心臓が止まるとき ハートと言えば聞こえはいいが、ようは心臓。臓器のひとつだ。
心臓ひとつにつき生き物は一人、あるいは一匹で、人の心臓が九つ必要なら人間が九人いるのが当然で、ましてや心臓がほしいと言われれば、それは九人の死を意味する。心臓がなくなったら、死ぬしかないんだから。
ハートを奪うって酷いことだ。だって、恋を知る前のその人は死んじゃうんだから。恋をするなら自分の意思がいい。自殺なんて言葉を使う人はいないけれど、心臓を捧げて、それまでの自分を殺しちゃうなら自分の手でトドメを刺したいっていうのが僕の考えだ。それなのに、僕はあの人のハートが欲しい。僕の心臓をあげたっていいくらい、あの人の心臓はどうしても欲しかった。
「だとしたら、初恋が終わった人間はもう死人なのかい?」
雨彦さんはお酒を飲まない。少なくとも、僕の前では。
いま僕の目の前に雨彦さんはいないからどこで何を飲んでいようが関係ない。それなのに、僕は空想上の雨彦さんに返す。
「うーん。生まれ変わる、とかですかねー。あくまでハートが奪われて死んじゃうのは、恋をしていなかったときの時間ですからー」
一度にたくさん通販するんじゃなかったな。よっつののダンボールを束ねるときに元掃除屋から教わったコツを思い出して、それだけでこの空間に、僕の思考に雨彦さんがいることを許してしまう。せっかくコーラをやめてココアにしたっていうのに、これじゃ意味がなくって困る。束ね終わったダンボールを見つめながら、上出来だと雨彦さんが笑う。そのまま僕の心に腰掛けて、たったひとつしかここにないココアを、熱くもないのにふぅ、と吹く。
「まだ死んだことがないと言ったらどうする?」
「誰が?」
「俺が」
「ありえないでしょー? 雨彦さん、いい男だからねー」
僕よりも長く生きている雨彦さんが恋をしていないだなんて、そんなことは望んでない。もっともそれは僕の狭い世界で僕に窮屈な思いをさせる『常識』が植え付けてくる価値観で、本物の雨彦さんが恋をしたことがないって言ったら僕は簡単にそれを信じるんだろう。
「北村の心は?」
「あげたっていいんですよー。でも雨彦さんは受け取ってくれるのかなー?」
トドメを刺したあとの心臓ならあげたってかまわない。僕はあなたにトドメを刺されるのが嫌なだけ。つまらない意地だって知っているけれど僕にだって望みくらいある。
「それに、雨彦さんは何もくれないでしょー?」
「心外だな。心臓をもらうんだ……俺だって、同じものを返すさ」
「あー、そっか。違いますー。……同じだけの価値が無いんだ。僕と、あなたの心臓じゃあ」
雨彦さんが少しだけ笑うから、この雨彦さんは偽物なんだと思い知る。本当の雨彦さんはきっと、こんなことを言われたら見当もつかずにぽかんとするんだろうから。
「お前さんの心臓に、価値がない?」
「あなたの心臓に、僕の心臓ほどの価値がないんですー」
夢なのか、幻なのか。きっとどっちでもなくて、僕は一生来ない対話のシミュレートをしているだけ。むなしくなるなぁ。わかってるんだ。この男の心臓ひとつを手に入れたって、強欲な僕は絶対に満足しない。
「化け狐の心臓はいくつあるんだろうねー」
指を伸ばして雨彦さんの胸に触れる。スポンジみたいに沈み込んで、飲み込まれた指がひどく熱い。
「しっぽが九本もあって……心臓も九つくらいありそうだねー」
「そりゃ化け猫だ」
「雨彦さんが化け猫ならこんなに悩んでないよー」
あなたが誰にでもしっぽを振って舌を出すような化け猫だったらいいんだ。九つもある心臓をばらまいて、それ以上に他人の心臓を奪い取って。
「きっと雨彦さんの心臓はいくつもあるんだ」
それなのに、この男は誰の心臓も受け取りやしない。
「あなたは人間が好きだから。僕だけじゃない……そうでしょー?」
現実では絶対にこんなこと聞けない。現実の雨彦さんは、絶対にこんなこと言わない。
「特別なのはお前さんだけだぜ」
目を開けば最悪な気分しか残っていなかった。ダンボールを片付けながら寝落ちしてしまったせいで、ココアはもう冷めきっている。
恋はもうこの手にあって、あとは握りしめたナイフを振り下ろせば僕の心臓はたやすく止まる。そうやって死に絶えた心臓を捧げたい相手だってとっくに決まってるっていうのに、僕は未だに逃げ続けている。
「……こんなだったら、いやらしい夢を見てたほうがマシかなー……」
あられもない夢を見て、夢精して、あの男を性的な枠組みに落とし込めたらどれだけ楽になれるんだろう。惚れたら全部がめちゃくちゃになってしまうから、あんな見たこともないような大男でも抱けるんだろうなって思うのに、からだじゃなくて心が欲しいだなんて純情もいいところだ。
「……別にいいんだよねー、たったひとりが好きなだけならさー。それなら奪ってみせるって……言えなくても、思えるのになー……」
僕はあの人がほしいんじゃなくてあの人が愛をばらまいているのが気に食わないだけだ。それって僕はたんに彼の『特別』になりたいだけなんだって、涙がでるほどわかってる。
冷めきったココアはあっという間に口内にへばりついて甘ったるい膜を張っていく。飲み干さなけれればよかったんだ。