おいてかないで 勘違いをしていた。
どうしようもないほどロマンチックで、笑えるほどに愚かな間違いを。
「それじゃあ鋭心、お留守番お願いね」
お手伝いさんにも俺を頼むと言ってどこかに出かける母とそのあとを歩く父。そうやって物心ついたときから両親が揃って出かける日があった。それが毎年同じ日だということに気がついたのは、小学校で画数の多い漢字を習い始めたあたりからだ。
いったい何の日なんだろう。カレンダーを見ても何も書いていない。平日か、休日か、祝日か、雨か、晴れか。そのどれにも規則性はなく、ただ同じ日に両親は揃って出かける。あんなに忙しい、めったに休みが揃わない両親が、だ。
ふたりしてどこに行くのかと、珍しく食い下がって問い詰めた時があった。それは興味と呼ぶにはあまりにも幼い、たんなる子供の癇癪だ。両親が一緒に休む日など、俺の誕生日を含めて年に数日しかない。俺はただ、両親と一緒にいたかった。
「……鋭心、ごめんね。この日はお父さんとお母さんにとって、とても大切な日なの」
そう母は言った。
「何の日なの?」
本当は、自分が一緒にいてはいけないのかと聞きたかったんだと思う。ただそれはとんでもないワガママだったから、俺はこうとしか聞けなかったんだ。
「……お母さんたちにとって大切な日なのよ。忘れちゃいけない大切な日で、鋭心は連れていけないの。……だから、ごめんね」
母は嘘を吐かなかった。でも本当のことも言わなかった。こういう秘密が俺と両親の間には沈黙のように揺蕩っていたのだと、今はわかる。
「……ワガママを言ってごめんなさい」
「いいえ。一緒にいられなくて……お母さんこそごめんなさいね」
少し先に車に向かった父が戻ってきた。お互いに謝りあう俺と母を見て何かを察したのだろう。普段のようなおおらかな声で「今度埋め合わせをするから」と笑い、母を連れて出かけていった。その手には、大きめの鞄を持っていた。
俺は寂しかったけれど、両親がそう言うならと納得はしていた。そうして毎年、両親がいない時間にこの日はなんの日なのかを夢想した。
父が母にプロポーズをした日かもしれない。ふたりが知り合った日かもしれない。ふたりが初めてデートをした日かもしれない。もしかしたらふたりが初めてキスをした日かもしれない。そういう、ずいぶんとロマンチックなことを考えていた。
あの日、あの手帳を見るまでは。
「そうか……」
今年もこの日がきた。ふたりきりで出かける両親の背を見送りながら思う。あの手帳の記入が途絶えた日と今日という日付は一致している。俺はようやく理解した。今日は──毎年両親が揃って出かける日は、生まれてこなかった弟の命日なのだろう。大きな鞄に入っていたのはデートを楽しむために必要な物などではなく、きっと、喪服だ。
父も、母も、俺が全てを知っていることを知らない。ふたりとも、秘密は守られていると思っている。だから俺は弟を想い、墓前で手を合わせることも叶わない。
「……一緒にいたかった」
あの日の、幼い頃の自分と願いが重なって滲む。
「……連れて行って……」
終ぞ口に出来なかった願いが零れて霧散する。
連れて行って。その言葉がどのような意味を持って発されたのか、俺自身にもよくわかっていなかった。