬の、寒い日だった。晴れているだけの日だ。吐く息は白く濁っていたし、百々人の鼻の頭は少し赤くなっていた。
     外と電車は温度差がひどい。乗車すればあっという間にからだが温まってじわりと汗が滲む。運良く座れた俺たちは肩を寄せ合って、何も言わずに目的地へ辿り着くまで電車に揺られていた。百々人は少し頼りないコートを羽織って大きめのトートバックを持っていた。俺のイメージする、軽薄な大学生そのもののような服装をしていた。
     到着のアナウンスに押し出されて人波に逆らわずに歩く。降りる人はそれなりにいたが全員が全員とも俺たちとは違う方向に歩き出すものだから、俺は少しだけ不安になる。百々人はにこにことしていて、ときおり赤く滲んだ指先にはぁ、と息を吹きかけていた。百々人は寒いね、と息を吐き出して、俺と目を合わせてにこりと笑う。
     動物園の入口までやってきたがそこに人間の気配はなかった。受付は閉じていて入口には鉄の柵が断絶を示している。そうして、わかりやすい位置に『本日、臨時休園』と書かれた張り紙が貼ってあった。
    「臨時……?」
    「休園……?」
     俺と百々人は同時に素っ頓狂な声を出してしまった。『臨時』も『休園』も意味はわかる。それでも、今日という日がそれだとは思わなかった。
    「すまない百々人」
    「え? ……ああ、謝らないでよマユミくん。臨時じゃあ仕方ないって」
     そう言って百々人は歩き出した。遠ざかる背中を見て、追うのも忘れて必死に考える。俺はどうにかして、百々人を喜ばせてやりたたかった。
     百々人、と呼び止める前に百々人はこちらに戻ってきた。平然とした顔で、両手には子猫くらいの大きさの石を抱えている。
    「……百々人?」
     百々人は俺の呼びかけに意味を見いだせなかったようで不思議そうな表情を浮かべる。そのあどけない視線に、それ以上の言葉がかけられなかった。百々人は俺を無視してまっすぐに鉄柵へと向かっていく。そうして、存在を主張している南京錠に、手に持った石を思い切り叩き付けた。
     ガンッ、ガンッ、ガンッ。
     理不尽な暴力だった。台風が感情を運んできたような、そういう八つ当たりに似た衝動を百々人は南京錠に叩き付けている。纏わり付いた鎖が硬質な音を立てて、石からはまとわりついていた土がぼろぼろと落ちて、それなのに当然のように百々人の指先はうっすらと赤い。
     しばらくそれを眺めていた。俺が止めるより早く、俺が怯えるより早く、百々人は呆気なく石を手放す。コンクリートに落下した石は、恨みがましい音を立てて転がった。
    「開かないや」
     へら、と笑って百々人はようやく俺の方を見た。俺はようやく百々人に近づいて、罪滅ぼしのようにその両手をとり、そっと包み込んだ。
    「……冷えている」
     ぎゅっと握る。俺の手だって冷えていたが、それでも与えられる熱が皮膚の奥でぐるぐると巡っていた。百々人がふわりと、「あったかい」と呟いた。
     帰ろう。いや、別の所に行こう。残念かもしれないが、別の所に行こう。動物園には来週行こう。たったひとつを口にする間もなく、百々人の手がそっと離れる。手だけではない。百々人はまた、たっぷりとした距離を取ってこちらを見た。
     俺を見ていたわけではないのだと気がついたのは、百々人がこちらに向けて走り出したからだ。そして、俺の目の前を走り去った百々人は大きくジャンプして、鉄柵の上の方を掴む。百々人のスニーカーが鈍色の柵を駆け上ってからだの半分が柵を登り切る。着地音が聞こえて、気がつけば百々人は柵の向こう側にいた。
    「マユミくん!」
     高揚した声がする。なんだかひどく珍しかった。
    「荷物持っててあげる! 投げて!」
     百々人の言葉は俺を疑っていない。俺が必ず自分のもとにきてくれると信じ切った、そういう類の声だった。望まれる居場所があること、それをこんなにも待つ人がいること、そして、それが他ならぬ百々人であること。全てが誇らしく、嬉しかった。
     俺はカバンを両手に持って、思い切りあちら側へと放り投げる。百々人はそれを大事に受け止めて、ほころぶような笑顔をこちらに向けた。俺は距離を取り、思い切り助走をつけて、飛ぶ。

    ***

     動物園には誰もいなかった。動物園にはなにもいなかった。
     休園日だからだろうか。それでも動物は生きているんだからそれらが飢えぬように餌をやる人間はいるだろう。そして来園者がいなくとも、動物だって生きて檻の中をうろうろしているのだと思っていた。
     それでも、なにもいなかった。檻の裏にはちゃんと彼らの居場所があって、見世物になっていない間はそこでのんびりと暮らしているのだろうか。知らないことはわからないが、そうとしか説明できない静寂のなかを俺たちは歩いていた。
     百々人は楽しそうだった。少なくとも退屈はしていないように見える。いつも通りの速度で歩いて、時折俺の方を見て笑い、檻を見かけたら嬉しそうに駆け寄った。そうして、振り向いて俺の名前を呼ぶ。
    「マユミくん」
     俺が一度離れた距離を詰めるのを待って、百々人は看板に目を向けてそれを読み上げた。
    「スマトラトラだって」
     トラトラだって。そう言って笑う。
    「トラトラ」
    「うん。トラって二回も言ってる」
     そうして、数分間立ち止まる。手すりにもたれかかり、まっすぐに何もいない檻の中をただ見つめていた。その華やかな色をした瞳には、からっぽの空間が映って揺れていた。
     俺には何一つ道理のわからないタイミングで百々人はこちらを見る。そうして、ようやく空っぽから離れて、また先ほどと同じように歩き出す。
     たくさんの檻を見た。ニシローランドゴリラ、シロテテナガザル、アメリカバイソン、ベンガルヤマネコ、アジアゾウ。そのどれにも、なんの生き物もいなかった。空気も、風も、空も、静寂も、取り巻くものすべてがひんやりと冷たかった。
    「雪が降ってたら、ホッキョクグマが出てきてたかもね」
     ホッキョクグマのいるはずだった空間を眺めながら、百々人はしんみりと呟いた。やはり動物が見たかったんだろうか。それでも、百々人はのんびりと檻を見つめていた。


     正午を少しすぎたあたりで俺たちはベンチに腰掛けた。双方食事は売店で買えばいいと思っていたが、当然売店はやっていない。俺たちは自販機で飲み物を買って、百々人の持ってきたスナック菓子とチョコレートを食べた。なんとなしに袋の中身がなくなるのが怖くなって菓子に手が伸びなくなっていた俺の口元に、百々人の指先がチョコレートを運ぶ。
    「マユミくん、はい」
     口に入れたチョコレートは甘かった。目減りするように、買ったときは温かかった茶が冷えていく。
     チョコレートがなくなる前に、百々人がそっと呟いた。
    「マユミくん」
     百々人の視線は俺を射抜いていた。俺は短く返事を返す。百々人が、そっと口を開く。
    「絵を描いていいかな?」
    「ん?」
     間の抜けた声を返してしまった。百々人は少しだけ息を吸って、その願望を口にした。
    「マユミくんのことをね、描きたいんだ」


     しゃ、しゃ、と鉛筆の滑る音が聞こえる。こんな広い空間でこんなに些細な音を捉えられる距離にいるのは俺だけで、まやかしめいた指先が動くのをただ見つめていた。
     百々人の大きなトートバッグから出てきたのは、ノートよりも一回り大きなスケッチブックだった。ぼんやりと思う。百々人は動物が描きたかったのかもしれない。
     百々人は集中していて、俺と紙を交互に見つめながら鉛筆を動かしている。俺はその真剣な目と、寒さで少し赤くなった鼻と、結ばれた唇と、かじかんでいるだろうに正しく動く指先と、時折冬風に吹かれて揺れる髪を、見つめていた。
     いくら時間がかかってもいい。こうやって、好きな人をのんびりと見つめられる時間は幸せなものだった。ただ、そういう幸いを考えるたびに、どこにもいなかった動物と、冷えた指先について考える。百々人の指先が鉛筆を手放したら、そっと握って、あたためてやりたかった。そうして、来週またここに来ようと約束を交わしたかった。
     少しだけ日が傾いたように思う。いまなら動物が気まぐれに檻の中をうろついてはいないだろうか。そんなことを考えていたら、百々人がそっと問いかけてきた。
    「遺影ってあるじゃない」
    「え……? あ、ああ」
    「遺影って写真だよね。ああいうの、描いた絵じゃダメだと思う?」
     脈絡のない会話も問いかけの形を取っているとそちらに思考が割かれるものだ。ダメ、なのだろうか。俺は知らないが、もしも写真のない人間なら絵を使ったりもするのかもしれない。そもそも写真でなければならないと誰かに聞いたわけでもない。俺はぼんやりと口を開く。
    「どうだろうな……」
     いままで俺が経験した葬式はどうだっただろう。考えて、なにひとつ思い出せないことに気がついた。白黒のイメージだけが夏の日差しのように揺らぎ、故人の顔を塗りつぶしていく。
    「……僕はダメだと思う」
     柔らかく掠れた声で、当たり前のように百々人は呟いた。
    「どうしてだ?」
    「主観が混じるから」
     百々人はなんだか諦めに似た吐息を滲ませて、愛おしげに視線でキャンパスをなぞる。
    「……人生を、乗っ取っちゃう」
     少しだけ悲しそうな声だった。きっと秀やプロデューサーでは気がつけない──いや、これは俺にしか出さない声だと自惚れる。そうやって、自分の中だけでも俺は百々人の特別になりたかった。
     鉛筆が紙を撫でる音は途絶えない。指先は淀みなく動き沈黙を肯定している。冷たい風でぱら、と乱れた若草色の前髪を直そうと手を伸ばした瞬間、百々人が顔を上げた。
    「できた」
     それは俺に投げかけられた言葉ではなかったように思う。生まれた子供に名前を与えるような、そういう声色をしていた。
     一瞬、存在が切り離されたように感じた。百々人は愛おしげにスケッチブックに描かれた俺に視線を下げて、瞬きの間もなく俺に語りかける。
    「これが、僕から見たマユミくん」
     よく描けた絵だった。人相書きとして貼り出せば俺のことは容易に見つけだせるだろう。きっと秀やプロデューサーに見せたって似ているという。ただ、先ほど百々人の言葉がひどいノイズになっていて、俺はマジマジとその絵を見つめ直す。
    「上手に描けている。……だが……」
     うまく二の句が継げない。詰まった言葉を百々人はただ待っている。
    「……俺は、こう笑うのか」
     指先で絵をなぞればあっさりと指が黒くなる。汚れることも気にせずに、そっとその表情をなぞった。
    「うん。マユミくんはね、僕の目にはこう見えるんだよ」
     柔らかな印象の絵だった。目尻が少し下がっていて、語りかけるように口が開いていた。
    「これはね、僕を呼ぶ時のマユミくん。こうやってね……キミは少しだけ笑って僕を呼ぶの。僕のワガママを聞いて、一緒に不法侵入までして、何にもいない場所にいくら連れ回したって……マユミくんは優しいんだ……」
     百々人は手を伸ばして俺の頬に触れる。雪のように冷えた指先で俺の唇に触れた。
    「……キミは生徒会長で、アイドルで、『眉見』だから」
     ぱっと、呆気なく指先が離れる。開きかけた唇が言葉を発する前に、百々人はパタンとスケッチブックを閉じた。
    「これが、僕だけのマユミくん」
     一度だけスケッチブックを抱きしめたあと、そんな時間は無かったかのように全てをトートバックに放り込んで百々人は言う。
    「行こう」
    「……ああ」
    「寒くなってきたね。ホッキョクグマが出てきてるかもしれないよ」
     立ち上がる百々人につられるように、俺も出したままにしていたペットボトルをしまおうと手に取った。百々人の手と同じように、それは悲しいほど冷たくなっていた。

    ***

     結局ホッキョクグマは出てきてはいなかった。俺たちはくるりと何もいない園内を一周して、なんの執着もなしに動物園を後にした。
     電車は暖かかった。氷のように冷たい鉄柵を掴んで冷えた手にじわりと血液が巡って少し痒い。それほど混んでいない車内でも座席は全て埋まっていて、俺たちは手すりの近くでひっそりと佇んでいた。
     百々人は不自然なほど何も言わない。ただ俺の言葉を待つように、時折視線を絡めてにこりと笑う。沈黙は心地よく、少しだけ眠たい。だからこれは言わなくてもいいことだ。
    「……楽しかったか?」
     なぜ、俺は百々人の笑顔だけでそう確信できなかったんだろう。
    「……マユミくんは?」
     ふいに、車内が大きく揺れた。
    「楽しかった」
     一度電車が停まり、アナウンスが入る。急ブレーキをかけたことだけが理解できた。
     百々人は楽しかったのだろうか。そう問い掛ける前に、口から気持ちがこぼれ落ちる。
    「百々人といられれば、なんだって楽しい」
    「そっか。……うん、僕も同じ」
     信愛にも、友愛にも、恋愛にも、どうとでも取れる言葉だ。それはどうしようもなく嬉しくて、どうしようもなく悲しくて──もどかしい。
    「ゴリラも、虎も、象も、ホッキョクグマも……なんにもいなくたって、僕は楽しかったよ」
    「そうか。……そうだな」
     アナウンスを聞いていなかったから、不意打ちのように電車が走り出す。少しだけ緩んだ心が口を滑らせた。
    「……不思議な日だった。不法侵入をして……何もいない動物園を見て……百々人、お前が絵を描きたいと、そう言いだした」
     百々人は絵を描くことに関してなにか特別な感情を持っていると俺は思う。怯えにも引け目にも似た、マイナスの感情だ。それなのに今日の百々人からは、そういう萎縮した気持ちが一切見受けられなかった。
    「……まぼろしのような時間だった」
     臨時休園。不法侵入。何もいない動物園。もしかしたら、もっと前から夢の中なのかもしれない。明日目が覚めたら、集合時間を決めたトークもなにひとつ残っていないのかもしれない。
    「じゃあ、いまの僕はマユミくんの見ている夢?」
     百々人がからからと笑う。そうして、俺の腕を軽く握った。
    「マユミくんは、僕の見ている夢?」
     現実だと、それだけを返すことがどうしてもできない。誤魔化すように握り返した指先をいたずらに絡めて、百々人は声を潜めてこう言った。
    「嫌だった?」
    「嫌ではない」
     今度は即答できた。これは偽ることのない本心だ。
    「じゃあ、怖かった?」
    「……少しだけ」
     からっぽの檻を思い出す。痕跡のない、不在に満ちた空間を思い出す。
    「……なかったことにしちゃおうか」
    「……え?」
     ぶしゅー、という間抜けな音と共に扉が開く。数人の乗客が降りて、老婆がひとり乗り込んだ。
    「明後日、マユミくんは動物園の話をして。僕は『なんのこと?』って返すから」
    「……どういうことだ?」
    「全部夢ってことにしちゃおう。うん、それがいい。それがいいよ」
     納得したように頷いて、百々人は3センチ差を埋めるように俺を見上げた。
    「……そう言われたら、それは百々人の演技なのか、本当に夢だったのかがわからないだろう」
    「あ、そうだね」
     百々人は一瞬だけ考えるように視線を逸らして、無邪気に笑った。
    「信じるしかないよ。僕のことを。……信じるのはキミの常識だっていい。あれは、あんなものは夢だったんだ、って」
     それでおしまい。そう言った百々人は俺の言葉を待たずに話題を変える。
    「僕、マユミくんのお葬式は行かない」
    「……え?」
     唐突な発言に思考が止まった。夢の話と葬儀の話が頭の中で繋がらない。うまく飲み込めない俺を置いて百々人は話し続ける。
    「僕には僕の、僕だけのマユミくんがいるから。さっき描いた絵を遺影にして、僕は誰も知らないところでキミを偲んでわあわあ泣くよ」
     誰にもあげない。そう言って百々人はトートバッグを抱きしめた。
    「きっと、そこで飾られる遺影は僕のマユミくんじゃないから」
     百々人は自分だけの俺が欲しいのだろうか。だが俺自身を差し出すには、俺には絡まる糸が多すぎる。生徒会長、眉見の二世、子供、孫、友人、仲間──百々人の恋人になれたとしても、繋がりを断ちきることは難しいだろう。そもそも、俺は自分が百々人にとっての何者になれるのかがわからない。
    「……俺は俺だ」
     真実なのかもわからない。嘘を吐いたという気持ちのほうが、どうしても大きい。
    「知ってるよ。だから、こんな絵はキミの中から消してしまっていいの。こんな絵があること、マユミくんは覚えてなくていい」
     百々人の抱きしめているトートバックの中には俺がいる。百々人から見た『眉見鋭心』が柔らかく笑っている。
    「ちゃんと信じてね。僕は今日なんて、ひとつも知らないって言うからさ」
     まだ百々人の降りる駅ではないから油断していた。知らぬ間に開いていた扉が閉まる刹那、百々人はホームへと駆け出しあっという間に姿を消した。

    ***

     風呂に浸かりながら足を伸ばす。思ったよりも疲れていた。
     俺は百々人に連絡することができなかった。今日という日をなかったことにするのが正解なのか、どうしてもわからなかったからだ。ひとつでも話題に出したら、それは百々人の言葉でなかったことになる。だからトーク画面を開いてすらいないし、動物園が本当に臨時休園していたのかすら調べることができない。俺が何も言わなければ、少なくとも今日という日は否定されたりしない。
     ガンガンと絶え間なく続く音を覚えている。八つ当たりのように理不尽で、がむしゃらに南京錠に石を叩き付ける百々人を覚えている。柵を乗り越えたときの感触も覚えている。からっぽの空間も、楽しそうな百々人のことだって、ちゃんと覚えている。
     たとえば百々人が「キミが好きだよ」とでも言いながらくちづけのひとつでもしていたら、俺は迷いもなくこの日の存在を願うと言えるのか。忘れないでくれと、みっともなく縋ることが出来たのか。なぜ俺は好きな相手と一日すごしたという思い出を残すかどうかためらっているのだろう。ただ少しだけ現実味がなくてこわかった。それだけなのに。
     きっと手の届く位置にナイフがある。百々人の言葉を肯定するだけで、俺は今日という日の『眉見鋭心』と『花園百々人』を消し去ることができる。からっぽの檻を見つめる百々人も、赤くなった指先も、その指先で差し出されたチョコレートの味も、少しだけ乱れた前髪も、全てなかったことになる。今日は臨時休園だったから早々に解散したことにして、何食わぬ顔で新しい約束を取り付けて、来週の日曜日に動物園に行けばいい。何もなかったという言葉を信じろと言う、百々人の願いを叶えてやればいいだけの話だ。
    「……どうしたって、話題に出したら百々人は今日をなかったことにする」
     夢ならそれでいい。でも本当にあったことなら、なかったことにするだなんてしてほしくない。だって、お前は俺の絵を描いたじゃないか。愛おしそうにそれを眺めていたじゃないか。

     意識に深く潜り、白黒をイメージする。俺の葬式には俺の写真が飾られている。喪服の群れの中に百々人の姿はない。
     百々人は今日の思い出を振り返って、遺影と呼んだ絵を見ながらたくさん泣くんだろう。誰とも、俺とすら共有できない思い出の中に、自分だけの『眉見鋭心』を見つめながら泣く。

     そうか、なかったことにするということは、誰にも渡さないということだ。なんだかそれは殺人に似ていた。もう誰も手を握れないところにしまいこむような、そういう甘やかさを俺は見つけてしまった。百々人の望みが、なんだかわかるような気がしていた。
     俺にも、俺だけの『花園百々人』がある。背徳感と高揚感が同時にせり上がってきて背筋がぞくぞくと震えた。
     そうして、気がつく。俺は今日の百々人を示すものを、何一つ持っていなかった。
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