艶めく指先 よろしくないと思った。もちろんそれは目の前にいる男ではなく、俺のこの感情が、だ。
ユニットメンバー最年長。頼れる先輩。最強の生徒会長。尊敬というラベリングをされて棚に納められた感情という名の瓶が、突然の嵐で割られてしまったような感覚だ。そこにはたまに感じる親しみやすさとか、ちょっとかわいいと思う気持ちなんかが入り込む余地はなくて、代わりに俺の不埒な感情が棚の一番取り出しやすいところに収まっている。こんなのは鋭心先輩に抱いていい感情ではない。誰に抱いたとしても、それはたとえば恋人というカテゴリに入り込めない限り、隠し通さねばならない薄暗い熱だった。
ふ、と見ただけだ。プロデューサーも百々人先輩もいて、俺と鋭心先輩もいる。そういう、当たり前の風景にそれはそっと紛れ込んでいた。
百々人先輩がプロデューサーと話し始めたあたりだ。俺たちは百々人先輩がどれだけプロデューサーを慕っているかわかっているつもりだったから、譲る──というのもおかしな言葉だけれども、口数を少なくしてふたりを見守っていた。
見守ると言っても片手間に、だ。俺はスマホを取り出して通知を確認していたが、気まぐれにふと視線をあげた。向かいに座った鋭心先輩も俺と同じように好きなことをしていたんだと思う。鋭心先輩が鞄から取り出したのは、手のひらで握り込めるほどの小さな容器だった。
ぱか、と鋭心先輩がそれをあけると中には溶けた蝋のような、豚肉を茹でたときに表面に浮いてくる脂のような、ぼってりとしたぬるりと白い固まりがあった。そういう保湿剤があることは知っていたが、実際に見るのは初めてだ。そういえば唇が乾燥する季節だな、と俺もリップクリームを取り出したはずなのに、一瞬だけ見つめた鋭心先輩に釘付けになってしまった。
そっと鋭心先輩の中指がつるりとしたオイルの表面をなぞる。目で見てもわからないほど薄くその固まりが削ぎ落とされて、代わりに鋭心先輩の指がじとりと重くなった。
丁寧に、過不足なく掬われた油膜が骨ばった指に導かれて唇を滑る。頬よりもわずかに赤くぽってりとした肉が、指先に押されてゆっくりと沈み込んだ。弧を描くことがあまりない、うっすらと血色を通わせるそれはどろりとしたオイルに包まれて、てらてらと鈍く光っている。
時間にしたら一分にも満たないだろう。それでも、どうしようもないほどに見惚れてしまった。心臓は思ったよりも冷静で、隠し通せないほど頬が熱い。鋭心先輩は何もしていない。ただ唇を保湿しただけなんだから、悪者がいるとしたらそれは俺だ。
俺がリップクリームを持ってぼんやりとしていたからだろうか。鋭心先輩がその、潤った唇を開く。
「どうした? 秀」
「あ、ああ、別に、」
説明する気もなければ、説明できる気もしなかった。大切にするべきな感情が勢いよく地面に落ちて割れていく。訪れた嵐をやりすごす術を俺は持っていない。
好きだったらよかったのに。恋だったらよかったのに。そういうの、全部わからないまま、ただ俺は鋭心先輩の唇を見ていた。