おしまいにうたううた。 音楽には種類がある。喜びの歌、解放の歌、憧憬の歌、勇気の歌、喝采の歌、怒りの歌、嘆きの歌。感情の数だけ、営みの数だけ、歌がある。
そして祝彩の歌があるように弔いの歌がある。終わりのための歌がある。
いま手の届くところには鋭心先輩の体温があって、夜の帳に覆われたゆりかごには生きるための鼓動がある。相反するように、テレビに映った鋭心先輩は鼓動を失っていて、棺桶に敷き詰められた花々に埋もれながら同じように瞳を閉じていた。
隣で眠る鋭心先輩の血が通った赤い頬と画面のなかの青白い頬。そのどちらも自分のものにしたいだなんて、そんな欲深いことを考えてしまう。
人生を分け合おうと誓った日、俺が結婚式で流す曲を書きたいと言ったら鋭心先輩は喜んでくれた。そうやって、人生の節目に俺の存在を許してくれることが誇らしかった。
なら、俺が幸せに過ごして、長生きをして、残されるという役目を引き受けて、鋭心先輩を弔う歌を書きたいと言ったら、この人はどんな顔をするんだろう。
怒るのだろうか。喜ぶのだろうか。嘆くのだろうか。笑うのだろうか。
隣で眠る鋭心先輩の血が通った赤い頬を撫でながら考える。先輩のためだけに作った子守歌を口ずさみながら、そんなことを考えた。